戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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与那国で生まれ台湾で暮らした宮良作さんは戦後初めて「ニッポン」を観た

今週お話を伺ったのは、元沖縄県議会議員の宮良作さんです。日清戦争から太平洋戦争が終わるまでの50年、日本の植民地となっていた台湾。日本の西の端、沖縄県与那国島からは、わずか111キロ。戦前、貧しかった沖縄からは、多くの人が仕事を求め、移り住みました。与那国島で生まれ育った宮良作さんも、父親の仕事の都合で台湾に移り住んだお一人です。それは、1937年の秋、作さんが小学4年生の時でした。
基隆の港に明け方着いた宮良さんは目に飛び込んできた灯りの放列を、「人魂」だと勘違いし戦慄します。しかし船長は「あれは人魂じゃない。車の灯りだよ」と教えてくれました。車はおろか靴すらも見た事の無かった与那国島でののどかな生活から一転、台湾という文明社会での暮らしに順応していく中で、宮良さんは「言葉の壁」「民族の壁」「思想の壁」といろいろな壁にぶつかります。「本土人は一等国民、沖縄人は二等国民、台湾人は三等国民だ」と教える教師に反発した中学生の宮良さんは、台湾の友人に味方するのでした。その後、社会主義の運動に身を投じた宮良さんの原点とも言えるのかもしれません。

宮良作さん1.JPG

普段は与那国島で暮らす宮良さんですが、アーサーさんに会うために
那覇での滞在を延ばして待っていてくれました。
アーサーさんと初めて会ったとは思えない意気投合ぶりには奇遇とも思える共通点がありました。
それは2人とも海の向こうからトウキョウにやってきたこと、そして初めて降り立った駅が2人とも池袋だったことです。
もちろんアーサーさんは25年前、宮良さんは70年前ですから宮良さんの方がずっと先輩です。
与那国と台湾で育った宮良さんは敗戦直後、念願かなって本土の土を踏んだ時、こう感じたそうです。
「そうか、日本という国は本当にあったんだ!」

宮良作さん2.JPG

宮良さんの奥様で画家の宮良瑛子さんも合流。そして次週は瑛子さんに
「戦時中の対馬の暮らし」を急きょ伺います。

アーサーのインタビュー日記

宮良さんが台湾で過ごした少年時代の経験は、そこから当時の大日本帝国の支配の仕組みも見えてくるお話でした。しかし同時に台北帝大時代に学友たちと兵隊に逆らった話や酔っぱらって敗戦を喜ぶ父親のエピソードからは、台湾という大日本帝国の端っこで支配のシステムが最初にほつれ始め、そして生まれた隙間から「自由」が顔を覗かせていく流れも鮮やかに感じられる話でもありました。
宮良さんは与那国島で過ごした子供時代、靴という文化的な道具を見た事すら無い生活を送っていたそうです。台湾の地で生まれて初めて靴を履くわけですが、学生になると今度は軍靴を履く事を拒否し、下駄で日常生活を送ります。「履物」からも、当時の支配のからくりや自由を求める歩みが見えてきます。
1等国民、2等国民、3等国民と位置付ける残酷な階級社会には「言葉の問題」も深く関わっています。宮良さんは与那国語という全くの独立語が母国語だったことで、恥ずかしい思いもし、子供たちの中でもまれました。しかし、その苦労によって獲得した自身の表現力が、魅力的な人柄の宮良さんの「語り」の出発点だった気もします。

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