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ONAIR REPORT
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今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆2月12日(月)
デビッド・ボウイ 「レッツ・ダンス」

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーンと並んで、20世紀のイギリスを代表するロック・スター、デヴィッド・ボウイの最大のヒット曲がこの曲、「レッツ・ダンス」。
今年60歳を迎えたデヴィッド・ボウイは、17歳の時に、ディビー・ジョーンズ&キング・ビーズでバンドデビューを果たします。その時は、全く売れず、モンキーズのディビー・ジョーンズと間違えられることを避け、名前をデヴィッド・ボウイに改名し、1967年、ソロデビューします。そして、1969年、アポロ11号の月面着陸などで宇宙への関心が高まる中、「スペース・オディティ」がヒット。70年代に入ると、髪を短くし、眉毛を剃り落とし奇抜なファッションで、アルバム『ジギー・スターダスト』をリリースし、グラム・ロックの先駆者として、スーパースターの地位をゆるぎないものとします。
グラムロックの象徴的な存在でありながら、70年代半ばになると、ソウルフルなアメリカ志向になり、ジョン・レノンとの共作「フェイム」が、初の全米ナンバー1に輝きます。
その後、映画「地球に落ちてきた男」「戦場のメリークリスマス」に出演し、俳優としても優れた才能を開花させます。しばらく音楽から遠ざかっていましたが、ユーロビートとディスコ旋風が吹き荒れる80年代に入ると、元シックのナイル・ロジャースをプロデューサーに迎えて、アルバム『レッツ・ダンス』を発表。空前の大ヒットとなって、本国イギリスやアメリカは勿論のこと、全世界で数百万枚という商業的な成功を収めます。
90年代に入ると、ソロを辞め、ティン・マシーンを結成する等、常に変化し続けます。 2004年にはワールド・ツアーの一環で8年ぶりに来日コンサートを行いますが、動脈閉塞で心臓を緊急手術し、ツアーを中止し、現在は静養しています。

◆2月13日(火)
国生さゆり 「バレンタイン・キッス」

1985年4月フジテレビの番組『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブ会員としてスカウトされ、おニャン子クラブ会員番号8番として、番組開始と共にデビューした国生さゆり。
おニャン子クラブは、どこにでもいそうな素人の女子高校生から構成された女性アイドルグループで、アイドルを身近なものに感じさせ、誰でもなれるチャンスがあるという「新たなアイドル像」を確立させました。
1985年7月に「セーラー服を脱がさないで」でデビューし、2年後の1987年9月、代々木第一体育館で解散します。
国生さゆりは、おニャン子クラブ解散前の1987年4月に卒業という形でグループを離れますが、その後は、映画やドラマ、CMに出演するなど女優として活動を続け、歌手活動は89年に発表したアルバム『さかな』で活動を停止し、女優に専念します。
この「バレンタイン・キッス」は、彼女のソロデビューシングルとして1986年2月に発売され、20年以上経った現在でもバレンタインデー近くになると、デパートのチョコレート売り場で流れるというバレンタインデーの国民的定番ソングといえる1曲でした。
この曲は、女性ロックバンド「キッチンゴリラ」や「渋谷トランス向上委員会」などにカバーされましたが、21年ぶりにセルフカバーという形で、先月から配信限定販売されています。

◆2月14日(水)
UB40 「好きにならずにいられない」

1978年、イギリス、バーミンガム出身のアリ・キャンベル、ロビン・キャンベル兄弟を中心に様々な民族のメンバーで結成された8人組レゲエバンド、UB40。
バンド名をイギリスの失業者給付金制度であるアンエンプロイメント・ベネフィット・フォーム40(Unemployment Benefit,Form 40)から拝借しているだけあって、1980年に発表したデビューアルバム『サイニング・オフ』は、失業手当申請書をアルバム・ジャケットに模していました。
また、イギリスを代表する工業都市バーミンガムの労働者階級の出身ということもあり、当時の雇用問題や失業、人種差別問題といったメッセージ性の強い作品をポップなレゲエサウンドに乗せて発表し、一気に注目を集めました。そして、1983年にイギリスでナンバー1に輝いたニール・ダイヤモンドのカバー曲「レッド・レッド・ワイン」が、1988年に全米ナンバー1に輝くと、ポップ・レゲエを代表するグループとして不動の地位を築きます。
この曲は、元々エルビス・プレスリーの1969年のヒット曲で、オリジナルは1位を獲得出来なかったのですが、UB40がカバーしたものは、シャロン・ストーン主演の映画「硝子の塔」の主題歌になり、7週間も全米ナンバー1に輝きました。
さらにこの曲が収められたアルバム『プロミス・アンド・ライズ』は、全世界で1000万枚を超す大ヒットを記録しました。
UB40は、世界で最も有名なレゲエ・バンドになったのですが、人種差別反対のために、南アフリカでコンサートを行ったり、国連エイズ撲滅キャンペーンにタイアップしたりと国際的な活動を繰り広げています。

◆2月15日(木)
欧陽菲菲 「ラブ・イズ・オーバー」

1967年、台湾・台北市にあるレストラン・シアターでデビューした欧陽菲菲。
そのダイナミックなボーカルが話題を呼んで、1969年にスカウトされ、日本では1971年に「雨の御堂筋」でデビューします。「雨の御堂筋」は130万枚を超す大ヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。
翌72年に外国人ソロ歌手で初めて「紅白歌合戦」に出場します。
その後も「雨のエアポート」「恋の十字路」といったヒット曲を発表し、1984年、この曲「ラブ・イズ・オーバー」が大ヒット、レコード大賞ロングセラー賞、全国・有線大賞特別賞を受賞します。
また、この曲は、日本だけでなく、アジア各国でもヒットし、そのソウルフルな歌唱力はアジア各国で評価されました。

◆2月16日(金)
エルトン・ジョン 「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」

全世界で1億枚以上のレコードセールス記録を持ち、輝かしいチャート記録も合わせ持つイギリス出身のスーパースター、エルトン・ジョン。彼は、11歳でロンドン王立音楽院に入学し、在学中に「ブルーソロジー」というバンドを結成します。彼にとって大きな転機が、リバティ・レコードが行ったオーディション。オーディションには落ちてしまいますが、そこで最良の共作者である作詞家のバーニー・トーピンと出会い、2人はソング・ライティング・チームを組みます。1968年エルトン・ジョンは「アイブ・ビーン・ルージング・ユー」でデビュー、翌1969年アルバム『エンプティ・スカイ』を発表しますが、全く売れませんでした。しかし、1970年に出した「ユア・ソング」が大ヒット、一気にスターダムへと駆け上がります。
この曲は1973年に発表した2枚組のアルバム『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』からのシングル曲。エルトン・ジョンの代表曲にして、BBC視聴者投票で20世紀を代表する曲に選ばれました。また同じアーティストが演奏している3つの異なるバージョンがあり、70年代・80年代・90年代と3つの世代で連続ヒットした唯一のシングル曲です。
73年にリリースしたオリジナル・バージョンでは、マリリン・モンローに捧げる歌としてリリース、87年にはオーストラリアで行ったライブバージョンがヒット、97年には交通事故で亡くなったダイアナ妃の追悼歌としてリリースと、全世界で3700万枚という音楽史上歴代1位となる売り上げを記録した名曲となっています。



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