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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月23日(月)〜11月27日(金)
今週は、「徳川吉宗暴れん坊が行く!」。江戸幕府八代将軍として、享保の改革を推し進め、
タガの緩みかけた世の中の建て直しに奔走した徳川吉宗。
興味深いエピソードのあれこれをご紹介してまいります。


11月16日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

11月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「八代将軍誕生」
大ヒット時代劇シリーズ、暴れん坊将軍。 徳川吉宗といえば、あの番組での、颯爽とした松平健さんを思い浮かべる方も多いかと思います。 実際の徳川吉宗は、どんな人物だったのでしょう? 徳川吉宗は、貞享(じょうきょう)元年、1684年、 紀州藩…現在の和歌山県ですが、その紀州藩主、 徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれています。 ただし、二番目の兄は幼いうちに亡くなっているので、 実質的には三男ということになるわけです。 母親は側室の「お由利の方」、下級藩士の娘とも、 医者の娘とも、あるいは熊野に巡礼にやってきた娘… ともいわれますが、その素性はよくわかっていません。
元禄十年(1697年)、越前、現在の福井県に、 三万石の領地を与えられました。 普通なら、ここで地味な生涯を送っていたのでしょうが、 宝永二年(1705年)、五月に長兄が亡くなり、 さらに九月に次兄、すぐ上の兄も亡くなってしまったのです。 ここで、まず回ってくるとは考えられなかった、 徳川御三家の一つ、紀州藩の藩主を継ぐことになりました。 この時、吉宗、弱冠二十二歳。 藩主となった吉宗は、傾きかけていた財政の建て直しに 奔走することになります。スローガンは「質素倹約」。 江戸では、何かと派手な消費生活がもてはやされ、 きれいな着物を身に着けたり、 山海の珍味を口にすることが流行していた時代です。 しかし吉宗はそんな誘惑に脇目も振らず、 とにかく地味な毎日を送っていました。
その一方で、新田開発や用水工事などに力を注ぎ、 年貢の収入増加を図っていたのです。 この結果、藩の財政は見事に立ち直り、財政も黒字に。 紀州の名君、徳川吉宗の名声は、江戸でも評判となりました。 さて、その頃、江戸では大変な騒ぎが起きていました。 七代将軍・家継が、わずか八歳で病死してしまったのです。 もちろん、この若さでは世継ぎなど設けることはできません。 徳川宗家の跡取りがいないという緊急事態です。 こうした万一の事態に備えて、水戸、尾張、紀伊の いわゆる「御三家」が設けられていたわけですが、 さて、次の将軍は誰になるか。
先ほどお聞きいただいた()師匠の落語「紀州」でも、 この大騒動を取り上げているわけです。 いろいろな噂も飛び交い、謀略説なども流れましたが、 結局は紀州藩を見事に立て直した吉宗に白羽の矢が立った。 藩主にすらなるはずのなかった四男坊が、あれよあれよと 言う間に、天下の将軍様になってしまった、というわけです。

11月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「目安箱と養生所」
将軍となった徳川吉宗は、広く民の声を政治に反映させるため、 有名な「目安箱」を設けました。 「目安」というのは、訴えを書いた文書のことです。 何か訴えたいことがあれば、将軍に直接文書で訴えなさい。 どんな内容でも処罰することはありません。 直々に開封して、その言い分がもっともであれば、 政治に反映させよう…と、いうわけです。 目安箱が置かれていたのは江戸城・辰の口と言いますから、 現在で言えば東京駅、丸の内北口近く。 ここに、毎月二日、十一日、二十一日の三回、 木製で上に銅が張られた箱が置かれます。 で、ここに、二寸といいますから、6センチほどの 穴が開いて、ポストのように書状を中に入れられる仕組み。 直訴したい人は、住所・氏名を書き添えて、 この箱の中に入れる、というシステムになっておりました。
で、ここに青山に住む山下幸内(こうない)という浪人者が、 思い切った投書をしたんですね。いわく。 「将軍様が紀州藩の財政を立て直したのは素晴らしい。 しかし、そのやり方を幕府にも当てはめるのは筋違い。 吉宗様は、将軍として不適格だと思います」 普通なら、即座に首をはねられてもおかしくない内容です。 ところが、吉宗は、この山下さんを逆にほめたんですね。 で、老中や奉行などを呼んで、こう叱ったそうです。 「内容が妥当かどうかはともかく、浪人者でありながら、 自分の身の危険もかえりみず、余に直言してくれた。 ところがお主たちは、余の側近にも関わらず、 耳の痛いことは、一切口にしないではないか!」 吉宗は、山下さんの意見を容れはしませんでしたが、 その勇気を褒め称え、ご褒美を与えました。 世間で評判となった山下さんの家には来訪者が引きもきらず、 困り果てた山下さん、とうとう引っ越さざるを 得なかったんだそうです。 どこか体の調子が悪いな…と思えば、気軽に病院に行ける。 現代社会に生きる私たちにとっては、 ごく、当たり前の行動でございます。 ところが、江戸時代には、そういうわけには行かなかった。
貧しい人々は、満足な医療を受けることもなく亡くなって行く。 この現状を何とかしていただけませんか…と、目安箱に 投書したのが、街医者の小川笙船(しょうせん)という方。 おお、それは是非やりなさい…と吉宗が取り上げて、 設置されたのが「小石川養生所」。 黒澤明監督の名作「赤ひげ」の舞台となった場所です。 現在、跡地は「小石川植物園」となっており、その一角に、 かつて養生所で使われた井戸の跡が残されています。

11月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「鷹狩り、大好き!」
目黒の里に、鷹狩りに出かけたお殿様。 立ち寄った茶屋で食べたさんまの味が忘れられず、 そこから起きる騒動を描いたおなじみの落語です。 お話のモデルになったのは、徳川吉宗では?…という、 そんな説があるほど、吉宗は「鷹狩り」が大好きでした。 もともと、鷹狩りは、武士の嗜みとして、家康を始め、 二代将軍の秀忠、三代の家光…と、将軍たちも、 皆さん、大変、お好きだったようでございます。
ところが、五大将軍に徳川綱吉が就任すると、 「生類憐みの令」が出され、殺生が禁じられたため、 「鷹狩り」も、長い間、行われることはありませんでした。 また、既に大阪の陣から百年余りが過ぎて、 泰平の世が長く続いたため、 馬にも乗れない武士が増えていたそうです。 「何とかしなければ、いかんのう」 現状を重く見た将軍吉宗は、もう一度、武士たちを鍛える… そんな目的もあって、大いに鷹狩りを行いました。 「生類憐みの令」が出されていた時期、 野良犬の世話係をさせられていた、 鷹狩りのプロフェッショナルたちは大いに喜んだそうです。 それにしても、吉宗が行った鷹狩り、実に三百八十八回。
もちろん、家康公を見習い、武士を鍛えるという 大義名分があったにしても、「鷹狩り」自体が、 そうとうお好きだったことは間違いないでしょう。 江戸には、中野や品川、葛西など、六ヶ所の「鷹狩り」 フィールドが設けられましたが、吉宗が一番好きだったのは、 やっぱり「目黒」だったそうです。 鷹狩りを始めとする狩猟に欠かせないのが「馬」。 吉宗は、自らも乗馬が大好きでしたが、当時の日本の馬が、 小さく、脚も遅いのが不満でした。 今で言えば、ポニーのような馬しかいなかったんですね。 「もっといい馬が、どこかにおらんかのう」 上様、ペルシャには、立派な馬が沢山いるそうでございます… 何、本当か、早速連れて参れ!…という話になりまして、 享保十一年(1726年)、オランダ人がペルシャの馬、 現在で言う「アラブ種」の馬を将軍に献上いたします。
これは素晴らしい、どんどん輸入せよ、と、吉宗。 その後およそ十年にわたって、二十七頭が輸入され、 房州・佐倉の幕府直営牧場で種牡馬となりましたが、 残念ながらこのペルシャ馬、 スピードはあるものの、持久力に乏しかった。 原野を駆け回る鷹狩りには向いていないということがわかり、 その血統は広まることなく、終わってしまったようです。

11月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「甘藷を食べよう!」
だんだんと寒くなってまいりますこの時期、 あったかい石焼きイモ、実にウマイものですよね。 石焼きイモに使う「さつまいも」が、栽培され始めたのも、 徳川吉宗の時代でございます。 吉宗が将軍になって十七年目の享保十七年(1732年)、 この年は冷夏であり、またイナゴが大発生して、 中国・四国地方を中心に、大きな飢饉が起きました。 これにより、米の値段が急上昇し、江戸では打ちこわしが 起きるほどの騒ぎとなったのです。ところがこの年、 薩摩では飢え死にする者がほとんど出なかった。
「いったい、何を食べていたのじゃ?」 「甘藷でございます」甘藷、すなわち、サツマイモ。 天候不順に強く、荒れた土地でも栽培が可能で、 しかもカロリーが高いというこの優れた農作物を、 なんとか全国で栽培することはできないだろうか? 相談を受けたのが、名奉行・大岡越前。 越前は、かねてからサツマイモ栽培を熱心に研究していた学者、 青木昆陽を吉宗に紹介いたします。 昆陽は、吉宗の命を受け、薩摩から種芋を取り寄せると、 江戸近郊で、サツマイモの試験栽培を始めました。
そのうちの一箇所が、房州の馬加(まくわり)村。 現在の千葉市、花見川区の幕張地域でございます。 ここで収穫された芋が、種芋として各地に配られ、 サツマイモ栽培は全国へと普及していきました。 後に天明の大飢饉が起きたとき、サツマイモは、 関東周辺に住む多くの人々の命を救ったのです。 現在、京成幕張駅近くには「甘藷試作の地」と刻まれた 大きな石碑があり、向かい側には昆陽を祀った 「昆陽神社」が建てられています。 また、京成線とJR総武線の下を通る地下道の名前も、 「幕張昆陽地下道」。いかにここ、幕張の地で、 青木昆陽が尊敬されているかがよくわかります。
さて、徳川吉宗は、サツマイモも好きでしたが、 女性も、また大好きでした。 若くして奥様を亡くされたあとは、もう、遊び放題。 見た目の美しさにはこだわらないほうで、 「貞節で、嫉妬深くないのがいいんだよ」と語っていた。 あるとき、大奥で美しい女性をリストアップせよ、 そんなお達しが出たので、役人が張り切って、 五十人ほどの選りすぐりの美女の名前を書き出しました。 すると、あろうことか、吉宗、全員にヒマを出しちゃった。 「上様、いったい何を考えているのですか?」 「美しい女は、いくらでも嫁に行けるだろう? 大奥では、そうじゃない女を雇ってやろうよ」 徳川吉宗、ヒジョーに懐の深い方だったんですね。

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