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ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆12月24日(月)
バンド・エイド  「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」

アイルランド出身のバンド、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフが飢えに苦しむエチオピアの惨状をテレビで見たことがきっかけとなって生まれたチャリティ・プロジェクト、バンド・エイド。
ボブ・ゲルドフが、ウルトラボックスのミッジ・ユーロとともに曲を書き上げ、この趣旨に賛同したイギリスとアイルランドの40名近いスーパースターがノー・ギャラで集結し1984年11月25日に一日限りのスーパーユニット「バンド・エイド」としてレコーディングされたのが、この曲「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」。演奏は、ドラムがフィル・コリンズ、ベースはワムのアンドリュー、ギターはU2のエッジが行い、カルチャー・クラブ、スタイル・カウンシル、スティング、フィル・コリンズ、デュラン・デュラン、ポール・ヤング、U2、ワム、バナナラマ、スパンダー・バレエ、デビッド・ボウイ、ポール・マッカートニーといった蒼々たるメンバーが参加し、12月3日に発売され、瞬く間にイギリスのシングルチャートでbPに輝き、大ヒットします。
このチャリティの成功に触発される形でアメリカではUSAフォー・アフリカが結成され、1985年に(イギリス)ロンドンと(アメリカ)フィラデルフィアで同時に行われた12時間にも及ぶチャリティ・コンサート「ライブ・エイド」へと繋がっていきます。
結局、1984年のオリジナル曲は350万枚のセールスを記録し、100万ポンドを超す支援金がエチオピアに送られ、ボブ・ゲルドフはノーベル平和賞候補に選ばれました。その後、1989年にはバンド・エイドUが、2004年にはバンドエイド20によってこの曲がリメイクされ、顔ぶれは変わっていますが、このプロジェクトが引き継がれています。

◆12月25日(火)
坂本龍一  「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」

日本が世界に誇る音楽家、坂本龍一。 3歳の時からピアノを学び、幼少から音楽教育を受けたことで、11歳ですでに作曲を始め、東京芸術大学に在学中から、スタジオ・ミュージシャンとして活動をスタートさせます。 初めてレコーディングに参加したのは飲み屋さんで知り合った友部正人のアルバムで、次いで大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次の「ナイヤガラ・トライアングル」に参加し、高い評価を得るようになります。
そして、1978年にファースト・ソロアルバム『千のナイフ』を発表し、それと同時進行する形で高橋幸宏、細野晴臣とともにYMO「イエロー・マジック・オーケストラ」の活動もスタートさせます。このYMOでのテクノ・ポップが日本だけでなく、世界でも注目を集め、坂本龍一の名前が世界中に知られることになります。
1983年に大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』にビートたけし、デビッド・ボウイらと共に出演し、この映画で初めて映画音楽を担当し、この曲「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」がヒットします。
このヒットがきっかけとなり、1987年、映画『ラストエンペラー』でも映画音楽を担当し、日本人初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞し、映画音楽家としての地位も不動のものとします。
この曲は、インストルメンタルですが、1999年に発表した「エナジー・フロウ」でインスト曲で初めてオリコンシングルチャート1位も記録し、社会現象にまで発展します。最近では、ボサノバを取り入れた音楽を世界に発表し、ブラジル政府から国家勲章を授与されています。

◆12月26日(水)
グレン・メディロス  「変わらぬ想い」

アメリカ、ハワイ州出身のグレン・メディロス。15歳の時に地元ハワイのラジオ局が行なったタレント・オーディションに参加して見事優勝したことがきっかけとなって、デビューしたグレン・メディロス。その時に歌った曲がジョージ・ベンソンの1984年のヒット曲だったこの曲「変わらぬ想い」で、カバー曲として正式にレコーディングしたところ、そのCDがアメリカ本土のラジオ局DJの手に渡り、オンエアされ、誰が歌っているのかという問い合わせとリクエストが殺到し、レコード会社が獲得に乗り出したというサクセス・ストーリーがあります。
そして、この曲がグレン・メディロスのデビュー曲となりますが、アメリカよりも日本、イギリスで先にシングルチャートで1を獲得し、人気を博します。そして、グレンは1990年に3枚目のアルバム『シー・エイント・ワース・イット』からボビー・ブラウンとデュエットしたタイトル曲「シー・エイント・ワース・イット」で全米bPに輝きます。
その後、クリスマス・アルバムなどを3枚のアルバムをリリースしますが、アーティストとしての活動をやめてしまい、現在は、ハワイで高校教師として音楽などを教えています。

◆12月27日(木)
オフコース  「さよなら」

小田和正と鈴木康博が中心になって高校時代にフォークグループを結成したのがきっかけとなって活動を始めたオフコース。 高校卒業後は、2人とも東京と仙台という別々の大学に進学しますが、時間を見つけては鈴木が仙台に出向いて練習し、1969年、「ヤマハライトミュージックコンテスト」で全国第2位になり、翌70年、シングル「群衆の中で」でデビューします。
デビューからメンバーの出入りがあり、デビューアルバムをリリースした時は、小田と鈴木の2人組のデュオになっており、1975年「眠れぬ夜」で初めてチャートインしますが、なかなかヒット曲には恵まれませんでした。
9年目にギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムの大間ジローが加わり、5人組となった1979年にリリースしたこの曲「さよなら」がミリオンヒットとなって、オフコースが爆発的な人気を得ます。
その後も「Yes-No」「ILOVEYOU」「YES,YES,YES」などのヒット曲を生み出し、ニューミュージックと呼ばれるジャンルで、時代を代表するグループになります。
そして1982年、前人未到の武道館10日間連続公演記録を打ち出しますが、その後、鈴木康博がグループを脱退。鈴木の脱退後、一時活動を休止した後、4人組となっても変わらぬ人気を博しますが、1989年、オフコースは解散してしまいます。
現在は、小田と鈴木はソロで、松尾、清水、大間の3人は、1999年に「アコースティック・ビートルズ・クラブ」を結成し、活動しています。

◆12月28日(金)
コモドアーズ 「永遠の人へ捧げる讃歌」

アメリカ、アラバマ州タスキーギ大学の2つのバンドが合体して6人組として結成されたコモドアーズ。地元モンゴメリーで知られるようになり、ニューヨークへ活動の拠点を移し、ハーレムのクラブで歌うようになります。
そして、1971年にジャクソン5の前座を務めるようになり、モータウン・レーベルとレコード契約を交わし、1973年アルバム『マシンガン』でデビューします。デビュー当時は、キーボードのマイラン・ウイリアムズを中心としたファンクグループとしてヒット曲を放ちます。77年にリリースしたこの曲「永遠の人に捧げる歌」が全米ナンバー1に輝き、世界的なバラード・グループとして一世を風靡します。 この曲は、ライオネル・リッチーの両親の37回目の結婚記念パーティで、父親が母親にささげた感謝の台詞がきっかけとなって生まれた楽曲で、70年代後半の結婚式の定番ソングになりました。
その後、ライオネル・リッチーはダイアナ・ロスとのデュエット「エンドレス・ラブ」で空前のヒットを記録し、ソロになり、コモドアーズを脱退してしまいます。
一方のコモドアーズは、元ヒートウェーブのJDニコラスを迎えて「ナイトシフト」がヒットしますが、メンバーチェンジが激しくなり、現在は、細々と活動を続けています。

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