番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT

◆8月 11日(月)
エドウィン・スター  「黒い戦争」

アメリカ、ナッシュビル出身のエドウィン・スター。1957年、ドゥーワップ・グループ、ザ・フューチャー・トーンズというグループに参加し、そのキャリアをスタートさせますが、陸軍に入隊し、音楽活動を止めなければならなくなります。そして、2年間の兵役を終え、ビル・ドゲット・コンボのボーカルを経て、65年、シングル「エイジェント・ダブル・オー・ソウル」でソロ・シンガーとしてデビュー。68年には「さすらいの25マイル」がイギリスでヒットし、それが本国アメリカに飛び火してヒットし、ようやくアメリカでもその名が知られるようになります。
この曲「黒い戦争」は、1970年の大ヒット曲。ベトナム戦争に対して、反戦運動が繰り広げられるようになり、そんな空気を反映し、3週連続全米1を獲得しました。もともとこの曲は、モータウンの作曲家で、プロデューサーでもあるノーマン・ウィットフィールドが、テンプテーションズの為に作った曲でした。しかし、モータウン上層部がテンプテーションズの政治的な色が付くことを嫌がって、エドウィン・スターに白羽の矢が立ち、1位に輝いたばかりか、グラミー賞も獲得しました。
その後、モータウンを離れ、ディスコ・アーティストとして活躍します。90年代は、ドイツやイギリスに活動の拠点を移し、人気を博しましたが、2003年、心臓発作により、61歳で亡くなりました。なお、この曲は、ブルース・スプリングスティーンやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドにカバーされてリバイバル・ヒットを記録しました。

◆8月 12日(火)
バブルカム・ブラザーズ  「ウォン・ビー・ロング」

清水国明に弟子入りし、コミック・グループ「あ」を結成し、その後、ソロシンガーとしてデビューしたブラザー・コーンと、「お笑いスター誕生」でグランプリを獲得し、コメディアンとして活動していたブラザー・トムが、1983年、結成した、バブルガム・ブラザーズ。元々、別々にコメディアンとして活動していた2人で、1983年に結成されます。ショーパブからスタートし、新宿ルイードで1年半超満員という記録を作り、レコード会社6社の争奪戦を経て、1985年、シングル「忘れじのエブリナイト」でデビューします。
1989年にはニューヨークの音楽の殿堂、アポロシアターのアマチュアナイトに出演して3位に入賞。ジャパニーズ・ブラック・ミュージックのパイオニアとして、日本の音楽シーンを牽引していく存在になります。この曲「ウォン・ビー・ロング」は、1990年に発表したシングル曲で、オリコンシングルチャートで3位を記録し、大ヒット。その年の紅白歌合戦に出場します。「阿波踊り」をモチーフに作られたR&B風J-ポップということで、3年に及ぶロング・ヒットとなり、最終的に120万枚を超すセールスを記録しました。
現在、バブルガム・ブラザーズとしては活動を休止しており、ブラザー・コーンは、ソロとして、ブラザー・トムは、3人組の「リアル・ブラッド」として活動しています。この曲は、2006年にエグザイルと倖田来未というコラボレーションがカバーし、話題になり、今年18年ぶりに再び発売されました。

◆8月 13日(水)
リトル・リバー・バンド  「追憶の甘い日々」

オーストラリア、メルボルンで結成されたリトル・リバー・バンド。ミシシッピーというグループに在籍していたグレアム・ゴーブル、ビーブ・バートルズ、デレク・ペリッシの3人が中心となり、グレン・シャロック、リック・フォーモサ、ロジャー・マクラクランが加わって、1975年、リトル・リバー・バンドが結成されます。1976年、「イッツ・ア・ロング・ウェイ・ゼア」でデビューすると、オーストラリアで高い人気を得て、さらにアメリカにも進出し、ウエスト・コーストを彷彿するサウンドでスマッシュ・ヒットとなります。オーストラリア出身のグループとしては、初めて、アメリカでゴールド・ディスクを獲得しました。
そして、この曲「追憶の甘い日々」は、1978年に発表した3枚目のアルバム『夢追人』からのシングル曲で、全米3位を記録し、リトル・リバー・バンドを代表する1曲となります。 その後、メンバー・チェンジが激しくおこなわれますが、美しいコーラスワークと爽やかで洗練されたサウンドが好評で、これまでにアルバムの総売り上げ枚数が2500万枚以上を記録し、現在もツアーを中心に活動を行なっています。

◆8月 14日(木)
石嶺聡子  「花」

沖縄出身の石嶺聡子は、音楽があふれる家族の中で育ち、司会業をしていた父親の影響で、幼い頃から人前で歌うようになり、アマチュアながら一目置かれる存在となります。高校2年のときに、長崎歌謡祭に出場してグランプリを獲得し、レコード会社のプロデューサーにスカウトされて、歌手になることを決心します。そして、高校卒業後、アメリカでボイストレーニングとダンス・レッスンを受け、1994年、シングル「土曜日とペンと腕時計」でメジャーデビューします。
この曲「花」は、同じ沖縄出身の喜納(きな)昌吉(しょうきち)の代表的な楽曲ですが、映画「ひめゆりの塔」の主題歌としてカバーし、50万枚を超す大ヒットとなり、紅白歌合戦にもこの曲で出場を果たします。翌96年には、インドネシア、バリ島で行われた「第1回アジア音楽祭」で、グランプリを獲得します。現在は、インディーズ・シーンで、もともとはロック好きということで、洋楽テイストな楽曲のシンガーソングライターとして、新たな魅力を見せています。

◆8月 15日(金)
ポール・ハードキャッスル 「19」

イギリス、ロンドン出身のポール・ハードキャッスル。10代の頃にオーディオ・ショップで働いていましたが、次第に電子楽器に興味を持ち始め、わずか6週間でシンセサイザーを独学でマスターします。自分でも音楽活動を始めてみようと思い、雑誌のバンド・メンバー募集を見て、「ディレクト・ドライブ・アンド・ザ・ファースト・ライト」というバンドに参加。半年後にはバンドの演奏する大半の曲を作るようになり、解散する時には、スタジオ・ワーク的なミキサーの領域にまで精通してしまうまでになります。1983年、ポール・ハードキャッスル名義でインディーズ・デビューすると、シングル「ユー・アー・ザ・ワン・フォー・ミー〜デイブレイクAM」がヒット。翌84年までに4枚のシングル曲をヒットさせ、その活躍ぶりがアメリカにも飛び火。1985年、この曲「19(ナインティーン)」でメジャーデビューを果たしました。
この曲は、ベトナム戦争を題材にした楽曲で、「第2次世界大戦に参加した兵士の平均年齢は26歳、ベトナム戦争では19歳だった」というニュースのナレーション・ボイスに、エレクトロ・ファンク・サウンドを見事に融合させて、全英で1位を獲得。アイバー・ノベロ賞を獲得しました。
さらに世界13カ国の言葉に吹き替えられて、日本ではニュース・キャスターの小林完吾(こばやしかんご)氏が吹き替えを担当して話題になりました。その後、ポール・ハードキャッスルは、「ジャズ・マスターズ」と「キス・イン・ザ・スカイ」というプロジェクトを作り、それぞれでヒット曲を放ち、ポール・ハードキャッスル名義と共に3足の草鞋で精力的に活動しています。

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