戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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元ひめゆり学徒隊として沖縄戦の悲惨な体験を語り続けるひめゆり平和祈念資料館館長の島袋淑子さん

今週は、ひめゆり学徒隊の一員として九死に一生を得て、今はひめゆり祈念館の館長を務める島袋淑子さんにお話を伺いました。

島袋さん(部屋).JPG

ひめゆり祈念館の中の一室でお話を伺いました。中学生、高校生達を中心にとてもにぎわっていました

先週の大田元沖縄県知事に続いて、今週も民間人を巻き込んだ壮絶な地上戦が行われた沖縄戦の話を伺いました。
アメリカ軍の上陸作戦が開始された3月には、県内の中等学校と女学校から、少年少女が学徒隊として戦場に動員されました。沖縄戦では、22の学徒隊を編成。有名なひめゆり学徒隊は、負傷した兵士の看護活動を主な任務に、沖縄師範学校女子部と、沖縄県立高等第一女学校の教員、生徒で編成された学徒隊でした。彼女達への招集は深夜、突然のことだったそうです。


島袋さん(庭).JPG
中庭でも一枚

沖縄陸軍病院.JPG
アーサーさんの後ろの塹壕は、ひめゆり平和祈念資料館の敷地内にある沖縄陸軍病院第三外科の壕跡です。
道を挟んだ向かいのお土産屋さんで、思わずTシャツを買って帰ったアーサーさんです。


アーサーのインタビュー日記

島袋さんの体験談の中には、同級生や上級生や日本兵や米兵ら多くの人達の「台詞」が織り込まれています。それは何故なんだろうと思いながら、どんどん島袋さんの語りに引き込まれていきました。そして島袋さんとの会話の中で、ひとつ手がかりを得た気がしました。島袋さんは平和祈念館を作るときに、亡くなった友人達の遺族に会うのがとても怖かったそうです。「私だけが生きていもて良いのですか」と尋ねた島袋さんに、遺族達は「あんたが生きていてくれたから、うちの子供がどうして亡くなったのかがわかったんだよ。あんたが生きていてくれたおかげだよ」と逆に元気づけられ、生きてて良いのだと実感したそうです。これを原点に、島袋さんは亡くなっていった仲間の言葉を背負って、逃げる途中殺された日本兵の言葉も背負って、語れなかった人達の分の言葉まで語ることで、今まで生きて来たのではないでしょうか。彼らの記録を残すことをライフワークとして、同時に彼らの人生も背負ったのではないでしょうか。
中でも捕虜となった島袋さん達に戦争の終わりを告げた米軍の通訳の言葉は、島袋さんの語りの大事な筋になっていると感じました。「戦争に勝った負けたは関係ない。私は人を殺さずに済んだ。皆さんも家族の元に帰れます」と語った日系2世のイトウさんの言葉が印象的でした。島袋さんの語りは勝ち負けという低い次元を超えて、生き続けることで亡くなった方の人生も背負って歩んでいく、そういう物語だったと思います。

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