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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

2月15日(月)〜2月19日(金)
今週は、「VIP イン・ジャパン」。戦前から戦後にかけ、日本を訪れた歴史上の有名人、
その来日中のエピソードをご紹介して参ります。


2月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは「アインシュタイン博士」
リヒャルト・シュトラウス作曲、 交響詩「ツァラトウストラはかく語りき」。 映画「2001年宇宙の旅」でおなじみのメロディです。 「2001年宇宙の旅」は、相対性理論を映画化した作品、 と呼ばれておりますが、 その「相対性理論」を唱えたのが、本日の主人公、 アルバート・アインシュタイン博士でございます。 明治十二年(1879年)、ドイツ生まれのユダヤ人。 後にイタリアからスイスへ移り、ベルンの特許局で、 見習い技師をしながら、独学で物理学を学んでいました。
明治三十八年(1905年)、アインシュタインは、 ドイツの物理学雑誌に、特殊相対性理論に関する 論文を発表し、センセーションを巻き起こしたのです。 この業績で、各地の大学から引っ張りだことなり、 大正三年(1914年)にはベルリンに移り住みます。 そして大正十一年(1922年)、雑誌社・改造社の 招きに応じて、日本への講演旅行が実現したのです。 マルセイユから船に乗って、香港経由で日本へ。 その旅の途中、十一月十日には、ノーベル賞受賞が決定。 天才を待ち受ける日本のフィーバーぶりは、この知らせで 正に頂点へと達したのです。
十一月十七日、神戸に到着すると、埠頭は黒山の人だかり。 群集の中には、現在の鳩山由紀夫総理大臣のお祖父様、 鳩山一郎も含まれていたと申します。 この晩は京都・都ホテルに宿泊し、翌日汽車で東京へ。 駅には大群衆が集まり、博士はこんな談話を残しています。 「私の生涯に、こんなことはありませんでしたよ。 アメリカに行ったときも大騒ぎでしたが、 こんなに真心のこもった歓迎はありませんでした。 日本人が科学を尊ぶためでしょう。 ああ愉快だ、心からうれしい」
十一月十九日、慶応大学で初めての講演。 二千人の聴衆が詰め掛ける中、途中一時間の休憩を挟み、 エンエン六時間に及ぶ長い長い講義でしたが、 途中、席を立つものなど一人もいなかった! 内容はチンプンカンプンでも、まるで歌を歌うような 博士の名調子に、一同、酔いしれていたのです。
アインシュタイン博士は、このあと、日本各地を回り、 四十日間ほどの滞在の後、十二月二十九日、 北九州・門司から、再び船で帰国の途に着きます。 最後の日、「餅つき」が行われているのを見た博士は、 「アレハナンデスカ?」と興味を持ちます。 そして自ら赤い鉢巻を締めて、楽しそうに餅をついたとか。 滞在中、日本がとても気に入った博士はいつもニコニコ、 笑顔を絶やさなかったそうですが、ごくまれに、 とても不愉快そうなしかめ面を見せることがありました。 それは、同行していた奥様に、大好きなタバコを たしなめられる時だったそうです。

2月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場いたしますのは「チャーリー・チャップリン」
世界の喜劇王、チャーリー・チャップリンもまた、 日本をこよなく愛したVIPの一人でした。 チャップリンはその生涯に四回、来日していますが、 最初に日本にやって来たのは昭和七年(1932年)。 五月十四日、土曜日の早朝、チャップリンを乗せた船が 神戸の岸壁に近づくと、港には凄まじい人だかり。 NHK大阪放送局(JOBK)は、この模様を 全国に向けて実況生中継するという騒ぎ。 「只今船が近づいてきました。いらっしゃい、チャップリン!」 興奮するアナウンサーの声が、電波に乗って、 日本の隅々まで伝えられていきます。
サイレント映画の大スターだったチャップリンですが、 トーキーの時代となっても、「黄金狂時代」「街の灯」 そして「サーカス」と、長編映画が次々に大ヒットしていた。 そんな時期の来日だったのです。 チャップリンは三宮駅から汽車に乗り込む予定でしたが、 噂を聞きつけたファンが集まり、身動きも取れないような 状態だということで、急遽、神戸駅に向かいます。 チャップリン一行の乗り込んだ特急・つばめは、 お昼過ぎに神戸を出発。大阪、京都、名古屋、横浜、 停まる駅、停まる駅、歓迎の人、人、人。 東京駅到着は午後九時十九分、駅周辺に集まった人の数、 実に八万人! 当時の新聞記事は、 「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えております。
翌五月十五日、チャップリン一行は 犬養首相に面会する計画がありましたが、 両国国技館に相撲見物に出かけます。 この計画変更が、歴史の歯車を大きく変えました。 夕方、海軍青年将校を中心としたテロリスト集団が、 犬養首相を官邸に襲い暗殺。いわゆる「五・一五事件」が 発生したのです。実は、テロリストの暗殺リストには、 チャップリンの名前がありました。 総理大臣と世界的人気俳優を一気に暗殺して騒ぎを起こし、 一気にアメリカとの戦争まで持っていく… 犯人たちはこんなシナリオを描いていたのです。 危なく命拾いをしたチャップリンは、相撲見物を楽しみ、 また翌日からは浮世絵を見たり、歌舞伎を見たり、 日本を思い切りエンジョイ。その一方で、 お忍びで犬養総理大臣の遺族を弔問に訪れています。
この日本旅行で、チャップリンがハマったのが天ぷら。 外食に出ると、とにかく天ぷらを注文、 それも、海老天が大のお気に入り。 一度に三十六本もの海老天を平らげた日もあり、 新聞に「天ぷら男」と報道されたほどでした。

2月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場いたしますのは「フョードル・シャリアピン」
大正から昭和の初期にかけ、世界の先端を行く モダンな街であった東京。 現在のトーキョー・シティと同じく、 世界一流のアーティストたちが、 次から次へと来日しておりました。 昭和四十年代以降、人気の来日アーティストといえば、 ビートルズやマイケル・ジャクソンなど、 ロック、ポップの分野が中心でございます。 しかし、戦前は、何と言っても「クラシック」。 世界的に名高い演奏家や歌手が来日するとなると、 大変な騒ぎが起きたものなんだそうです。
中でも、凄まじい人気を集めたのが、 昭和十一年(1936年)1月にやってきた ロシアのバス歌手、フョードル・シャリアピン。 当時、彼の歌うレコード「ヴォルガの舟歌」が大ヒット、 また主演映画「ドン・キホーテ」の評判も高く、 正に「旬」のアーティストだったんですね。
アインシュタイン博士やチャップリンと同じく、 船で神戸に着き、そこから東京に移動します。 東京では山田耕筰、藤原義江、ニコライ大司教、 それに市丸といった皆様から大歓迎を受けたシャリアピン。 1月27日から2月6日にかけ、日比谷公会堂で5回、 独唱会を行い、たくさんの観客を集めました。 シャリアピンは身長が190センチを超える大男で、 ステージに登場したとたん、観客はどよめいたそうです。 演奏会場が日比谷公会堂ですから、宿舎はもちろん、 目と鼻の先の帝国ホテルです。
ある日、シャリアピンがシェフにこんな注文を出しました。 「わしゃ歯が痛くてねえ、困っとるんじゃよ。  何か柔らかいステーキが食べたいんじゃがねえ」 そこで頭をひねったシェフが考えたのが、こんな料理。 牛のランプ肉を叩いて薄く延ばし、これをさらに、 タマネギのすりおろしの中に三十分ほど漬けてから焼く。 そして別に炒めたタマネギを添えて出すというものです。 ひとくち食べたシャリアピン先生。 「こりゃ、旨いのう。スパシーボ、スパシーボ」 大喜びで、この一品を必ずオーダーするようになった、 これが現在も世に名高い「シャリアピン・ステーキ」 誕生の物語でございます。
シャリアピンはこの後、名古屋、大阪で演奏会を行い、 二十一日に帰国の途に着きました。 そしてその五日後、東京では2・26事件が発生。 海外からアーティストを迎えるどころではないご時世に 突入していきます。シャリアピンの独唱会は、 平和な時代の終わりを告げる出来事となったのです。

2月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場いたしますのは「ヘレン・ケラー」
「ウォーター…ウォーター…」 原因不明の高熱のため、幼くして光と音を失った ヘレン・ケラーが、家庭教師、サリバン先生の 献身的な努力によって、言葉を取り戻していく。 井戸からほとばしる水を手に受け、その瞬間に ウォーターと叫ぶ、映画「奇跡の人」の名場面です。 ヘレンは後に大学を卒業し、社会福祉活動家として 一生を送ることになりますが、その生涯のうちに三度、 日本を訪れています。 最初の来日は、昭和十二年(1937年)でした。 視覚障害をもつ日本の社会事業家、 岩橋(いわはし)武夫の招きによるものでした。
このとき、ヘレンは三ヵ月半もの長きに渡り、 日本全国の盲学校や聾学校、現在の特別支援学校を回って、 生徒や親たちを勇気付けました。 そして、二度目の来日は、終戦後間もない 昭和二十三年(1948年)の夏から秋にかけて。 戦争で被害を受けた日本の障害者たちの力になりたい…と、 このときもヘレンは東奔西走し、数十回の講演を行って、 障害者のみならず、戦争に疲れ果てた日本の人々を、 大いに勇気付けたのでした。
ヘレン・ケラーが日本に特別な思い入れを抱くのには、 もう一つ、理由がありました。 それは、「塙保己一」の存在です。 現在の埼玉、本庄市に生まれた塙保己一は、 七歳で失明しながらも、勉学の道に励み、後に江戸に出て 学問を重ね「群書類従」五百三十巻を編纂しました。 ヘレンは、塙保己一のように、 障害を持ちながらも精進を重ね、大きな成果を遺す、 そんな人間になりたい…と、かねがね考えていたのです。
昭和十二年の初来日のとき、ヘレンは、東京・渋谷にある 「温故学会」を訪問しています。 ここは、塙保己一の業績を記念するための社団法人で、 保己一の記念品などを保管している場所です。 ヘレンは、保己一の像や、愛用した机に触れ、 こんな風に語っています。 「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさい…と  励まされて育ちました。  先生の像に触れたのは、日本訪問における最も有意義な  出来事でした。  先生のお名前は流れる水のように  永遠に伝わることでしょう」 

2月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日登場いたしますのは「マリリン・モンロー」
彼女が日本を訪れたのは、亡くなる8年前のこと。 昭和二十九年(1954年)、2月のことでした。 旅行の目的は、当時の夫、ジョー・ディマジオとの ハネムーン。 ディマジオは、現在も破られることのない、 56試合連続安打の記録を誇る野球選手で、 既に引退していたとはいえ、 スーパースターの中のスーパースターでした。 ところが、日本での注目は、妻マリリンに集まるばかり。 来日直後の記者会見でも、主役はディマジオなのに、 質問はマリリンにしか寄せられません。
あまりの屈辱に怒ったディマジオは、 マイクのコードを引き抜くと、席を立ってしまった。 「ごめんなさい、ごめんなさい…」 マリリンは必死にその場を取り繕っていたそうです。 二人の結婚生活はその後八ヶ月ほどで破綻しました。 マリリン・モンロー来日中のエピソード、 いろいろありますが、一番有名なのはやはり、 胃痙攣を起こし、指圧師・浪越徳治郎さんの治療を 受けたことではないでしょうか。 「指圧の心は母心、押せば命の泉わく」 懐かしいですね。
昭和二十九年二月のある朝、午前五時に電話が鳴った。 電話に出ると、相手はサンフランシスコ・シールズの監督、 フランク・オドゥール。 オドゥールはモンローとディマジオに付き添って 来日していましたが、以前、浪越さんにギックリ腰を 治療してもらったことがあったのです。 「モンローが苦しんでいるが、注射はいやだという。何とかしてくれないか」 勇んで帝国ホテルに乗り込む男・浪越徳治郎。 205号室のドアを開けると、モンローのうめき声。 「あんたは出ていろ」とディマジオを追い出し、 紫色のガウンをはいで、治療を始めます。
一糸まとわぬ世紀の肉体、「鑑賞している暇はない」 「しかし素晴らしいお尻の形だった」と、後に 浪越さんは回顧していらっしゃいます。 シャネルの5番の香りが漂う中、母心で押し続けると、 あれほどの苦しみが、十分ほどでスーっと消えていった。 この治療に大満足だったモンローは、 すっかり浪越ファンとなり、滞在中、 合計七回も治療を受けたんだそうです。

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