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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

3月15日(月)〜3月19日(金)
今週は、「春のうららの隅田川」。江戸、そして東京の人々の暮らしに溶け込んできた隅田川、
この東京の母なる川にまつわるあれこれを、ご紹介してまいります。


3月15日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のお話は「春の日のうららに指してゆく舟は」
日本人なら、誰でも知っている名曲、「花」、この歌が誕生したのは、明治三十三年(1900年)。日本における、芸術的な歌曲の第一号としても有名です。作曲したのは、当時、弱冠二十歳の天才作曲家、滝廉太郎。滝は、現在の東京藝術大学、当時の音楽学校に、最年少の十五歳で入学を果たします。そして十九歳の時には、研究生でありながら、早くも後進の指導に当たっていました。明治三十三年六月、滝はドイツへの留学を命じられますが、さまざまな事情から、出発が一年、伸びることになりました。出発までのおよそ十ヶ月の間、滝廉太郎は精力的に作曲に取り組みます。
この間に、書き残されたのが、「花」を含む組曲「四季」。そして「箱根八里」「荒城の月」さらに子どものための歌「お正月」「こいのぼり」など、現在まで伝わる名曲の数々だったのです。あくる年、明治三十四年、滝は意気揚々とドイツに向けて旅立ちますが、もともと体が弱かったところに加え、環境が変わり、食べ物なども合わなかったのでしょう。その年の十一月に、結核にかかり、倒れてしまったのです。翌年、失意のうちに日本に戻り、そして明治三十六年(1903年)、わずか二十三歳の若さでこの世を去ります。
さて、名曲「花」に話を戻しましょう。作曲は滝廉太郎ですが、作詞は国文学者の武島羽衣(たけしま・はごろも)。平安時代風の、優美な文章による詩を得意にした方で、当時は東京音楽学校在職中で、滝廉太郎の同僚でした。「春のうららの隅田川のぼりくだりの船人が櫂のしづくも花と散るながめを何にたとふべき」この一番の歌詞、実は源氏物語にある、次のような歌をモチーフにしています。「春の日のうららにさしてゆく舟は棹(さお)のしづくも花ぞ散りける」当時、隅田川では、学生たちによるボート競漕がブームで、その光景を、源氏物語の世界に重ね合わせたのです。当時、羽衣は二十八歳。明治の人は、早熟でした。早くに世を去った滝廉太郎に比べ、武島羽衣は激動の明治・大正・そして昭和の戦前戦後を生き延びました。
八十三歳になった昭和三十年。大学の教え子たちの同窓会で、ふとこんな言葉をもらします。「『花』の歌碑を建てたいなあ」これを聞いた教え子たち、そうだそうだと盛り上がります。あっという間に資金が集まって、翌昭和三十一年、「花」の歌碑が建てられる事になりました。歌碑のために歌詞を書くとき、感極まった羽衣先生、畳の上に広げた大きな紙の前で、しばらく動くことが出来なかったそうです。この「花」の歌碑、隅田川右岸の言問橋近く、桜の木の下にあります。今年のお花見のついでに、出かけられてみてはいかがでしょう。

3月16日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「月もおぼろに白魚の」
歌舞伎の中でも、悪人を主人公にしたお芝居はいくつもありますが、代表的なものに、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」がございます。女に化けて悪事の限りを尽くす「お嬢吉三」が、夜の女が持っていた百両を奪って川に突き落とす。これを見ていた、もと侍の盗賊「お坊吉三」が、その百両を奪おうとして斬り合いとなります。そこへ駆けつけるのが三人目「和尚吉三」、二人の争いをやめさせて、結局三人とも仲良くなり、これからみんなで吉原へ遊びに行くという、実にメチャクチャなストーリーではございます。
しかし、この「大川端」の場面、実に華やかで、歌舞伎の醍醐味が味わえるので、よく上演されるんですね。おなじみのセリフのサワリ、ご紹介いたしましょう。「月もおぼろに白魚の、かがりも霞む春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれガラスのただ一羽、ねぐらに帰る川端で、竿のしずくか濡れ手に粟、思いがけなく手にいる百両」「こいつあ、春から、縁起がいいわえ」…と、ここまで聞くと、ご存知の方も多いでしょう。冒頭のセリフ「月もおぼろに白魚の、かがりも霞む春の空」実はこれ、大変、江戸情緒に溢れているんですね。春先、2月から3月ごろにかけて、隅田川の河口付近では、船の上でかがり火を焚いて、産卵のため川をさかのぼる白魚をとらえる漁が、盛んに行われておりました。春先ですから、水蒸気が立ち上って、満天に輝く月がやや霞んできている。川面にはかがり火が映って、網を振るうと、透き通ったような白魚が何百何千と跳ねる幻想的な風景。江戸の昔、白魚漁は、春の始まりを告げる風物詩だったんですね。
おひな祭りの祝い膳、お吸い物にはハマグリが定番ですが、江戸の昔はこのシラウオを使うのがお決まりでした。かの徳川家康公も、白魚が大変お好きでいらっしゃって、ふるさと三河からわざわざ取り寄せて隅田川に放った、隅田川の白魚は額のところに葵の御紋がある…などなど、まことしやかに囁かれていたものなんだそうです。白魚漁は、昭和時代、戦前まで細々と続けられ、その後、隅田川がどんどん汚れていくのに従って、ついに姿を消した、と伝えられております。

3月17日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「銀杏返しに黒繻子(くろじゅす)かけて」
歌謡曲の歴史に残る名曲「すみだ川」。昭和十二年(1937年)の松竹映画、田中絹代主演の「すみだ川」、テーマソングとして作られ、当時は東海林太郎さんの歌で大ヒットいたしました。 江戸時代から戦前にかけて、江戸っ子たちは、「隅田川」とは呼ばず「大川」と呼ぶのが普通でした。地方に出かけて、その土地の人に、「東京には、隅田川って有名な川があるそうですねえ」「へえ、そうなんですか、そりゃ知らなかった」と、帰ってよくよく調べてみると、何のことはない、「隅田川ってのは、大川のことかい」と驚いたというほど。東京の人口がだんだん増えてくるにしたがって、正式名称である「隅田川」を使う人が多数派になっていく。その途中で、この名曲「すみだ川」が果たした役割は、けっこう、大きなものがあったようです。
映画、「すみだ川」の原作は、永井荷風。幼馴染である長吉とお糸。長吉の母親は、常盤津のお師匠さんで、お糸はそこに稽古に通ってきていた。芸者になるというお糸と、母親から大学に進むよう命じられている長吉の、はかないラブ・ストーリー、これが永井荷風「すみだ川」。ほんの少し、ご紹介いたしましょう。「長吉はさっきから一人ぼんやりして、ある時は今戸橋の欄干にもたれたり、ある時は渡し場の桟橋へ降りてみたりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる川の景色を眺めていた。今夜暗くなって、人の顔がよくは見えなくなったら、今戸橋の上でお糸と会う約束をしたからである」さて、ヒネクレ者の永井荷風は、わざと「すみだ川」と作品に名前をつけました。一方、十三歳年下の東京っ子、芥川龍之介にとっては、この川はあくまでも「大川」でございます。「開化の良人」という作品から、川の描写をご紹介します。「あの頃の大川の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかもしれませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。
現にその日も、万八(まんぱち)の下を、大川筋へ出てみますと、大きく墨をすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明かりをゆらめかしている川波の空に、ひと反り、反り返った一文字を黒々と引き渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄(すいあい)にぼやけた中には、めまぐるしく行きかう提灯ばかりが、もうホオズキほどの小ささに、点々と赤く動いていました」

3月18日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「リバーサイドでお楽しみ」
江戸から戦前、そして戦後もしばらくは、隅田川は人々の楽しみと深く結びついておりました。 隅田川のリバーサイド名物といえば「料亭」でした。神田川との合流点である、柳橋付近。落語「船徳」などでもおなじみでございますが、このあたりには船宿がたくさんありました。ここで船を仕立てて、大川をさかのぼり、山谷堀から吉原へ乗り込む…というのが粋な遊び。そのうち、船を待つ間に、船宿の座敷で芸者を呼んで盛り上がる、というのが流行るようになりまして、柳橋の有名な料亭街が出来上がっていったわけであります。
どのお店も、川に向けて開けておりまして、座敷からは四季折々の、美しい隅田川の景色が楽しめた。また庭先には桟橋が設けられて、カンタンに川遊びに出かけられるようになっていたというのが、柳橋の料亭。お客さんが興がノッてくると、「おい、川へ出てみようじゃないか」と、きれいどころの手を引いて屋形船に乗りこんで一杯。美しく髷を結って、ばっちりとキメた着物姿の芸者さんたちにとっては、桟橋から船に乗り込むのも大変だったそうで、ベテランのお姉さんによる、「船への美しい乗り込み方講座」も開かれていたそうです。ここからは両国橋も近く、川開きの花火見物にも一等地。じつはこの花火大会、戦前は柳橋の料亭組合が主催していたんだそうです。また、両国ではかつては回向院の境内で、さらに明治四十二年(1909年)からは国技館の土俵で、大相撲が開催されていましたから、その帰りに立ち寄るお客さんもたくさんいらっしゃった。
美しい隅田川を背景とした、東京の一大レジャーゾーンが、この柳橋、そして両国橋界隈だったんですね。戦後もしばらくは、この柳橋の賑わいは続きました。ところが昭和三十年代に入り、隅田川の護岸工事が行われ、堤防が築かれてしまうと、見事な景色は失われます。また、カンタンに川に出ることも難しくなりますし、何よりも川自体が汚れ、遊び場としての用をなさなくなる。一方で、柳橋の花柳界は芸の格式が高く、もともと若い芸者が育ちにくかったこともあって、昭和四十年代には、見る影もなくさびれてしまったのです。昭和三十六年に四十一軒あった料亭は、およそ十年後には十三、昭和五十六年にはたったの六軒。そして平成十一年(1999年)一月、最後の一軒が廃業、芸妓組合も解散。二十世紀の終わりと共に、柳橋の花柳界も忽然と姿を消してしまったのです。

3月19日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日のお話は「櫂のしずくも花と散る」
今週月曜日、滝廉太郎の名曲「花」をご紹介した際、これは、当時ブームになっていた、隅田川でのボート競漕をテーマにした歌だ、というお話をご紹介いたしました。文明開化の世の中で、ヨーロッパから伝わってきた、ボート競漕、いわゆるレガッタ。満開の桜の下、たくましい若者たちが、ハイカラなボートに乗り込み、ひたすら漕ぐ姿、実に絵になります。娯楽の少ない時代のこととはいえ、美しかった当時の隅田川の風景も、ボートの人気を高めるのに一役、買っていたことは確実です。
隅田川でボート競技が行われるようになったのは、明治十年(1877年)ごろのこと。現在の東京大学の学生たちが、中古のボートを川に浮かべ、同好会的に楽しんだのが始まりと言われています。爽やかな川風に吹かれて一汗流した後は、川べりの料亭に繰り込んで一杯やるのが楽しみだったとか。明治十五年(1882年)になりますと、当時の海軍省が主催した競漕大会開催。記録を見ますと、この海軍省のボートレース大会には、毎年のように明治天皇がお出ましになり、観客十万余人、大変な盛り上がりを見せたと伝わっております。ボートがゴールすると、水雷が放たれて会場に轟音が響く。するとびっくり仰天した魚がプカプカ浮かび上がってくる。この日、開店休業状態で手持ち無沙汰な渡し舟の船頭が、浮かんだ魚を網で救い上げていたそうです。
明治三十八年(1905年)、第一回早慶レガッタ開催。当時の隅田川の眺めについて、両校のクルーは、「千鳥も鳴き、広重好みの群青に、薄墨を添えて、ひと刷毛した錦絵」のようだった、と語っています。早稲田の選手たちは、川底に動かない鯉を手づかみにして、鯉こくを作って栄養をつけました。野球でもシノギを削る両校とあって、レースは異常に盛り上がり、当日の応援席は騒然。早稲田は向島、慶応は浅草側に陣取って、笛や太鼓の猛烈な応援が鳴り響く中、レースはスタート。吾妻橋から向島・東大艇庫までの1250mで戦われ、鯉こくパワーのおかげか、早稲田が見事に勝利を収めました。
早慶レガッタは、この後中断を経て、昭和に入り再開、終戦後も隅田川コースで行われていましたが、あまりの水質悪化に昭和三十七年以降、荒川や戸田へ移動。昭和五十三年(1978年)、水質が改善されたこと、またボート競技を盛り上げたい関係者の尽力もあって、十七年ぶりに隅田川に戻って、現在も続けられています。今年の開催は、4月18日の日曜日。「櫂のしずくも花と散る」、そんな熱戦を期待したいと思います。

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