番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆5月12日(月)
カーディガンズ  「カーニバル」

ギターのピーター・スベンソン、ベースのマグナス・スベニングソン、ドラムのベン・ラガーバーグ、キーボードのラッセ・ヨハンソン、そして紅一点のボーカル・ニーナ・パーションというスウェーデン出身の5人組、カーディガンズ。当初、ピーターとマグナスがハード・ロック・バンドを作っていたのですが、そこへアート・スクールの学生だったニーナとラッセとベンが加入し、カーディガンズを結成します。
更なる活躍の場を求めて、活動の拠点をマルメという都市へ移し、デモテープを製作すると、それがプロデューサーのトーレ・ヨハンソンの目に留まり、1994年、シングル「ライズ&シャイン」でデビュー。ファーストアルバム『エマデイル』を発表し、スウェーデン国内で話題のバンドとして注目を集めます。
この曲は、1995年に発表したセカンドアルバム『ライフ』からのシングル曲で、カーディガンズ初のヒット曲となり、150万枚を超すセールスを記録します。日本でもスウェーディッシュ・ポップ・ブームの火付け役として、この曲が大ヒットし、トヨタのプリウスのCMソングにもなりました。また、3枚目のアルバムからのシングル「ラブフール」は、映画『ロミオ&ジュリエット』のサントラにも収録されて、世界中でヒットしました。
その後、バンド活動を休止して、メンバーがそれぞれソロ活動に入りますが、2003年には5年ぶりにセルフ・プロデュースという形で、5枚目のアルバム『ロング・ゴーン・ビフォー・デイライツ』を発表。2005年には、再びトーレ・ヨハンソン・プロデュースで『スーパー・エクストラ・グラビティ』をリリース。おととし夏のサマー・ソニックで来日して、話題になりました。

◆5月13日(火)
渡辺真知子  「かもめが翔んだ日」
ガロの「学生街の喫茶店」に刺激を受けて高校時代からシンガーソングライターになることを夢みていた渡辺真知子。大学1年の1975年、新人アーティストの登竜門であるヤマハのポプコンに出場し、特別賞を受賞。大学卒業後の1977年、自らが作詞作曲した「迷い道」でデビューし、いきなり大ヒットします。当時、「シンガーソングライターは、テレビに出演して歌わない」という音楽業界の常識があったのですが、積極的にテレビに出演して歌い、脚光を浴びます。
この曲「かもめが翔んだ日」は、1978年にリリースされたセカンドシングルで、日本レコード大賞最優秀新人賞など12の賞を獲得し、大ヒットしました。その後も、「ブルー」「たとえば…たとえば」「唇よ、熱く君を語れ」など、印象的な歌詞と心に残るメロディ、そして、抜群の歌唱力で、次々とヒット曲を放ち、「実力派シンガー」として人気を博します。
80年代後半に、アメリカに留学。帰国後は、オリジナルにこだわらず、ジャズやラテンも歌うようになり、音楽の幅を広げ、「THE夜もヒッパレ」といった歌番組にも出演しました。千葉ロッテマリーンズのチーム・キャラクターがカモメであることから、試合中にこの曲が流れるようになり、去年スタジアム・バージョンの「かもめが翔んだ日」もリリース。また、去年はデビュー30周年記念の「鴎(カモメ)30」というタイトルのアルバムを発表し、30周年記念コンサートを各地で積極的に行ないました。

◆5月14日(水)
ローラ・ブラニガン  「グロリア」

アメリカ、ニューヨーク出身のローラ・ブラニガンは、祖母がオペラ歌手、母親はラジオ局の専属歌手と音楽家族の中で育ちますが、スポーツ選手になることが夢で、水泳でオリンピック出場を目指していました。しかし、高校時代にミュージカルで主役を演じたことがきっかけで、歌手になることを決心し、卒業後、演劇学校に通い、歌やダンス、演技を基礎から学びます。70年代後半にレナード・コーエンのヨーロッパ・ツアーにバックコーラスとして参加したことがきっかけとなって、1980年、アトランティック・レコードから「フールズ・アフェア」でデビューします。
そして、1982年、この曲「グロリア」が全米のシングルチャートで2位と大ヒットし、グラミー賞最優秀ポップ女性歌手賞にノミネートされます。さらに「哀しみのソリテアー」「セルフ・コントロール」といったヒット曲を生み出し、3枚目のアルバム『セルフ・コントロール』は西ドイツやアルゼンチンで1に輝くなど、世界的に知られるようになります。
特に5オクターブのパワフルな歌声とダイナミックなステージ・パフォーマンスが好評で、特にラテン・アメリカと南アフリカで絶大な人気を誇りました。女優として、映画やテレビドラマにも出演するなど、幅広く活躍しますが、90年代に入ると、癌と闘う夫の看病に時間を費やし、音楽活動を休止しました。怪我もあって本格的な活動再開は、2002年のジャニス・ジョプリン役のミュージカル出演からで、レコーディングも再開させますが、2004年、脳動脈瘤で47歳という若さでこの世を去りました。

◆5月15日(木)
マイ・リトル・ラバー  「マン&ウーマン」

サザンオールスターズやミスター・チルドレンのプロデューサーとして知られている小林武史が、自らのソングライティングを展開するプロジェクトとして結成したのが、ボーカルのアッコとギタリストの藤井謙二からなるユニット、マイ・リトル・ラバー。1995年、この曲「マン&ウーマン」でデビューすると、ノンタイアップながら、いきなり50万枚を超すヒットとなり、最高位7位を記録。続く「白いカイト」もヒットし、3枚目のシングル「ハロー,アゲイン〜昔からある場所」は180万枚を超すヒット。これら3曲を含むファーストアルバム『エバーグリーン』の売り上げは、280万枚を記録しました。
このファーストアルバムから小林武史がメンバーに加わり、3人組となって「アリス」「ナウ・アンド・ゼン〜失われた時を求めて〜」「イエス〜フリー・フラワー〜」といったシングルをリリースしますが、小林とアッコの結婚と2人の子どもの出産があって、活動休止となります。2001年に活動が再開されますが、2002年にギターの藤井が脱退し、小林とアッコの2人組となり、おととしにはアッコのソロ・プロジェクトとなりました。
今年は、3月から「現在」「過去」「未来」といったストーリー展開された3枚のシングルが発表され、今月1日に『アイデンティティー』というニューアルバムが発表されると同時に1夜限りのアニバーサリー・ライブが行なわれました。

◆5月16日(金)
ランDMC  「ウォーク・ジス・ウェイ」

アメリカ、ニューヨークのクィーンズ出身のランが、ヒップ・ホップ・レーベル「デフ・ジャム」の創設者である兄・ラッセル・シモンズのアドバイスから、幼馴染であるDMCとのラップデュオを結成。高校卒業後、ジャム・マスター・ジェイをDJに迎えて、ランDMCを結成して、1983年「イッツ・ライク・ザット」でデビューします。
デビュー曲「イッツ・ライク・ザット」は、R&Bチャートで11位を記録し、続いてリリースしたアルバム『ランDMC』がヒップ・ポップ・アルバムとしては初めてゴールド・ディスクを獲得します。この曲「ウォーク・ジス・ウェイ」は、1986年にリリースされたシングル曲で、エアロスミスとのカバー・コラボレーション・ソングとして全世界的にヒットするだけでなく、当時落ち目だったエアロスミスを復活させます。
この「ウォーク・ジス・ウェイ」のヒットの影には、「デフ・ジャム」を共同で立ち上げたプロデューサー、リック・ルービンの手腕があり、これまでのラップ・グループにはなかったヒップ・ホップにロックを融合させて、ラップという音楽を広く大衆に知らしめることに成功させます。この曲を収めた3枚目のアルバム『ライジング・ヘル』は、300万枚を超すヒットを記録。また、アディダスのスニーカーやジャージ、カンゴール・ハットに太いゴールドのチェーンといったスタイルを若者たちが真似するようになり、アディダス・ブーマーを生み出しました。
90年代に入ると、第一線から遠のいてしまいますが、2001年に7枚目のアルバム『クラウン・ロイヤル』で復活。ツアーも行なわれたのですが、2002年、ジャム・マスター・ジェイが凶弾に倒れ、グループ活動に終止符を打たれてしまいました。現在は、ランとDMCがそれぞれソロで活動をしています。

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