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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

3月8日(月)〜3月12日(金)
今週は、「東京源氏物語」。徳川家康の時代からさかのぼること五百年余り、
関東から東北にかけ勢力地図を広げた板東武者、源氏一族。
東京に残された足跡を取り上げて、ご紹介して参ります。


3月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のお話は「八幡太郎はおそろしや」
源氏の合戦といえば、京都から瀬戸内海にかけて、 鎌倉幕府の成立前夜に展開された、平家一門との、 勇ましくも哀しい、数々のエピソードを思い浮かべます。 しかし、それに先立つことおよそ百年の昔、 源氏一族は、関東平野にも、数多くの足跡を残しています。
今からおよそ一千年近く昔の話。 平安時代の末期、それまで日本を支配してきた貴族たちの 力が衰え、代わって台頭してきたのが、 源氏や平家に代表される武士たちでした。 最初は貴族たちの利権を守る、いわばガードマン的な 存在だったのですが、武力をバックに存在感を増していき、 遂には主人たちの地位を脅かすまでになったのです。 そんな初期の武士の代表格が、源義家、 人読んで「八幡太郎義家」でございます。 平安末期に編纂された「梁塵秘抄」という本がございます。
いわば当時のヒット曲を集めたソングブックなんですが、 この中に、こんな歌が載っています。 「鷲の住む深山(みやま)には、並べての鳥は住むものか 同じき源氏と申せども八幡太郎はおそろしや」 ざっと意味を解説いたしますと、こうなります。 「鷲が住むような山に、好んで住む鳥はいない。 源氏の武者にもいろいろいるが、その中でも恐ろしい、 八幡太郎には近寄りたくないものだ」 勇猛果敢な武将であった八幡太郎義家ですが、 敵に対しては、女子供であろうと、容赦なく残虐に殺し、 悪魔のように恐れられた。良くも悪くも、 凄まじいオーラをふりまいた人物だったようで、 都内、そして近県のあちこちに、義家を巡る伝説は、 数限りなく残されています。リスナーのみなさんの中にも、 「そういえば、うちの近所にも義家の伝説があるよ…」 という方、おそらくたくさんいらっしゃるはずです。 「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」 江戸を代表する俳人の一人、小林一茶の有名な一句です。
句が詠まれたのは、足立区・竹ノ塚に近い、 「炎天寺」というお寺の境内の池だと言われていますが、 この「炎天寺」も、八幡太郎義家に縁の深い場所。 前九年の役の際、義家が、父親・頼家とこの辺りまで 軍を進めてきたとき、この地に住む豪族に襲撃された。 義家は獅子奮迅の働きを見せ、なんとか勝利を収め、 戦死者を弔うため建てたのが、このお寺。 戦いが行われたのが旧暦六月、真夏の炎天下だったため、 この名前がついた、といわれています。 一茶は、この戦いにちなんだ句も詠んでいます。 最後にご紹介しましょう。 「蝉鳴くや六月村の炎天寺」

3月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「兜町と義家」
勇猛果敢な戦さぶり、敵に対しての容赦ない残虐行為。 ありとあらゆる人から恐れられた武将、 それが八幡太郎、源義家でした。 絶対あの男だけは敵に回したくない…と、 自分の領地を差し出して「私を家来にしてください」と 申し出る武士たちが後を断たなかった。 その勢いがあまりに凄まじいので、朝廷が、 「義家に領地を寄進すること、まかりならぬ」 そんなお触れを出したほどです。
義家にまつわる伝説が由来となっている地名、 実は東京に数多くあるんですね。 日本経済の中心、東京のウォール街ともいわれる、 「兜町」もその一つ。 八幡太郎義家が、敵を征伐すべく東北に向かう際、 このあたりを通りかかったときのこと。 地面から、何とも趣きのある形の岩が、 ニョッキリ顔を出している。 「おお、これはめでたい岩であることよ」 義家は、頭から兜を外すと、この岩にかけまして、 「神よ、義家に勝利をもたらしたまえ」と、 武運長久を祈願した。 後に、この一帯は「兜神社」となり、 現在も高速道路の下に残る「兜岩」を見ることができます。 ただし、この義家伝説には別バージョンもありまして、 こちらは戦いを終えて戻ってくるときのお話。 勝利を祝ってこのあたりに兜を埋めたので、 「兜町」になったというもの。
またもう一つ別の説もあり、こちらは、平将門の乱のとき、 将門が討たれた後、供養のためその兜を埋めた場所、 というものです。さて、真相はいかに。 さて、兜町の近所には、「鎧(よろい)橋」という名前の、 今から千年ほど昔は海に近く、対岸はもう下総の国。 このあたりには渡し舟が通っていたそうです。 ところが、八幡太郎義家が、東北に出陣する途中で この渡しに差し掛かると、折りからの暴風雨で、 対岸に渡ることが出来ません。 そこで、八幡太郎が、身に着けてきた鎧を脱いで神に捧げ、 「なんとか向こう岸に渡してください」 と、お祈りしたところ、すーっ…と天気は穏やかになり、 何事もなく川を渡ることに成功したのです。 それ以来、この渡し場は「鎧の渡し」と言われ、 後に橋が架けられたときも、その名前を引き継いで、 「鎧橋」となった、といわれています。

3月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「白鳥は飛んだ」
「鳥越祭り」といえば、東京でいちばん重いといわれる、 巨大な「千貫神輿」が名物でございます。 毎年六月に行われる、このお祭りで名高い、 浅草・鳥越の鳥越神社。 実は、鳥越神社も、源義家、八幡太郎に縁の深い場所です。 鳥越神社の創建は、千三百年以上の昔にさかのぼります。 そのころ、日本武尊が関東の敵と戦うためやって来て、 現在の鳥越神社のあたりにしばらく滞在されました。
そして、日本武尊が帰ったあとで、その徳を偲び、 地元の人々が神社を建立いたします。 当時、このあたりは「白鳥(しらとり)の里」という 地名だったそうで、神社の名前も「白鳥大明神」となった。 また一説には、日本武尊が亡くなった後、 白鳥となったことにちなんで「白鳥大明神」と 名づけられた、とも言われております。 後に、前九年の役のころ、やってきたのが、 東北地方に向かう途中の源頼義、源義家親子。 そのころは、隅田川のほぼ河口でしたから、 どこから向こう岸に渡ればいいのかわからず、 途方にくれたと申します。
親子だけならいざ知らず、 大軍を率いておりましたから、これを全員、 無事に渡さねばならないのです。 と、飛んできたのが一羽の白鳥。 まるでこちらへ来い、とでも言うように低く飛び、 どこに浅瀬があるのかを、親子に教えてくれました。 八幡太郎義家、大いに喜びまして、白鳥明神にお参りし、 鳥が浅瀬を越える場所を教えてくれたことから、 神社に改めて「鳥越大明神」と命名。 同時に、地名も「鳥越の里」と呼ばれるようになった、 …と、伝えられております。 この話で思い出すのが、昨日ご紹介いたしました、 「鎧橋」のエピソード。
やはり、源義家が、東北に向かう途中で川を渡れず、 自らの鎧を神に捧げ、やっと向こう岸に渡れた …というお話でした。 鳥越神社と兜町、さほど離れているわけでもありません。 おそらく、当時の隅田川河口付近のどこかで、 源義家が苦労して向こう岸に渡ったという事実があって、 それが、この近辺に、様々な伝説として 残ったのではないでしょうか。

3月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「杉並の源氏遺跡」
さて、昨日までの三日間は、足立区、中央区、 そして台東区と、どちらかと申しますと東京の東側に残る、 源氏にまつわる伝説をご紹介して参りました。 本日は、一転して西側。東京のウエストサイド、 杉並に残る源氏ストーリーを取り上げます。 鉄道の駅で申しますと、井の頭線・西永福駅の近くに、 こんもりとした大木で囲まれた大きな神社、 「大宮八幡宮」がございます。
この神社の創建にも、今週すっかりおなじみになりました、 源頼義・義家親子が深く関わっているわけです。 前九年の役に際し、親子は大軍を率いて東北へ向かう途中。 この杉並の地に立ち寄ったところ、 真っ青な空に、八条の白い雲がたなびくのが見えました。 「義家、こちらへ参れ」 総大将、源頼義が息子を招き寄せます。 「父上、いかがいたしました」 「空を見よ。一、ニ、三……八本の白い雲がたなびいておる。 まるで、我が源氏の白旗のようではないか」 「いかにも…」 「これは、戦に勝つという、よき兆しに間違いあるまい」 「さようでございますな」 「先を急ぐ道中、今は駒を進めねばなるまいが、 無事に奥州を征伐した後は、必ずこの地に立ち返り、 社を建てようではないか」…と、東へ向かいました。
そして、見事に敵を討ち果たし、帰る途中に、 約束どおりこの地に立ち寄り、神社を建立した。 それが、大宮八幡宮の始まり、と伝えられております。 さて、杉並にはもう一つ、大きな八幡様がございます。 大宮八幡の脇には善福寺川が流れておりますが、 その水源である善福寺池近くに鎮座まします「井草八幡」。 もともとこの地には、古くから神社がありました。 そこに立ち寄ったのが、これまた東北地方に向う途中の、 鎌倉幕府・初代将軍、源頼朝。 頼義・義家親子の時代から、およそ百年後のことです。 頼朝公が、戦に勝つよう祈りを捧げたことから、 この神社は、源氏の氏神である八幡宮となりました。
無事に奥州藤原氏との戦いに勝ち、引き上げる途中、 頼朝公は再びこの八幡に立ち寄って、 赤黒、二株の松をお植えになった。 頼朝公手植えの松は、その後長く、ここ井草の地の ランドマークでしたが、赤松は明治時代に枯れます。 東京都の天然記念物だった黒松の巨木も、昭和四十八年に 残念ながら枯れてしまいました。 現在は二代目が植えられ、すくすくと育っておりますが、 初代の見事な幹の一部を、境内で見ることも出来ます。

3月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「ハタハタ・ストーリー」
源氏のシンボルといえば、「白旗」。 近代の戦争では「白旗」といえば降伏の象徴ですが、 平安時代の末期は違いました。 泣く子も黙る、恐ろしい源氏の旗印が、白旗。 一方、宿命のライバルである平家は赤旗、ということで、 運動会の紅組・白組、また大晦日のおなじみ紅白歌合戦も、 元はといえば源平合戦に端を発するわけであります。 源氏の武将たちにとって、 白旗はとても大切な存在でしたから、都内各地にも、 旗にちなんだ地名、遺跡も数多く存在いたします。
たとえば、鉄道の駅名に残っているものを挙げますと、 京王線の「幡ヶ谷」。 後三年の役の後、この地を通りかかった八幡太郎、源義家。 先頭にはもちろん、白旗を掲げているわけですが、 ご存知の通り、白い布というのは非常に汚れっぽい。 しかも戦場を転々としていますから、土ぼこりや、 もしかしたら人間の血などもついていたかもしれません。 これじゃ黒旗だ、などと悪口を叩く侍もいたでしょう。 なんとかせにゃいかんなあ、と思っていた義家公、 このあたりを通ったところ、こんこんと清水の湧き出る 小さな池を見つけました。 おお、ちょうどよい、その池で旗を洗おう。 そして、旗を近くの松にかけて乾かす間、 家来たちと宴会を行ったと言われておりまして、 そこから名づけられたのが「幡ヶ谷」の地名。
また、近くには、実際に旗を洗ったと言われる池もあり、 神田川の水源の一つとなっておりましたが、 残念ながら昭和三十八年(1963年)、 オリンピック前の東京大改造の際に埋め立てられました。 さらに、渋谷駅近くの金王八幡には、 このとき洗われた旗が奉納された、と伝えられています。 さて、鉄道の駅で「旗」がつくといえば、 東急の大井町線と池上線が立体交差する「旗の台」駅、 こちらもやはり、源氏の白旗にちなんだ地名です。 八幡太郎義家の祖父にあたる、源頼信が、 反乱を起こした平忠常を討つため、関東にやってきた折、 この小高い丘に陣を張り、白旗を立てた。 そこから「旗の台」または「旗岡」と 呼ばれるようになった、と伝えられています。
また、大井町線荏原町(えばらまち)駅のすぐ近くには、 やはり源頼信が戦勝祈願のため建立したといわれる、 「旗が岡八幡神社」が残されています。 鎌倉の鶴岡八幡を始め、昨日ご紹介した 大宮八幡や井草八幡、その他関東各地に残る八幡神社。 その多くは、今から一千年近くの昔、 関東平野を我が物顔に駆け巡っていた、 源氏一族の夢の跡なのです。

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