番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT
◆10月15日(月)
ザ・タイガース   「モナリザの微笑」

1965年、京都で岸部修三、加橋かつみ、森本たろう、瞳みのるの4人が、「サリーとプレイボーイズ」というバンドを結成します。そこへ沢田研二が加入し、「ファニーズ」となり全関西エレキバンド・コンテストで優勝したことで、注目を集めます。
当時、大阪のジャズ喫茶が活動の拠点だった彼らは、内田裕也に出会い、オーディションを受けるように薦められます。見事にオーディションに合格するのですが、関西出身ということで、すぎやまこういちにバンド名をザ・タイガースに変更させられ、1967年、そのすぎやまこういち作曲の「僕のマリー」でデビューします。そして、3枚目のシングとなったこの曲「モナリザの微笑」で、一気にブレイクし、おりからのGSブームと相まって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドル・グループになります。さらにその人気を決定付けたのが5枚目のシングル「花の首飾り」で、1に輝きます。
1968年には日本で初となるスタジアムコンサートを後楽園球場で行うなど、ザ・タイガースはGSブームの頂点に立ち、GSブームを支えましたが、1971年の日本武道館でのコンサートを最後に解散しました。

◆10月16日(火)
ザ・ワイルド・ワンズ  「想い出の渚」

加瀬邦彦を中心に1966年に、4人で結成されたザ・ワイルド・ワンズ。もともと加瀬邦彦は清野太郎、かまやつひろしとともに「キャノンボール」というバンドを結成しますが、清野が渡米してしまったことで、バンドは解散。加瀬とかまやつはスパイダースに参加することになります。しかし、加瀬は、「寺内タケシとブルージーンズ」への誘いを受けたことで、スパイダースを脱退し、「ブルージーンズ」に加入します。その頃、アメリカでママス&パパスの「夢のカリフォルニア」がヒットしており、自分が目指している音楽だと確信した加瀬は、雑誌「平凡パンチ」でメンバー募集をして、鳥塚茂樹、島英二、植田芳暁とバンドを結成することになります。
そして、加山雄三に「生まれたままの姿の野生児」を意味する「ザ・ワイルド・ワンズ」というバンド名をつけてもらい、1966年、この曲「想い出の渚」でデビュー。大ヒットを記録し、ヒットチャートの1位に輝きます。その後も、「夕陽と共に」「青空のある限り」「愛するアニタ」などのヒットを飛ばし、人気を確実にしていきますが、68年には若干16歳の渡辺茂樹を5人目のメンバーに加え、ますます人気に拍車をかけます。
しかし、GSブームが下火になったことで、1971年にバンドは解散してしまいます。解散後、加瀬は沢田研二のプロデューサーとしてヒット曲を生み出していきますが、1981年に加瀬邦彦とザ・ワイルド・ワンズとして再結成。去年は40周年を迎え、日本武道館で100人のファンとともにこの「想い出の渚」を演奏し、話題になりました。

◆10月17日(水)
スパイダース  「夕陽が泣いている」

1961年に田辺昭知を中心に結成されたバンドで、結成当時は、ラウンジ・ミュージックやバックミュージシャンとして活動をスタートします。ワイルド・ワンズの加瀬邦彦も一時在籍するなど、幾度となくメンバーチェンジが繰り返され、堺正章、井上順、かまやつひろし、大野克夫、井上孝之、加藤充、そして田辺昭知というグループ・サウンズバンド編成になり、1965年「フリフリ」でデビューします。
堺正章、井上順という2人のボーカルにギターのかまやつひろしが、バンドのエンターテイメント性を担い、ギターの井上孝之とキーボードの大野克夫がスパイダースサウンドを支え、ドラムの田辺昭知がリーダーとしてバンドをまとめ上げるという構成で、おしゃれでエンターテイメント性もありながら、音楽性も兼ね備えた実力派バンドとして、注目を集めます。そして、国産オリジナル・ロック・バンドの先駆けとしてデビューから世界市場を意識し、自ら「トーキョー・サウンド」と名乗り、独自の日本語ロックを作り上げていきます。
このスパイダースの活躍が刺激となって、GSブームが巻き起こるのですが、そのきっかけとなったのが、浜口庫之助作曲のこの曲「夕陽が泣いている」で、120万枚を超す大ヒットとなり、一躍スターダムに押し上げます。その後、「いつまでもどこまでも」「あの時君は若かった」などのヒット曲を生み出しますが、1971年に日劇でのステージを最後にスパーダースは解散します。

◆10月18日(木)
ザ・カーナビーツ 「好きさ好きさ好きさ」

フリーランザーズというバンドに在籍していた弱冠16歳のドラマー、アイ高野とギターの越川ひろしの元に、別のバンドで活動していたギターの喜多村次郎、ベースの岡忠夫、ボーカルの臼井啓吉が集まり、ロビンズというバンドを結成します。ロビンズは、フィリップ・レコードのオーディションに合格し、デビューが決まり、『ミュージック・ライフ』の編集長によって、ザ・カーナビーツと命名されます。これは、当時ロンドンがファッションの最先端と言われており、ロンドンのカーナビー・ストリートから来ています。そして、1967年、この曲「好きさ好きさ好きさ」でデビューします。
この曲は、ゾンビーズの「I LOVE YOU」をカバーしたものでしたが、ドラムのアイ高野が「おまえのすべて」と歌いながら、スティックを客席に向かって突き出すアクションが脚光を浴びて、120万枚以上の売り上げを記録する大ヒットとなり、一躍脚光を浴びます。その後も、「恋をしようよジェニー」「オーケイ」「泣かずにいてね」などのヒット曲を連発し、GSブームを牽引しますが、1969年にボーカルの臼井が脱退、代わりにポール岡田が加入し、新生カーナビーツとして「テルテル天国」をリリースしますが、GSブームの衰退の波には勝てず、その年に解散に追い込まれてしまいます。
その後、アイ高野は、ゴールデン・カップス、クリエイションなどのバンドのドラマーとして参加しますが、昨年、急性心不全のために55歳という若さで、この世を去っています。

◆10月19日(金)
ズー・ニー・ヴー 「ひとりの悲しみ」

町田義人を中心に1968年に結成されたズー・ニー・ヴー。メンバーは、町田義人、上地健一のツインボーカルに、ギターの山本康生、ベースの塚谷茂樹、ドラムの大竹茂、オルガンの桐谷浩史という6人。もともと、町田と上地は、「キャッスル&ゲイツ」という3人組のフォーク・グループを組んでいたのですが、それが解散すると、「ズーム・ブーム」を結成、これが「ズー・ニー・ヴー」になります。
「ズー・ニー・ヴー」は1968年に「水夫の嘆き」でデビュー。翌69年にリリースしたセカンド・シングル「白いサンゴ礁」がヒットし、注目を集めます。この曲は、1970年に発表した4枚目のシングルで、聞いて分かった方も多いかもしれませんが、尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」のオリジナルバージョンなんです。この曲は元々、筒美京平がエアコンのCMソングとして作曲し、その曲を聞いた阿久悠が、「この曲はヒットする」ということで、歌詞をつけ「ひとりの悲しみ」としてズー・ニー・ヴーが歌ったのですが、「ズー・ニー・ヴー」バージョンは、セールス的には不発でした。
そこで、阿久悠が歌詞を換えて尾崎紀世彦の「また逢う日まで」として発表し、この曲がレコード大賞を受賞するに至り、阿久悠にとって感慨深い1曲になったというエピソードがあります。
ズー・ニー・ヴーは町田のバンド脱退をきっかけに1971年に解散、町田義人はその後、ソロ・シンガーとしてデビューし、映画「キタキツネ物語」のメインテーマ「赤い狩人」、映画「野生の証明」のメインテーマ「戦士の休息」などのヒット曲を生み出しました。

PAGE TOP

サウンド オブ マイスター トップページ 玉川美沙たまなび INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター