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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月21日(月)〜12月25日(金)
今週は、「麗しの島 台湾今昔物語」。
歴史探訪、初の海外編、 琉球諸島の南西200キロメートルに位置する、
常夏の島・台湾を舞台にお送りしてまいります。


12月21日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「実録! 国性爺合戦(こくせんやかっせん)」
近松門左衛門の傑作、「国性爺合戦」。 明(みん)国人鄭芝龍(ていしりょう)と、 日本人の間に生まれた和藤内(わとうない)が、 清(しん)に滅ぼされた母国再興のため、 大陸に渡って大活躍するという物語です。 和藤内のモデルとなった実在の人物、鄭成功は、 寛永元年(1624年)、長崎・平戸に生まれています。 物語では、見事に南京を攻め落とし、 明朝を再興することになっておりますが、 実際の鄭成功の軍勢は、清との戦いに敗れました。 そして向かったのが、台湾島です。 ここで、台湾の歴史を、かいつまんでご紹介しましょう。
数千年の昔から、台湾には、いくつもの先住民族が 暮らしていました。 七世紀の始め頃、大陸からやってきた漢民族が、 この島を「発見」。十四世紀になると、中国、当時の元の 勢力に組み込まれます。そして、日本で言えば江戸時代の 始め頃になると、台湾は欧米列強の勢力争いに巻き込まれ、 1642年にはオランダが支配するようになります。 大陸での戦いに敗れた鄭成功が、 台湾に向かったのは1662年のこと。 戦闘の末、オランダ軍を撃退し、 ここに明の亡命政権を樹立することになったのです。 台湾の地で、勢力を蓄え、再び南京を目指すつもりでしたが、 しかし、戦いに疲れたためか、鄭成功は、この年、死去。 後を息子が継ぎましたが、勢力は次第に衰え、 およそ二十年の後、とうとう清に滅ぼされてしまうのです。
台湾が、世界史の舞台に登場するのは十五世紀のこと。 大航海時代、この島を見たポルトガルの船乗りが、 「なんて美しい島なんだ!」と叫んだ。 そこで、台湾は、ポルトガル語で「美しい」という意味の、 「フォルモサ」と呼ばれるようになりました。 欧米では、この「フォルモサ」という呼び方が、 用いられることも多いのだそうです。 確かに、熱帯、そして亜熱帯に属しているため、 一年を通して緑豊かな台湾は、実に美しい島。 山岳地帯は、世界的にも珍しい昆虫、 中でもチョウが生息することで知られています。 作家の向田邦子さんは、昭和五十六年(1981年)、 台湾で起きた飛行機事故のため亡くなっていますが、 旅行の目的は、美しいチョウを見に行くことでした。

12月22日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「嘉義農林学校 甲子園へ行く」
明治二十七年(1894年)から翌年にかけての 日清戦争を経て、日本による台湾の統治が始まります。 この時から、昭和二十年(1945年)の敗戦まで、 台湾には、日本から、さまざまな文化がもたらされました。 その中の一つが「野球」です。 大正時代、日本列島は野球熱に包まれ、 大正四年(1915年)には、現在の夏の甲子園の前身、 全国中等学校優勝野球大会が豊中球場にてスタート。 大正十三年(1924年)、甲子園球場が完成すると、 野球ブームは、さらに勢いを増すことになったのです。
同じ頃、一人の野球青年が台湾へ渡ります。 近藤兵太郎(こんどう・ひょうたろう)。 明治二十一年(1888年)、四国・松山生まれの近藤は、 松山商業から早稲田大学に進学、後に母校のコーチとなり、 全国大会ベスト8という輝かしい実績を残しています。 台湾の野球を、自分の手で育ててみたい。 そんな夢を抱いていた近藤は、台湾中部の都市、 嘉義に創立された嘉義農林学校の監督に就任。 台湾の全土をくまなく回り、選手をスカウトして歩きました。 土日も休まず、日が暮れた後もボールに石灰を塗って ノックをするといった凄まじい特訓でチームを鍛え上げます。 昭和六年(1931年)、嘉義農林は、台湾予選を勝ち抜き、 初めての甲子園切符を手に入れました。 レギュラー9人のうち、日本人が三人、 そして「本島人」と呼ばれる台湾人が二人、 残りの四人は「高砂族」と呼ばれる台湾の先住民族でした。 近藤監督は、民族差別など、一切しなかったそうです。
2回戦から登場した嘉義農林は、緒戦で神奈川商工を、 3対0と完封、ベスト8へと駒を進めます。 続く準々決勝では、札幌商業を19対7、 さらに準決勝でも小倉工業に10対2と連勝。 大会前は、下馬評にも上らなかったチームが、 小気味のいいプレーでファンをひきつけ、8月21日、 決勝で中京商業と対戦することになりました。 試合は二回まで0対0。三回の裏、中京商業はツーアウトから 3本のヒットとフォアボール、キャッチャーの悪送球で 2点を先制。続く四回の裏も2点を追加し、リードを広げます。 嘉義農林も、毎回のようにランナーを出しますが、 中京の堅守の前に得点を挙げることができず、 4対0のままゲームセット、惜しくも準優勝に終わります。 現在、嘉義の野球場前には、嘉義農林の記念碑が建てられ、 初出場・準優勝の快挙を現在に伝えています。

12月23日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「アジアの歌姫」 台湾が生んだアジアの歌姫、テレサ・テン。
テレサの父親は、中国・国民党軍の軍人で、 1949年、中華人民共和国の成立と共に台湾へ渡ります。 四年後の1953年(昭和二十八年)、テレサが誕生。 幼い頃から音楽が大好きで、ラジオから流れる美空ひばりの 歌声に、耳を傾けていたそうです。 十一歳のとき、ラジオ局の「のど自慢」で 優勝したのを皮切りに、各地のコンテストで連戦連勝、 「天才少女」として注目を集めます。
十四歳でテレビのレギュラー番組をもち、レコードデビュー。 そして十六歳で主演映画を撮影するなど、アジアを代表する スターの一人へと成長していきました。 1974年(昭和四十九年)には、日本でもデビュー。 「空港」のヒットで、レコード大賞の新人賞に輝いています。 テレサ・テンの日本での黄金時代は、1980年代。 「つぐない」を始め、「愛人」「時の流れに身をまかせ」など、 作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのコンビによる 作品を次々に大ヒットさせていきます。
1989年(平成元年)、天安門事件に際し、 香港で民衆支援のチャリティ・コンサートが行われます。 テレサは最初、出演をためらっていましたが、 テレビを見ていて、じっとしていられなくなり、 ノーメイクのままで会場に駆けつけ、 中国当局が歌うことを禁じていたフォークソング、 「私の家は山の向こう」を歌いました。 テレサは、天安門事件の後、中国の影響の強い香港を離れ、 パリへ移住。 そして1995年(平成7年)5月8日、旅行先のタイ、 チェンマイで喘息の発作による呼吸困難のため死亡、 まだ四十二歳の若さでした。遺体は故郷・台湾に運ばれ、 5月28日、盛大な葬儀が営まれました。 墓地は台北から車でおよそ1時間、 「金宝山墓苑」の一角、「テレサ・テン公園」の中にあります。

12月24日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「疾走! 台湾新幹線」
台湾新幹線、正式名称「台湾高速鉄道」が開通したのは、 おととし、2007年のこと。 台北から高雄(たかお/かおしゅん)の間、 およそ350キロを一時間半ちょっとで結びます。 新幹線の開業以前、台湾の北部と南部は、 主に飛行機で結ばれていました。
しかし、新幹線は、飛行機よりも値段が安く、 気軽に乗れることもあり、航空会社は次々に撤退しています。 この台湾高速鉄道で走っている列車は、「700T」。 JR東海とJR西日本が共同開発したもので、 日本の東海道・山陽新幹線700系をベースに作られており、 車内の様子はよく似ています。 700Tの「T」は、台湾の頭文字。 現地の気候や地形、また関係する法律などに合わせて、 カスタムメイドで作られているというわけです。 日本の新幹線と大きく違うのは、緊急の際、 非常口となる座席があって、窓ガラスを叩き割るための ハンマーが備え付けられていること。 これは、ヨーロッパの列車で、よく見られるものです。 台湾高速鉄道は、当初、ドイツとフランスの技術を導入して 建設されることが決まっていました。
ところが、契約を結んだ後で、ドイツで大規模な事故が発生。 また、台湾でも大地震が起きたことで、 「やっぱり、地震のことを考えて作られている、  日本の新幹線のほうが安心じゃないの?」という話になり、 契約の相手先を日本に切り替えるという騒ぎになります。 これ、当然、フランスとドイツは面白くありませんから、 違約金を寄越せという話が出てくる。 結局、車両は日本、電気系統はヨーロッパ、 そして土木工事は国際入札という、寄り合い所帯での スタート。運行開始からしばらくは、日本の新幹線の車両を、 フランス人が運転するというスタイルで営業が行われました。
さて、列車の旅の楽しみといえば、ビール… という方も多いのではないでしょうか。 ところが、台湾では、基本的に、列車の中で、 アルコール類を販売することはありません。 これは、酔って騒ぐのを防ぐため。 台湾では、列車の中で酒に酔って騒いでいるのを発見されると、 次の駅で強制的に降ろされ、素面になるまで 再び乗車できない…という決まりがあります。 しかし、新幹線では、せいぜい2時間の乗車時間だから、 まあ、ビールぐらい、いいんじゃないの? という話になり、 今年の六月から、一つの車両につき、8本だけ、 缶ビールを売ってもよい、ということになったんだそうです。 ビール好きの皆さん、台湾新幹線の車内でビールを見つけたら、 すぐ買っておくことをお勧めします。

12月25日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「台湾最南端 恒春半島」
台湾の地図を見ると、ほぼ楕円形をした島の南の端に、 尻尾のように飛び出した部分があります。これが恒春半島。 「こうしゅん」は「恒」に「春」と書く、 現地の読み方で申し上げますと「ホンチュン」。 文字通り気候温暖で風光明媚な土地。 もっとも、緯度から申しますと完全に熱帯で、 年間平均気温は、摂氏25度。 事実上「春」ではなく、「夏」ということになりますね。
恒春で、最も有名な場所といえば「恒春古城」です。 中国の「お城」は、日本と違って、町全体を城壁で囲み、 何箇所かに門が作られるタイプのもの。 恒春には、城壁や城門が、およそ百二十年前に作られた当時の ままで残されており、国の史跡となっています。 この恒春のお城、東門からすぐのところにあるのが、 「出火(しゅっか)」という名所。 ここは、地面のあちこちから天然ガスが噴き出していて、 自然に発火している面白い眺めが見られます。 売店では、アルミ箔のフライパンに入ったポップコーンなどが 売られていて、自分で加熱して食べられるんだそうです。 静かな街だった恒春は、去年から、 たくさんの観光客で賑わうようになりました。
台湾の映画史で、最大のヒットとなった、 「海角七号 君想う、国境の南」の舞台となり、 その撮影場所を巡るファンが押し寄せてきたからです。 街のあちこちには「海角七号 ロケ地」の看板が掲げられ、 公開から一年四ヶ月余りを経た今でも、 人気は衰えることを知りません。 映画のストーリーを、ざっとご紹介しておきましょう。 戦後間もない台湾で、愛する台湾人の女性を置き去りに、 日本人の男性が帰国することになる。 港に残った女性に向けて、男性は海の上で、尽きせぬ思いを 七通の手紙に綴って参ります。 それから六十年後、ロックミュージシャンの夢破れ、 故郷・恒春で郵便配達をする青年が、宛先不明の小包を 手にします。中に入っていたのは、六十年前の、あの手紙七通。 映画は現在と過去を行き来しながら進み、 郵便配達の青年と日本人モデルのラブストーリーも絡んで、 時に面白く、時に悲しいエピソードが綴られていきます。

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