番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆5月21日(月)
プロコル・ハルム 「青い影」

パラマウンツというバンドの中心メンバーであったゲイリー・ブルッカーが、バンドの解散後、1967年に結成したバンドがプロコル・ハルム。
プロデューサーの紹介で、詩人のキース・リードと知り合ったゲイリーは、自分たちが作った曲を他のミュージシャンに提供するソングライティング・チームを結成、売り込みに行きますが、どこも受け入れてくれず、結局オルガン奏者のマシュー・フィッシャーなどが加わって、オルガンとキーボードというツイン・キーボ−ドという5人組からなるプロコル・ハルムが出来上がります。
バッハのカンタータをモチーフにしたこの「青い影」でデビューしますが、クラシックとロックの融合が評判になって、発売2週間で38万枚という新記録を作り、イギリスのヒットチャートで6週間1に輝きます。
ヨーロッパ各国でも1を獲得し、さらにアメリカでも大ヒット、日本をはじめとするアジアでもヒットし、プログレッシヴというジャンルを確立し、70年代に一世を風靡します。しかし、メンバーチェンジが激しく、1977年に解散してしまいます。彼らの独特の作風は世界中のポピュラー音楽に影響を与え、松任谷由実はこの曲を聞いて、自分で作曲を始めたという話は有名です。
1991年、ドラムのB.J.ウィルソンの死をきっかけにオリジナルメンバーで再結成され、2003年には来日コンサートを行い、往年のロックファンを喜ばせてくれました。
再結成後は3枚のアルバムをリリース、現在もヨーロッパを中心にライブ活動を行っています。

◆5月22日(火)
工藤静香  「MUGO・ん・・・色っぽい」

「セブンティーンクラブ」のメンバーとして芸能活動をスタートさせ、「おニャン子クラブ」全盛期の1986年に会員番号38番でメンバー入り。
「うしろ髪ひかれ隊」を結成し、1987年、「夕焼けニャンニャン」の最終回の日に「禁断のテレパシー」でソロ・シンガーとしてデビューした工藤静香。
おニャン子クラブに加入した当初は、「ボケキャラ」を演じていたのですが、生稲晃子、斉藤満喜子と共に「うしろ髪ひかれ隊」を結成した頃から人気が上昇し、ソロ・デビュー曲「禁断のテレパシー」は、オリコンシングルチャートで1位に輝きます。この曲「MUGO・ん・・・色っぽい」は、中島みゆきが作詞を担当したシングル曲で、カネボウのCMのイメージソングにも起用され、1位を獲得すると共に、その年の紅白歌合戦に初出場も果たします。
その後も、歌謡曲からアダルトなラブ・バラードまで幅広い楽曲を歌いこなす実力派アイドルとして人気を博しますが、1994年にリリースした「ブルー・ローズ」からセルフ・プロデュースにも挑戦し、アーティストとしてのキャリアもスタートさせます。
また歌手や女優として活動する傍らで、画家としての才能も発揮し、二科展に11年連続で入賞するなど、才能を発揮しています。
現在は母親としての顔ものぞかせながらも、ニューシングル「雨夜の月に」を明日5月23日にリリースし、マイペースで音楽活動を続けています。

◆5月23日(水)
チャーリー・セクストン 「ビーツ・ソー・ロンリー」

1985年、弱冠16才で天才ギタリストしてデビューしたチャーリー・セクストン。
この曲は、デビューアルバム『ピクチャーズ・フォー・プレジャー』からのシングル曲で、ギタリストとしての確かな腕前と骨太な歌声で、一大センセーションを巻き起こします。
アメリカ・テキサス州出身のチャーリー・セクストンは、伝説のブルース・ミュージシャンから直接手ほどきを受けて10歳からクラブで演奏し、神童と呼ばれ、15歳の時にロン・ウッドやキース・リチャーズのレコーディングに参加し、デビュー前から話題になっていました。ただ、日本では、ギターの腕前よりもルックスの良さが先立ってしまい、アイドル的な扱いを受けてしまいます。
1989年にセカンドアルバム『ドント・ルック・バック』をリリースした後、音楽の志向がブルース寄りになっていき、アーク・エンジェル、そしてチャーリー・セクストン・シクステットといったバンドを結成しますが、商業的には成功を収められず、解散してしまいます。
その後は、セッション・ギタリストとして多くのミュージシャンのレコーディングに参加する傍ら、1999年からはボブ・ディランのツアー・メンバーにもなり、来日しています。

◆5月24日(木)
斉藤哲夫 「いまの君はピカピカに光って」

ボブ・ディランの影響で、フォークギターに目覚め、1970年にURCレコードからシングル「悩み多き者よ」でデビューした斉藤哲夫。
1970年8月に行なわれた中津川フォークジャンボリーに出演し、移ろう世に馴染めない者の心をシニカルに綴った歌詞が強烈だったために、「若き哲学者」と呼ばれ、一躍脚光を浴びます。 その後、吉田拓郎が歌って有名になったシングル曲「されど私の人生は」、そして、早川義夫がプロデュースした1STアルバム『君は英雄なんかじゃない』をリリースします。 ポップでメロディアスな楽曲とは裏腹に、当時の社会情勢を色濃く反映した歌詞が当時の若者の支持を受けます。
しかし、時代の移り変わりとともに、ニューミュージック志向のアルバムを次々と発表し、「若き哲学者」のイメージは一掃されてしまいます。
そして、1980年に糸井重里が作詞、ムーンライダーズの鈴木慶一が作曲を担当したこの「いまのキミはピカピカに光って」をリリースします。この曲は、当時女子大生だった宮崎美子がビキニ姿になるミノルタ・カメラのテレビCMに使われたこともあって、大ヒット。ただ、斉藤自身は「自分のイメージではない」とずいぶん悩んだそうです。
90年代に入り、ゆったりとしたロックアルバムをインディーズからリリースするなど、マイペースに活動を続け、現在は、ライブを中心に音楽活動を行っています。

◆5月25日(金)
ノーマン・グリーンバウム 「スピリット・イン・ザ・スカイ」

アメリカ、マサチューセッツ州出身のノーマン・グリーンバウムは、ボストン大学で音楽を専攻していましたが、1965年、大学を辞め、ロサンゼルスに移り住み、ドクター・ウエストズ・メディスン・ショー&ジャグ・バンドという長ったらしい名前のジャグ・バンドを結成します。
しかし、アバンギャルドな演出をメインとしたこのバンドは短期間で分裂してしまい、ノーマンは、次のバンドを結成すべく、ソロ活動を始めます。そんな時、ノーマンは、ラビング・スプーンフルのプロデューサー、エリック・ジェイコブソンに出会います。エリックは、ノーマンの独創性に強く引かれ、彼と共同で、この「スピリット・イン・ザ・スカイ」を書き上げます。
そして、このサイケデリックな「スピリット・インザ・スカイ」は、ノーマン・グリーンバウムのデビュー曲として1969年にリリースされ、アメリカのヒットチャートでは3位、イギリスでは1位を獲得し、200万枚を超す大ヒットになります。しかし、ヒット曲はこの1曲だけで、酪農をテーマにしたセカンドアルバムは、大きな農場を買ってその農場にスタジオを作って、レコーディングを行いましたが、全く売れませんでした。
しかし、この曲は、1970年、この年を代表する一曲となり、「8月のメモワール」「アポロ13」をはじめ、多くの映画音楽に使われるだけでなく、1986年には、ドクター&ザ・メディクスがカバーし、リバイバルヒットしています。

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