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ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT

◆1月 26日(月)
ポール・サイモン  「コール・ミー・アル」

ニューヨークで小学校からの幼馴染だったポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、トム&ジェリーというグループ名で、弱冠15歳にして、「ヘイ・スクールガール」という曲でデビューします。その後、トム&ジェリーは解散してしまいますが、1964年に、「サイモン&ガーファンクル」として、アルバム『水曜の朝、午前3時』で再デビュー。そこから「サウンド・オブ・サイレンス」が初の全米ナンバー1に輝くと、映画『卒業』のテーマ曲となった「ミセス・ロビンソン」も全米1位になり、一世を風靡します。1970年には、シングル「明日に架ける橋」とアルバム『明日にかける橋』が共に、年間チャートで1に輝くという初の快挙を得ますが、音楽性の違いから解散してしまいます。
1972年にアルバム『ポール・サイモン』でソロデビューを果たすと、白人アーティストとして初めてレゲエ・サウンドを取り入れて注目を集めます。そして、1975年にアルバム『時の流れを』を発表すると、このアルバムとシングル「恋人と別れる50の方法」が共に1を獲得。グラミー賞最優秀アルバム賞も受賞し、ソロとしても頂点を極めます。この曲「コール・ミー・アル」は、1986年に発表したアルバム『グレイスランド』からのヒット曲ですが、このアルバムは、当時アパルトヘイト政策をとって、国際的な非難を浴びていた南アフリカの民族音楽を導入し「ボイコット破り」であると議論を巻き起こしました。しかし、音楽面での評判は非常に高く、全世界で1400万枚のセールスを記録。ソロとして2作目のグラミー賞最優秀アルバム賞に輝くだけでなく、翌年にもグラミー賞を受賞。1枚のアルバムで2年連続グラミー賞受賞という栄誉をもたらしました。

◆1月 27日(火)
高田みづえ  「そんなヒロシに騙されて」

テレビのオーディション番組「君こそスターだ!」で、グランドチャンピオンに輝き、15歳で1977年、シングル「硝子坂」でデビューを果たした高田みづえ。「硝子坂」、「だけど」、「ビードロ恋細工」、「花しぐれ」と、
4曲連続でトップ10ヒットを飛ばし、日本レコード大賞新人賞、日本歌謡大賞新人賞などの数々の新人賞を受賞。紅白歌合戦への出場も果たします。しかし、デビュー曲「硝子坂」のイメージを超えられず、その後、停滞期に陥ってしますのですが、1980年に桑田佳祐が提供した「私はピアノ」がヒットし、自身最高のセールスを記録。見事に返り咲きました。
この曲「そんなヒロシに騙されて」は、サザンオールスターズのアルバム『綺麗』に収められた1曲。こちらも桑田佳祐が提供し、大ヒットしました。その後、1985年、当時大関で人気力士だった若嶋津との結婚を発表し、芸能界を引退。2児の母となり、現在は、松ケ根部屋のおかみさんとして、若手の育成にあたっています。

◆1月 28日(水)
テンプテーションズ   「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」

アメリカ、デトロイトで活躍していたザ・プライムズとザ・ディスタンツというドゥワップ・グループのオーティス・ウィリアムス、ポール・ウィリアムス、メルビン・フランクリン、エディ・ケンドリックス、エルブリッジ・ブライアントの5人が結成したテンプテーションズ。1961年にシングル「オー・マザー・オブ・マイン」でデビューしますが、デビュー当時は、5人それぞれが、リード・シンガーとして歌えたことで、個性を打ち出す妨げになり、なかなか成功を収めることができませんでした。しかし、1964年、エルブリッジが脱退し、デビッド・ラフィンが加入したのをきっかけに、 彼をリード・ボーカルに打ち出し、シングル「マイ・ガール」が全米bPに輝き、黄金期を迎えます。
その後、デビッドが脱退し、デニス・エドワーズが加わると音楽性が激変しますが、「クラウド・ナイン」「はかない想い」といったヒット曲を生み出し、第2次黄金期を築き上げます。この曲「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」は1972年の第2次黄金期のヒット曲で、4作目の全米1に輝くとともに、グラミー賞も獲得しました。その後は、数え切れないほどのメンバー・チェンジを繰り返し、リーダーのオーティス以外のオリジナルメンバーは全員亡くなってしまいましたが、現在もなお現役として活躍中で、去年の年末に来日公演も行いました。

◆1月 29日(木)
ジュディ&マリー  「そばかす」

ベースの恩田快人(おんだよしひと)がジャクスン・ジョーカーというバンドに在籍していた時に、北海道、函館で映画『いつかギラギラする日』に出演した際にエキストラだったユキと出会ったことがきっかけで、ジュディ・アンド・マリーを結成します。まず、1992年、インディーズレーベルからアルバム「ビー・アンビシャス」を発表し、その後、ドラムの五十嵐公太(いがらしこうた)とギターのタクヤが加入して、1993年、シングル「パワー・オブ・ラブ」でメジャーデビューします。7枚目のシングル「オーバー・ドライブ」でブレイクすると、2日間に渡る武道館公演も超満員となり、その名が知られるようになります。
そして、この曲「そばかす」がオリコンシングルチャートで初の1位に輝くと、120万枚を超すビッグ・ヒットとなり、この曲を収めたアルバム『ザ・パワー・ソース』はアルバムチャートでも初登場1位を獲得し、200万枚以上のセールスを記録、押しも押されぬ人気バンドとなり、 紅白歌合戦に初出場を果たします。1999年は充電期間となり、1年間、活動を休止し、 2000年に活動を再開させますが、2001年の東京ドームでの2日間のライブをもって 解散、現在はそれぞれのメンバーがソロとして活躍しています。

◆1月 30日(金)
ジャクソン・ブラウン  「サムバディーズ・ベイビー」

西ドイツ生まれのジャクソン・ブラウン。3歳の時にアメリカに帰国して、カリフォルニアに移り住み、12歳の頃から曲作りを始めるようになります。1968年、ニッティ・グリッティー・ダート・バンドに在籍し、そのキャリアをスタートさせますが、成功を収めることが出来ずに、いくつかのバンドを転々とします。その後、バーズと、リンダ・ロンシュタットに曲を提供したことでレコード契約を結び、1972年、アルバム『ジャクソン・ブラウン・ファースト』でデビューしました。アルバムからのシングルカットとなった「ドクター・マイ・アイズ」がヒット。その直後、イーグルスのために書いた「テイク・イット・イージー」が大ヒットし、作曲家としても注目を集めるようになります。
続くアルバム『プリテンダー』『孤独のランナー』が着実にセールスを伸ばし、6枚目のアルバム『ホールド・アウト』で初の全米ナンバー1に輝きます。この曲「サムバディーズ・ベイビー」は、1982年公開の映画「初体験!リッチモンド・ハイ」のサントラに収められた1曲。全米チャート7位を記録し、ジャクソン・ブラウンを代表する1曲となっています。去年は、6年ぶりのオリジナルアルバム『時の征者』を発表。ワールドツアーも行い、11月には来日コンサートがありました。

 

 

 



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