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◆9月17日(月)
サム・クック 「ユー・センド・ミー」
サム・クックは、アメリカ、ミシシッピー州出身ですが、2歳の時にシカゴに移住します。父親は有名な牧師で、9歳の時には、兄弟たちと教会の聖歌隊でゴスペルを歌っていました。甘く美しい声の持ち主であったことから、高校在学中にソウル・スターラーズというゴスペル・グループのリード・ボーカルに迎えられ、ゴスペル界のアイドルとして人気を博します。その後、7年間ソウル・スターラーズとして活動するのですが、プロデューサーのリチャード・ブラックウェルと出会い、ソロ・アーティストとしてR&Bを歌うことになります。
サム・クックは、所属レコード会社からレコードをリリースすることが出来ず、1957年に、キーン・レコードに移籍し、この曲「ユー・センド・ミー」でソロ・デビュー、全米bPに輝きます。特にこの曲は、アレサ・フランクリン、マンハッタンズ、ロッド・スチュワート、フェアグランド・アトラクションといったアーティストがカバーし、リバイバル・ヒットしている名曲になっています。
サム・クックは、それまでの黒人歌手とは一線を画した洗練された音楽性で、その後も「ワンダフル・ワールド」「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」といったヒット曲を次々生み出し、ゴスペル出身のソウル・ミュージックの開拓者として、多くのミュージシャンに多大な影響を与えていきます。また、当時は、人種差別が横行していた時代ということもあり、黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的に加わり、マルコムXやモハメド・アリとも親しい間柄でした。
しかし、1964年、モーテルの女性管理人に銃で撃たれ、悲劇的な最期を迎え、33歳の若さで、この世を去っています。
◆9月18日(火)
小比類巻かほる 「ホールド・オン・ユー」
青森県三沢の米軍基地で歌っているところをスカウトされ、18歳の時に、「ネバー・セイ・グッバイ」でデビューした小比類巻かほる。
この曲「ホールド・オン・ユー」は、1987年にリリースされた4枚目のシングルで、ドラマ「結婚物語」の主題歌となり、大ヒットし、その年の紅白歌合戦にこの曲で初出場を果たします。その後も、ソウルフルな歌声とダンサブルな楽曲で人気を博し、「シティ・ハンター〜愛よ消えないで〜」「アイム・ヒア」「トゥギャザー」などのヒット曲を生み出します。
また、海外ではプリンスやアース・ウィンド&ファイヤーのモーリス・ホワイトとセッションやレコーディングを経験し、その類まれな才能を発揮し、他のアーティストへ楽曲を提供したり、プロデュースを行ったりするようになります。
90年代後半には、クラブ系のダンス・ミュージックに挑戦する「ルビー」というユニットで、インディーズでデビューしたり、2000年には元オフコースの鈴木康博らと「ボイス・オブ・2000ドリーム」という11人ユニットを結成したりと、幅広い活動を行っています。
◆9月19日(水)
キャプテン&テニール 「愛ある限り」
キャプテン&テニールは、キーボーディストのダリル・ドラゴンとボーカルのトニー・テニールという夫婦デュオ。ダリル・ドラゴンは、ビーチ・ボーイズのキーボード兼アレンジャーとしてビーチ・ボーイズのツアーに参加していたのですが、そのビーチ・ボーイズのマイク・ラブが、ダリルのトレード・マークの船長帽を見て、キャプテンというあだ名を付けました。一方のトニー・テニールは、ソロ・シンガーとして活動していましたが、1971年「マザー・アース」というミュージカルを書き上げ、それをサンフランシスコで上演するに際、来る予定のキーボードが来れなくなって、急遽ダリルがピンチ・ヒッターとして参加することになります。そして、ミュージカルが終了すると、今度は、ダリルがテニールにビーチ・ボーイズのバック・コーラスに参加しないかと誘い、一緒にツアーを回ることになります。そしてツアー終了後には、南カリフォルニアでキャプテン&テニールという男女デュオを結成、二人での活動をスタートさせます。
インディーズで出したデビューシングルが話題になり、1974年、A&Mから声がかかり、メジャー・デビューが決まり、その第1弾シングルとなったのが、この曲「愛ある限り」でした。ニール・セダカのカバー曲で、もともとアルバムの楽曲だったのですが、結婚したばかりの幸せな2人の気持ちをそのまま歌ったかのようなラブソングが好評となり、見事全米1に輝きます。それだけでなく、1975年に年間最高売上げ枚数としても1位に輝き、さらに1975年度のグラミー賞でレコード・オブ・ザ・イヤーにも輝きます。
その後、「ソング・オブ・ジョイ」「愛の証し」といった曲を次々とヒットさせるのですが、1980年代後半からは、ダリル・プロデュースで、トニー・テニールのソロ名義でジャズアルバムもリリースするようになり、舞台「ビクター/ビクトリア」にも主演するなど活躍の場をさらに広げていきました。
◆9月20日(木)
狩人 「あずさ2号」
加藤邦彦と加藤高道という兄弟で結成された兄弟デュオ、狩人。18歳で歌手を夢見て愛知県から上京した邦彦は、アルバイトをしながらその日を待ち焦がれますが、その兄のあとを追って弟、高道も上京し、狩人が誕生します。
この名前の由来は、2人の恩師である都倉俊一に「いつまでも大ヒットという獲物を狙い続けるハンター(狩人)であって欲しい」といわれて名づけられたのですが、その都倉が狩人のデビューとして書いたのが、この「あずさ2号」でした。
1977年にこの曲でデビューすると瞬く間にヒットチャートを駆け上がり、狩人を一躍スターの座に押し上げました。そして、日本レコード大賞新人賞はじめその年の新人賞を総なめにし、紅白歌合戦にも初出場を果たします。
その後、「コスモス街道」「アメリカ橋」といったヒット曲を生み、去年は、デビュー30周年を記念して東京ドームでコンサートも行いました。
ただ今年4月に12月31日をもって狩人を解散することを発表し、現在は、ファイナルツアーで全国を回っています。
◆9月21日(金)
ワン・チャン 「エヴリバディ・ハブ・ファン・トゥナイト」
イギリス、ロンドンで、1979年に、ボーカルでギターのジャック・ヒューズ、ベースのニック・フェルドマン、ドラムのダレン・コスティンの3人で結成されたワン・チャン。
もともとはハン・チャンと言うバンド名で、1982年、そのハン・チャンの名前で、「イズント・イット・アバウト・タイム・ウィー・ワー・オン・TV」と曲でデビューします。しかし、全く売れず、1984年、レコード会社を移籍し、グループ名をワン・チャンにし、アルバム「ポインツ・オブ・ザ・カーブ」をリリース、そのアルバムからのシングル曲「ダンス・ホール・デイズ」がアメリカのクラブを中心にヒットします。
ところが、ダレン・コスティンがバンドを脱退、ジャック・ヒューズとニック・フェルドマンの2人組になってしまいます。そして、2人組ワン・チャンとして発表されたのが『モザイク』というアルバムで、この曲「エヴリバディ・ハブ・ファン・トゥナイト」はそのアルバムからシングル・カットされ、特にゴドレイ&クレームが手掛けたミュージック・ビデオが話題となり、瞬く間にヒットチャートを駆け上がり、全米2位を記録します。
ゴキゲンなパーティ・チューンで、当時の年末年始パーティで、みんなで口ずさんでいたのですが、アメリカ・マーケットを意識した内容のアルバムで、本国イギリスでは成功を収めることが出来ませんでした。
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