浜美枝のいつかあなたと

毎週日曜日
 9時30分~10時00分
Mr Naomasa Terashima Today Picture Diary

寺島尚正 今日の絵日記

2018年8月6日 忘れない

今年も原爆忌を迎える時季となった。
6日が広島。
9日が長崎。
21万人以上の尊い命が一瞬にして奪われた。
あれから73年。
私達は、この凄惨な出来事を風化させてはならない。
その原爆投下を決断したのが、アメリカ・トルーマン大統領。
投下後、トルーマンは、
「原爆を広島に投下した。軍事目標に落とした。
戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ兵の命を救うため
原爆投下を命じた」とアメリカ国民に演説した。
今でもアメリカ国民の5割が「原爆投下が間違っていなかった」と
考えているという数字が見られる。
しかし、近年、この定説と異なる資料や証言が出てきた。
原爆投下は、原爆計画責任者はじめ22億ドルという
莫大な予算をつぎ込んだ軍が、
開発の成果を見せ、原爆の破壊効果をアピールするため
「軍事拠点にのみ投下」という縛りを破り
爆風が広がりやすい地形であることから広島に落としたというのだ。
元々、原爆計画は、ルーズベルト大統領時代に立ち上がった。
そのルーズベルト大統領が急死。
十分な引継ぎを受けないままトルーマン大統領となった。
トルーマンは、投下計画を軍が進める中、
異議を唱える知識も時間もなく、黙認するしかなかった。
当初軍は、投下候補地に京都を強く推した。
しかし、これは文民長官などが
京都は軍事拠点でないことを知っており
京都への投下は国際的な非難を受けると反対。
断念した軍は、広島は軍の大規模施設が集まる陸軍都市と強調、
市民をターゲットにすることを隠蔽したという。
トルーマンは広島に原爆を投下しても
「軍事拠点にのみ投下」で
一般市民の犠牲はほとんどないと思い、
広島が最初のターゲットに決められた。
後日、投下後の広島の写真を大統領が見た。
想定と違っていたのに愕然としたという。
そこには、5キロ四方の市街地が
ことごとく破壊されていた。
その半日後、長崎に投下。
軍が出した原爆投下指令書には
「2発目以降は準備ができ次第投下せよ」とあった。
計画では17発の原爆を使う予定だったという。
軍最高司令官でもあるトルーマンは8月10日原爆投下中止命令を出した。
数日後、日本は無条件降伏を受け入れた。
これにより、原爆投下が正しい決断だったという定説が生まれることになる。
トルーマンは、一般市民に投下した責任を追及されぬよう
「たとえ、非道な行為でも投下する理由があった」
「より多くの命を救うために原爆投下を決断した」
という理屈をつけた。
トルーマンは1963年に日本の被爆者に会った時、
50万人の日本人の命を救うためと新たに加えたという。
戦時には常軌を逸することが沢山起こる。
戦争自体が常軌を逸しているのだから。
加えて、自己並びに組織の保身という意識も一層強くなろう。
私達が知っている歴史は、案外真実と距離があるのかもしれない。
特に、未来につながる過去の重大な事柄は常に検証し、
明らかにされた事実が不都合だった場合、
自分から悔い改めることは容易ではない。
しかし常に全力で事にあたり、
時に自らを振り返り、不具合があったなら
事実を受け入れる勇気を持つことで
信頼を得られるのだと考える。

今年も、蝉時雨の中、広島、長崎に向けて手を合わせる。
忘れない
忘れない

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