広島県竹原市。瀬戸内海に浮かぶ小さな島「大久野島(おおくのしま)」。「うさぎの島」として知られ、今ではビジターセンター、海水浴場、テニスコートなどの行楽施設も充実し外国客も多く訪れる観光スポットです。しかしこの大野久島、戦時中は毒ガス兵器を製造する工場が立ち並び、その事実は国家機密として秘匿。島の存在は地図からも消されていました。島の毒ガス工場には多くの学徒が動員され、岡田黎子さんもその一人でしたが、の島で何が作られているのかをはっきりと知らされる事はありませんでした。戦後の国策で戦時中の暗い歴史が覆い隠されていく事に抵抗した一人でもある岡田さん。そしてその岡田さんたちの努力は、昭和63年に「大久野島毒ガス資料館」として結実します。
広島県三原市の一軒家を訪ねたアーサーさんを笑顔で迎えてくれた岡田さん。時には語気も強めながら、話を聞かせてくれました。
岡田さんは戦後、広島市内に救護、介護要員として入ることで、内部被ばくという悲劇にも見舞われました。長く高校の美術教師を務めた岡田さんがその眼で見つめた戦禍の光景をカンバスに描いた作品です。
大野久島の話、広島の話...岡田さんの体験をぜひ木曜日更新のPodcastでお聴き下さい。
アーサー・ビナード大野久島旅日記
しかし戦時中の建物は現存。昭和63年に設立された毒ガス資料館もあります。当時の貴重な資料が数多く残されていますので、ぜひ一度お立ち寄り下さい。
アーサーのインタビュー日記
岡田さんは動員学徒として毒ガス製造の仕事に携わったわけですが、当時は自分たちの行っている作業がどのように戦争につながっているかは何も知らされませんでした。その意味ではまさに毒ガスの被害者です。さらに岡田さんは原爆投下直後の広島で被爆者の介護、救護を行い、内部被ばくにも見舞われました。ここでもやはり岡田さんは被害者です。しかし、岡田さんは自分の体験で終わらせず、体験の中で浮かんだ疑問を検証し、絵に描き文章にしてきました。体験者として生きてきたというより、歴史を自分の足元から徹底的に掘り起こして伝える作業をしてきたのです。それは語り継ぐために絶対に必要な検証作業だったことが直接お会いしてわかりました。岡田さんが体験したことは国家や企業が隠蔽してきた事実なので、ただ語るだけでは伝わらないだけではなく、いつか再び消される可能性が大きいものです。だからこそ、検証して裏を取りはっきりとした形で示さなければならなかったのでしょう。
岡田さんは、自分は被害者であると同時に、毒ガスを製造した加害者でもあるとして、中国やアメリカに対して謝罪をも行っています。その謝罪は、お詫びして終わりにするという意味ではなく、事実を歴史に刻む方法でもあるのだと思います。岡田さんは、歴史をどう伝えていくのかということについて、本当に芯の強さと激しさを持っている方でした。