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ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT
◆3月24日(月)
インコグニート  「ドント・ユー・ウォリー・バウト・ア・シング」

モーリシャス共和国出身のイギリス人、ジャン・ポール・ブルーイ・モニックを中心に1979年、ロンドンで「ライト・オブ・ザ・ワールド」というディスコ・ファンクバンドが結成されます。
わくにとらわれずにいろいろな音楽をやりたいという意味からバンド名を匿名と言う意味の「インコグニート」に改名。1981年にアルバム『ジャズ・ファンク』でデビューします。 インディーズでのデビューで話題になりますが、活動は一旦停止してしまいます。
90年代になって、アシッド・ジャズの名付け親であるDJジャイルス・ピーターソンがトーキング・ラウドというレーベルを立ち上げ、そこから1991年にアルバム『インサイド・ライフ』を発表し、再スタートを切ります。この曲「ドント・ユー・ウォリー・バウト・ア・シング」は、アメリカ人の人気シンガー、メイザ・リークをフィーチャーしたスティービー・ワンダーのカバーで、この曲がきっかけとなりブレイク。ロンドン・アシッド・ジャズ・シーンの中心的な地位を確立します。そして、ホーン・セクションを交えた躍動感あふれるソウルフルなサウンドで、90年代の世界中のダンス・フロアを席巻。ブルーイはインコグニートの活動以外にもプロデューサーとしても世界的に活躍するようになります。2005年には、インドネシア・スマトラ沖地震津波チャリティ・プロジェクト「ホープ・コレクティブ」も提唱しますこのプロジェクトには世界中のビッグ・アーティストが集い、話題になりました。

◆3月25日(火)
尾崎紀世彦  「また逢う日まで」

中学時代にハワイアンに出会い音楽を始めたという尾崎紀世彦は、「ヒロ・ハワイアンズ」を結成。カントリーウエスタンのジミー時田に認められて、「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のメンバーとなり、1967年には、GSグループ「ザ・ワンダース」に参加します。この時に「ジ・エコーズ」というバンド名で、ウルトラセブンの主題歌を担当したというのは有名な話になっています。
1970年にシングル「別れの夜明け」でソロデビュー。しかし、ソロデビュー直後、交通事故に巻き込まれ、4ヶ月の入院生活を余儀なくされます。退院後にこの曲「また逢う日まで」をセカンドシングルとしてリリース。シングルチャートで9週連続1位を獲得するヒットとなり、100万枚を超すミリオンセールスを記録し、一躍トップ・シンガーとしてその名が知られるようになります。そして、日本で初めて日本レコード大賞と日本歌謡大賞のビッグタイトルを同時受賞という快挙を成し遂げ、紅白歌合戦にも初出場を果たします。
元々、この曲は、作曲家の筒美京平が、エアコンのCMソングとして作曲したものですが、それを聞いた阿久悠が歌詞をつけて、「ひとりの悲しみ」というタイトルでズー・ニー・ヴーに歌わせるものの全く売れませんでした。楽曲の良さを知ってもらおうと再度歌詞を書き変えて作ったのがこの曲「また逢う日まで」で、阿久悠の執念が日本レコード大賞と日本歌謡大賞の同時受賞につながったともいえる楽曲かもしれません。尾崎紀世彦は2オクターブの音域を持つパワフルな歌唱力と表現力でその後も数々の賞を受賞。2005年には「釣りバカ日誌16」に出演し、俳優としても活動しています。

◆3月26日(水)
ブルース・ホーンズビー&ザ・レインジ  「ザ・ウェイ・イット・イズ」

アメリカ、バージニア州出身のブルース・ホーンズビーは、マイアミ大学、バークリー音楽院に在学中から、バーで演奏したり、デモテープを作るなどの音楽活動をしていましたが、卒業後、ソングライティング・パートナーである兄、ジョンと書いた楽曲が認められ、ロサンゼルスの20世紀フォックス社のソングライターとなります。ここで、ヒューイ・ルイスに出会い、ヒューイの紹介のおかげで、1985年に結成したバンド、ブルース・ホーンズビー&ザ・レインジとしてデビューすることが出来ます。
翌86年に不況であえぐアメリカの現状を歌ったこの曲「ザ・ウェイ・イット・イズ」でデビューし、全米1に輝き、この曲を収めたアルバム『ザ・ウェイ・イット・イズ』は300万枚を超すセールスを記録し、グラミー賞では最優秀新人賞を獲得します。また、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「ジェイコブス・ラダー」やドン・ヘンリーの「エンド・オブ・ジ・イノセンス」など、メロディ・メイカーとして美しい楽曲を多くのアーティストに提供しています。
その後、ブルース・ホーンズビー&ザ・レインジとして2枚のアルバムをリリースしますが、1990年からは亡くなったメンバーの代役でグレイトフル・デッドのメンバーとして、そして、ボブ・ディランなどのプロデューサーとしても活動します。93年に初めてブルース・ホーンズビーのソロ名義のアルバムをリリースし、ゴールド・ディスクを獲得し、最近ではソロとしても活躍していますが、去年、リッキー・スキャグスと共にブルーグラス・アルバム、そして、ブルース・ホーンズビー・トリオでジャズ・アルバムの作風の違う2枚のアルバムを発表し、話題になりました。

◆3月27日(木)
中原理恵  「東京ららばい」

エレガントなルックスと大人びた歌唱力で、筒美京平、山下達郎などの豪華な作家陣が名前をつらねたアルバム『タッチ・ミー』でデビューした中原理恵。
この曲「東京ららばい」は1stシングルとして発表された楽曲で、松本隆・筒美京平というゴールデン・コンビが手掛けて大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たします。この曲を歌っていた時はまだ19歳でしたが、曲調が大人っぽかったために年上の年齢に偽っていたというエピソードもあります。
この「東京ららばい」のヒットを受けて、その後も、松本隆・筒美京平は勿論のこと、山下達郎をはじめ大滝詠一、吉田拓郎、高橋幸宏、糸井重里といった錚々たるアーティストたちに支えられて、ヒット曲を連発しました。
1981年からはバラエティ番組「欽ドン」の人気コーナーの「良い妻・悪い妻・普通の妻」としてそれまでのシリアスなイメージを打ち破るコミカルな演技で人気が爆発し、演技力、トークの切れが高く評価されて、「男はつらいよ」にマドンナ役として出演するなど、女優としても活動するようになります。また関口宏、タモリとともに「ミュージックステーション」の司会進行役のパートナーを務めるなど、マルチに活躍します。80年代後半からは主に女優として活動し、映画『鉄道員』に出演しましたが、1997年にFACEというユニットで一時歌手活動を再開し、話題になりました。

◆3月28日(金)
ZZトップ  「スリーピング・バッグ」

1969年、ギターボーカルのビリー・ギボンズが行ったオーデションに合格したドラムのフランク・ベアード、ベースのダスティ・ヒルによって結成された、アメリカ・テキサス州出身のロックバンド・ZZトップ。
1971年、『ファースト・アルバム』でデビューすると、4人目のZZトップとも言われているプロデューサー・ビル・ハムの「地元テキサスで地道なライブを行って自分たちの名前を売り込もう」という提案で、連日連夜テキサスのクラブでライブを行い、その名が知られるようになります。そして、3枚目のアルバム『トレス・オンブレス』がプラチナアルバムを獲得した事で、ローリング・ストーンズ、ジャニス・ジョプリン、ディープ・パープルの前座を担当。その名を全米に知らしめます。
70年代後半、世界的なディスコブームが起こると、「自分たちの音楽と合わない」として、1年間に300日以上、ライブだけを行うなど、自分たちの時代がやってくるのを待ち続けます。そして、1983年、昔ながらのダイナミックで男くさいサザンロックに、大胆なシンセサイザーを導入した新生ZZトップのアルバム『イリミネイター』を発表。全世界で850万枚を超すセールスを記録し、世界的に知られるようになります。
この曲「スリーピング・バッグ」は、1985年に発表したアルバム『アフターバーナー』からのヒット曲で、サングラスにサンタクロースのような長いひげ、ギターを回すというスタイルが、日本でも受けて、念願の初来日も果たしました。また、1998年には、ホンダZのCMでギターを回すというパフォーマンスが、再び注目を集め、翌99年にフジロックフェスティバルで再来日。往年のロックファンを喜ばせてくれました。結成以来、現在まで一度もメンバーチェンジを行わず、今年結成40周年を迎えます。

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