戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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沖縄戦で青少年学徒の「鉄血勤皇隊」だった元県知事の大田昌秀さん

6月23日、沖縄は70年目の慰霊の日を迎えました。本土を守るため、防波堤とされ、民間人を巻き込んで激しい地上戦が行われた島です。およそ90日間の戦いで、犠牲となった県民は、十数万人。このうち10万人近くは民間人でした。
大田さんは、青少年学徒の鉄血勤皇隊の中でも大本営発表を戦地に伝えて回る千早隊として活動。戦時中は軍国青年だったそうですが、敗戦を米兵の残した英字新聞で知った戦友に感銘を受け、戦後はアメリカにも留学。その後、大学教授として、そして沖縄県知事として常に沖縄の歴史と関わり続けてきました。

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およそ2時間、休むことなく「沖縄」について語り続けた大田さん。
那覇市内にある、大田さん主宰の沖縄国際平和研究所で伺いました。


なお対談の中で、沖縄戦が終わった日(牛島司令官が自決した日)について、大田さんが、牛島司令官の孫から聞いた話として23日ではなく22日だと語っています。さらに今月25日のニュースでは、そのお孫さんが、戸籍を確認したところ20日となっていたことがわかりました。沖縄戦はいつ始まったのか、いつ終わったのか、そして牛島司令官(中将)は切腹したのか、それとも青酸カリを飲んだのかなど不明な点が今も多く残されています。
※牛島司令官のお孫さんは今は平和運動家として活動されていて、大田元知事とも交流があります。人の縁とは不思議なものですね。




今回のポッドキャストは前編と後編でお送りいたします。
前編はこちらから
後編はこちらから

アーサーのインタビュー日記

大田さんの戦争は、6月23日以降も終わらず、1945年の10月まで続きました。その間に人間の色々な姿を見ました。大変な修羅場をくぐり抜けながら沢山の人が殺されるのを見てきました。同じ日本兵同士が殺し合って食料を奪い合う場面も見たそうです。それまで大切だと思っていたもの、信じていたものがみな崩壊して、大田さんには「幻滅の悲哀」が生まれました。しかしその「幻滅」から「学び」もあり、彼の70年間に渡る活躍が始まったと言えます。「幻滅」がこんなに大きな原動力となって、一人の人間の人生を力強く支えていくという事が、今回の大きな発見でした。大田さんの言葉で僕の心に突き刺さっている表現があります。それは「沖縄では、試験管の中で純粋培養するように青年たちの軍国主義が作られていった」という言葉です。「沖縄には神田のような古書街もなかった。だから多様性に富んだ思想の糧になる、世界の様々な政治・経済の本が沖縄には全く入って来なかった。多様性が無かったから与えられたもの、押しつけられたもの、自分たちが飲まされた思想をそのまま受け入れるしかなかった」というお話でした。しかし僕は同時に、今の日本で、経済、政治、世界を見つめる考え方に本当に多様性が存在しているのだろうかということも考えました。現代はインターネットがあり言論の自由もあって、いろいろな情報にアクセスすることが可能です。でも日本社会に本当に多様性に富んだ思想が根付いているのでしょうか。画一的なもの、純粋培養されたものになっていないのでしょうか。教育現場の問題も含めて、大田さんの話を吟味しながら今の日本を検証していきたいと思いました。

戦地に残した仲間達の遺骨を拾い続けた気骨の人、西村幸吉さん

出兵した将兵の9割が生きて戻れなかったと言われる東部ニューギニア戦線。アメリカやオーストラリアの連合軍との戦いで、12万7600人の日本兵が戦死しました。その遺骨の多くは、今なお日本には戻ってきていません。飢えと感染症にも苦しみ、負傷した兵士は置き去りにもされた戦場で、西村さんも22歳の夏に最前線で戦いました。西村さんは60歳の時にかつての戦地に戻り、25年間に渡って共に戦った仲間達の遺骨を拾い続けます。その姿は敵国であったオーストラリアで「ボーンマン」として尊敬を集める事となります。上官も一目置く存在だった兵長としての生活。上官の遺体を回収する間、一発の弾も撃ってこなかったオーストラリア軍。戦後アメリカ兵を手りゅう弾で脅かそうと目論んだ話など、放送で語りつくせなかった逸話も沢山あります。ぜひ木曜日更新のPodcastでもお聴きください。

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遺骨収集は仲間と交わした約束を守っただけで、戦争とは関係ないよと語った一言にしびれました。

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槍を手にするアーサーさん。気を付けて!

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オーストラリア兵に感じた武士道をアメリカ兵には全く感じなかったそうです。
なのでアメリカ人は好きではないそうですが(汗)、アーサーさんとは意気投合できました。


アーサーのインタビュー日記

西村さんにお会いする前から、25年間も遺骨を拾い続けるとは一体どういう事なのだろうとずっと考えていました。
西村さんは戦争の技術を身に着け、戦争を知り尽くし、戦争のいろいろな修羅場を乗り越えてきた人です。しかし戦後は平和を背負った武器を持たない一人の人間としてもう一度パプア・ニューギニアに向かいました。敵を殺めた日々や仲間を失った日々を思い出しながら、想像の中でもう一度戦争を体験しながら仲間の遺骨を探し続けたのでしょうか。現地の人達と協力し作業を進める日々の中であの時代は何だったのかと考えたのでしょうか。僕は西村さんの遺骨収集が、今の国家にはできないほどの大きな任務を一人の自由になった人間が果たした、加害と被害を超越した大きな事業だったと思います。そしてそれがあの戦争に対する西村さんの一つの答えだった気がします。

地図から消された島・大野久島に学徒動員された岡田黎子さん

広島県竹原市。瀬戸内海に浮かぶ小さな島「大久野島(おおくのしま)」。「うさぎの島」として知られ、今ではビジターセンター、海水浴場、テニスコートなどの行楽施設も充実し外国客も多く訪れる観光スポットです。しかしこの大野久島、戦時中は毒ガス兵器を製造する工場が立ち並び、その事実は国家機密として秘匿。島の存在は地図からも消されていました。島の毒ガス工場には多くの学徒が動員され、岡田黎子さんもその一人でしたが、の島で何が作られているのかをはっきりと知らされる事はありませんでした。戦後の国策で戦時中の暗い歴史が覆い隠されていく事に抵抗した一人でもある岡田さん。そしてその岡田さんたちの努力は、昭和63年に「大久野島毒ガス資料館」として結実します。

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広島県三原市の一軒家を訪ねたアーサーさんを笑顔で迎えてくれた岡田さん。時には語気も強めながら、話を聞かせてくれました。岡田さんとアーサーさん.JPG

岡田さんは戦後、広島市内に救護、介護要員として入ることで、内部被ばくという悲劇にも見舞われました。長く高校の美術教師を務めた岡田さんがその眼で見つめた戦禍の光景をカンバスに描いた作品です。

岡田さん資料.JPG

大野久島の話、広島の話...岡田さんの体験をぜひ木曜日更新のPodcastでお聴き下さい。


アーサー・ビナード大野久島旅日記

大久野島の風景.JPG
今では人気のリゾート地となった大野久島

今も島に残る倉庫.JPGのサムネール画像
しかし戦時中の建物は現存。昭和63年に設立された毒ガス資料館もあります。当時の貴重な資料が数多く残されていますので、ぜひ一度お立ち寄り下さい。

うさぎと遊ぶアーサーさん.JPG
ウサギにも大人気だったアーサーさん

アーサーのインタビュー日記

岡田さんは動員学徒として毒ガス製造の仕事に携わったわけですが、当時は自分たちの行っている作業がどのように戦争につながっているかは何も知らされませんでした。その意味ではまさに毒ガスの被害者です。さらに岡田さんは原爆投下直後の広島で被爆者の介護、救護を行い、内部被ばくにも見舞われました。ここでもやはり岡田さんは被害者です。しかし、岡田さんは自分の体験で終わらせず、体験の中で浮かんだ疑問を検証し、絵に描き文章にしてきました。体験者として生きてきたというより、歴史を自分の足元から徹底的に掘り起こして伝える作業をしてきたのです。それは語り継ぐために絶対に必要な検証作業だったことが直接お会いしてわかりました。岡田さんが体験したことは国家や企業が隠蔽してきた事実なので、ただ語るだけでは伝わらないだけではなく、いつか再び消される可能性が大きいものです。だからこそ、検証して裏を取りはっきりとした形で示さなければならなかったのでしょう。
岡田さんは、自分は被害者であると同時に、毒ガスを製造した加害者でもあるとして、中国やアメリカに対して謝罪をも行っています。その謝罪は、お詫びして終わりにするという意味ではなく、事実を歴史に刻む方法でもあるのだと思います。岡田さんは、歴史をどう伝えていくのかということについて、本当に芯の強さと激しさを持っている方でした。

海軍の特攻隊から生き残った岩井忠正さんが訴える平和の意味

自爆を前提とする「特別攻撃隊」略して「特攻隊」。
太平洋戦争では陸軍の「神風」、海軍の「回天」をはじめ、
いくつもの特攻隊が編成されました。
その「回天」に所属したのが慶応大学在学中、学徒出陣により海軍に招集された岩井忠正さん。
京都大学の学生だった弟の忠熊さんもまた海軍の特攻隊所属となります。

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左が弟の忠熊さん、右が忠正さんです

子供の頃から「西部戦線異常なし」を熟読して戦争の愚かさを知り、ニュース映画でアメリカの戦車の強さを知っていた岩井さんにとって、アメリカとの戦争は到底勝てるとは思えない無意味なものでした。
一方で、空文句の精神主義教育が大嫌いで反骨心旺盛な若者が、なぜ自ら特攻隊に志願したのか?それはアーサーさんにとって実に興味深い謎でもありました。放送では長い時間を割けなかったその理由について、木曜日更新のPodcastでじっくりとお聴き下さい。哲学を学び戦後は翻訳者としてご活躍された岩井さんと日本語で詩を紡ぐアーサーさんの、哲学や文学に関するやり取りも聞き応えのあるものです。

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アーサーのインタビュー日記

兄弟2人とも特攻隊に所属し、どちらも生き残った岩井忠正さんと弟の忠熊さん。忠正さんは人間魚雷の回天と人間機雷の伏竜に、忠熊さんは小型のベニヤ製モーターボートで突撃する震洋という特攻隊に所属していました。実は2人は生き残ったものの特攻隊にいたことは口をつぐんでいたそうです。しかし特攻隊があまりにも美化される風潮に黙っていてはいけないと10年ほどまえから自らの経験を語り始めました。戦争に突入していく空気を作ったのは、「皆が沈黙したことだ」と岩井さんは繰り返していました。

岩井さんの話を聴いていると、特別攻撃隊の「特別さ」は、その矛盾の大きさや不条理さの鮮やかさだったのではないかという気がします。特攻隊に所属しながらも命を落とさなかったことは本当に大きな奇跡だと思います。しかしその体験を今語って伝えようとしている岩井さんの存在は、実はもっと大きな奇跡を持っているんではないかという気がしました。

中島飛行機の元工員、古内竹二郎さん

いまは子供連れの家族でにぎわう都立武蔵野中央公園ですが、70年前、この一帯には「東洋一」と称された中島飛行機武蔵製作所がありました。零戦などのエンジンを月に2千台生産していたこの工場から見つめた古内さんの戦争体験は、戦地での体験や空襲体験とはまた違う視点で戦争をとらえるヒントをアーサーさんに与えてくれました。

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はるか上空を飛ぶB29の4つのエンジンに驚いた話。池袋駅を降りた時に眺めた低空飛行のB29で敗戦を実感した話。どれも光景が生々しく浮かんでくる古内さんのお話でした。

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B29が1944年の10月に撮影した武蔵製作所の航空写真を手に解説する古内さんと、その話に聞き入るアーサーさん。
パンプキン爆弾の話や戦後の中島飛行機の話など興味深い話が続きました。木曜日更新のPodcastでお聴きください。

アーサーのインタビュー日記

戦争を想像するときは必ず戦闘の現場を思い浮かべます。しかし古内さんの証言から戦争が国家や企業の事業として進められることを冷静に考えると、もうひとつの俯瞰した視点が浮かんできました。日本の戦闘機を作った工場は戦前アメリカの指導で作られたこと、その機械もアメリカ製であったことを改めて知り、本当の戦争の状況が現れた気がします。軍事産業という名の工業製品が造られる現場こそが本当の「現場」なのかもしれません。日本が負けたことをどこで実感したのかというお話も印象的でした。故郷の宮城に戻って敗戦のニュースを聞いても納得がいかなかった古内さんですが、東京に戻ってきた時に池袋上空を飛ぶB29の姿と周りの人たちの反応を見て初めて「負けたんだ」と実感したそうです。古内さんは、一貫して飛行機というレンズを通して、飛行機があぶり出す現実を見つめて戦中、戦後を生きてこられた方です。

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