戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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日本人難民収容所体験で知られる増田昭一さん

今週は、テレビドラマにもなった「満州の星くずと散った子供たちの遺書」などの著者で、戦後満州の「日本人難民収容所」で過酷な体験をされた増田昭一さんに小田原の自宅でお話を伺いました。

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17才で職業軍人の父とともに家族で満州に渡った増田さんは、学徒としてソ連の戦車に突撃する部隊に急きょ編入され、九死に一生を得ます。そして戦後は旧満州の新京に作られたソ連の難民収容所に収容されました。そこは、子供たちが飢えや寒さ、病気で次々に命を落とす厳しい所でした。今週の放送では、その増田さんが父親が部隊長を務める部隊に編入され、自殺部隊としてソ連の戦車に立ち向かった際のお話をご紹介しました。戦後の収容所での過酷な体験は木曜日更新予定のPodcastでご紹介します。

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聞き手と語り手、逆転の図(汗)

なお、増田さんのインタビュー様子は、8月26日付けの小田原の地元新聞「神静民報」でも掲載されました。
戦後すぐに創刊された伝統のある地元紙です。ご紹介ありがとうございました!

アーサーのインタビュー日記

残留孤児という言葉にはどうしても違和感を覚えてしまいます。彼らは自分たちの意志で残ったわけではなく、様々な事情で残された、あるいは捨てられたのです。増田さんは残留孤児たちとともに難民収容所で過ごして、亡くなっていく子供たちと触れ合いました。そして何も語れず人生を終えた子供たちの物語を引き継いでいます。しかし同時に軍人の息子として増田さん自身も最後の戦争体験があります。軍隊という組織、政府と植民地という組織がどういうものなのかという事を若者の体験として持っています。増田さんの話を聞くと、残留孤児を残した側とひとりひとりの生き延びようとした側の両方が具体的に見えてきます。

悲劇の疎開船・対馬丸の生き証人、平良啓子さん

1944年7月、日本政府は沖縄決戦に向け、高齢者や児童などの疎開を沖縄県に通達。この結果、戦闘に向かない多くの沖縄県民が半ば強制的に本土などに送られることとなりました。そして疎開船「対馬丸」の悲劇もそんな世情の中で起こったのです。学童ら1788名を乗せ、1944年8月21日、那覇港を出港した「対馬丸」。護衛艦を含めて5隻で出港したはずが、翌朝には危険を察知した全ての船が姿を消し「対馬丸」一隻だけが太平洋の孤独な航海を続けていました。台風も近づく不穏な空気がつつむ中、アメリカの潜水艦の攻撃を受け沈没。分かっているだけで1482名が命を落としたこの大惨事から生還した数少ない一人が平良啓子さんです。
重油を飲みこみながらも間一髪で樽につかまり、海中から足を引っ張られながらも筏にしがみつき、追い払われながら船底の下を泳いで筏に潜り込みました。一日一日生存者が減っていく中で、ついに行き着いたのは無人島。そこから懸命に助けを求めて奄美の人に救われます。無事に沖縄に生還したのもつかの間、今度は地上戦に巻き込まれ銃弾の中、逃げ惑う日々。蛙やトンボを食べながら命をつないだ平良さんが、今、アーサー・ビナードさんの目の前にいます。
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平良さんは我流の泳ぎで懸命に筏にたどり着きました。その泳ぎをアーサーさんに指南
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平良さんの証言は、生き残るため人間の「業」とはいかなるものかという事を教えてくれるまさに一大叙事詩です。是非、Podcast(木曜日アップ予定)でもお聴きください。
実はインタビューしたのは、沖縄県国頭郡東村高江。米軍のヘリポート建設反対の座り込み中にお話を伺いました。すさまじい戦争体験を持つ平良さんだからこそ語れる平和の意味の重さです。
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とても暑く、そしてさんざめく蝉しぐれの中、お話を伺いました。

アーサーのインタビュー日記

平良啓子さんの話を聞いて、「生き証人」と言う言葉が浮かんでいました。「生きる」ということに長けている強い方だという印象と同時に「証人」としての役割を果たして活躍しているという実感も重なります。
対馬丸は1944年に撃沈されましたが、すぐに箝口令が敷かれてその事実が隠されました。そして公になったのは戦後の事です。しかし、それも平良さんたち生き証人がいて力強く語ってくれたから、この悲劇が歴史に残ったわけです。平良さんの証言は、ただ生き残った人、助かった人という次元の話ではありません。71年間、ずっと証人して戦ってきた存在なのです。亡くなった祖母も同じ年の隣のときこさんも背負って戦ってきました。平良さんとそのほかの人たち生き残ったそのおかげで対馬丸の物語を今と繋げて権力の暗部を見つめることができるのだと思います。
平良さんは、対馬丸がうっちゃられた(置き捨てられた)船だったと何度も語っていました。しかし懸命に生き延びて、この悲劇を語り続けている平良さんは、亡くなった人たちを決してうっちゃったりはしない、それが平良さんの生き方なのだと思います。

作家・森村誠一さんの原点 熊谷空襲

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今週は日本のミステリーの第一人者、森村誠一さんにお話を伺いました。
森村さんのインタビューは15日午後1時から文化放送でお送りした「報道スペシャル・70回目の8・15~語り継ぐべきこと」(アーサーさんも生登場)の中でも、拡大版を送りしました。
森村さんは埼玉県北部の街、熊谷市のお生まれ。熊谷と言えば、大阪や小田原、秋田、光など玉音放送を目前にした14日から15日にかけて空襲を受けた町のひとつです。
近くの町、群馬県太田市を中心に零戦が製造された一大軍事製造拠点でしたが、当時は生産能力も残っておらず、なぜポツダム宣言の受諾を通告した後に殺されなければならなかったのかという疑問が70年間残されたままです。8月14日、午後11時30分ごろ。昼をあざむく照明弾とともに、激しい焼夷弾の雨がこの街を襲いました。瞬く間に火の海と化し、傷つき、逃げ惑う人々。市街地の3分の2を焼きつくし、266名が犠牲となりました。
そしてその逃げ惑う人々の中のひとりが森村さんでした。火がようやく消えたのは、15日午後5時ごろ。玉音放送が流された後のことでした。しかし好きだった幼馴染の女の子の遺体を翌日川で見つけるというこの辛い体験が、人気作家・森村誠一を生む原点となったのです。

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ダンディな森村さん、収録の合間にスタッフ全員でコーヒーの飲み方指南も受けました。

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いい感じにクリームが回ってます!

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衰えぬ取材力と反骨の正義心が森村作品を裏打ちしています。
アーサーさんと森村さん、とても波長の合うお二人です。

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Podcastでは、森村さんの人生観、戦争観、平和観、そして国家観が熱く語られています。
ミステリー作家と詩人が語る太平洋戦争。聴きごたえのある1時間です。
アップするまでもうしばらくお待ちください。

アーサーのインタビュー日記

第二次世界大戦の歴史の中で、熊谷の空襲はもっとも不条理が満ちている出来事と言えるかもしれません。
低飛行で飛んできたB29は、撃ち落とされる危険は無いとわかっていて焼夷弾を落としています。戦争が終わることは日米両政府の共通認識だった中でどう考えても街を焼く必要性はなかったのです。でも町が火の海になった。
それが何なのか?どう説明すれば良いのか?理由は何なのかということを森村さんの話を聴いて皆さんも大きな疑問符を手渡された思いでしょう。ミステリーというおのは不思議で、説明がつかなくて、大きな不条理をはらんでいるものに作家も読者も一緒に取り組み向き合い掘り下げていくジャンルです。森村さんがどうにも説明がつかないものを語るという文学者になったということは熊谷の空襲と深いところでつながっている気がしました。
経済のシステムに対しても大きな政治勢力に対しても問題を突き付けるという森村さんの生き方も、70年前の8月14日、15日の出来事と深くつながっている気がします

長崎原爆の爆心地から2キロ 松原淳さんの家族の物語

とても陽気で快活な松原淳(ただし)さんですが、原爆の話をする際は本当はとても気が重くなるそうです。1945年8月9日、午前11時2分。長崎市上空で炸裂したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」。一瞬にして、摂氏3000度を超える「熱」「放射線」「爆風」が襲い、街を、山を破壊しました。威力は、広島に落とされたウラン型原子爆弾の1.5倍。その年の内に、およそ7万4000人の方が亡くなったと推計されています。あの日、夏休みを過ごしていた松原淳さんは爆心地から2キロ離れた自宅で、戦争帰りの長兄とすいとんを作っていました。松原さんの語る戦争体験は弟の命を守った長男、爆心地から戻った父、原爆で重傷を負い3年以上寝たきりとなった4番目の兄、その兄を寝ずに看病した母。そして今も連絡を取り合う幼馴染と家族や友人たちの物語につながります。その母はその後、軍艦島に働きに出て人望を集める存在となります。そして若いころはやんちゃをしていて、その後猛烈に働き始めた自身の事。陽気で明るい松原さんの語り口からはその人柄とともに、陽気な松原さんの口をも重くさせる戦争の悲惨さ、原爆の悲惨さもまた伝わってきます。

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熱く語る松原さん、最近は社交ダンスにも励んでいる快活でモテモテの81歳です。

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追伸
8月15日はアーサー・ビナードさん出演で「戦後70年スペシャル」をお送りしました。
パーソナリティ久保純子さんが母として子に伝えたい平和への思いを語ってくれました。
ゲストに森村誠一さん半藤一利さんをお迎えして骨太な番組となりました。
メール、ファックスを下さった皆様、ラジオをお聴き頂いた皆様、本当にありがとうございます。

もうひとつ追伸
9月に「探しています」でお話を伺う西崎信夫さんの講演会が
8月16日(日)午後2時~3時半 くにたち市民芸術小ホールで行われます。
いま、国立市では「語り継ぐこと」を大きなテーマとして取り組んでいます。
テレビをつけても新聞を開いても戦後70年の見出しが躍っていますが、
8月15日が過ぎてから、いかに「戦争」を学ぶかがとても大事な事だと思います。
西崎さんは、駆逐艦ゆきかぜの乗組員として、戦争の最前線にいた方です。

お知らせでした。

アーサーのインタビュー日記

「ピカ」と光った瞬間に身を挺して松原さんを守ってくれた戦争帰りの一番上のお兄さん。工場で熱線を受けやけどを負い、同僚の兵隊におんぶされて自宅に戻ってきた4番目のお兄さん。当時11才だった松原少年の家族の物語を知ると原爆投下のおかげで戦争が終わったという定説はどうしても受け入れられません。僕らが毎年すりこまれているこの定説と、松原さんの家族の物語。どちらが歴史の本当の仕組みに即しているかというと松原さんの体験が事実というものにより近いと思います。体験者の体験と思いを抜きにして歴史を語ってしまうと、必ず一部の人たちにとって都合の良い話にまとめられてしまうのではないかと思います。松原さんの家族の話と大きな歴史をつなげてみるととても大事な問題提起になると思いました。

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