戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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戦時下の対馬で幼き日を過ごした宮良瑛子さん

韓国との国境に接している島、長崎県対馬。東シナ海から、日本海へと抜ける入口に位置するこの島は、海上の要所として、戦争の度に翻ろうされてきた歴史を持ちます。昭和の初めには、長さ18.5メートル、当時としては世界最大の大砲が置かれ、対馬自体が、「海上の大要塞」とも言われていました。福岡で生まれた画家の宮良瑛子さんですが、父親の転勤で物心ついた時から対馬で育ちました。宮良瑛子さんが幼いころの対馬は、童謡「ふるさと」の歌詞の世界そのままの、自然の野山が広がる美しい島だったそうです。しかし小学校一年生の時に太平洋戦争が始まり、戦局が極まると陸軍の大部隊が守り固めのために対馬にやってきます。

小学校の校舎は兵隊の宿舎となり勉強もままなくなりました。そして宮良家の自宅として借りていたお寺の本堂には8人の士官が寝泊りすることになります。そして瑛子さん一家は台所での生活を強いられます。若い下士官が父親のような年齢の兵隊を殴りつける光景に、宮良瑛子さんは幼い胸を痛めるのでした。

今週は、そんな戦時下の対馬での生活や、戦後福岡に戻ってからの食糧に事欠く窮乏生活についてお話を伺いました。

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実は宮良瑛子さんは先週お送りした宮良作さんの奥様。偶然にもアーサーさんと面識があったのでした。作さんのインタビューを終えた後、沖縄本島はもちろん与那国島や波照間島、久米島など離島の戦時中の苦しみについて作さんに伺っていた際、瑛子さんが発した「私は対馬で育ったのよ」の一言に、アーサーさんの目がきらりと光りました。「では、瑛子さんも是非!!」となった次第です。しかしアーサーさんは、その日、読谷村に約束があったため2日後に再び那覇市内の宮良家に舞い戻ることになりました。

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また宮良家に来てしまいました(汗) 
申し訳なさそうなアーサーの手には、宮良瑛子さんの作品集が。

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力強い宮良瑛子さんの作品。よく見ると右下に若き日のご夫婦の写真が!

アーサーのインタビュー日記

毎週いろいろな方の戦争体験を聴かせて頂く中で、戦争の時にいかに大変だったか、いかにみなが修羅場を乗り越えてきたかを改めて実感しています。しかし今回宮良瑛子さんの話は、戦争中の大変さもさることながら、戦後福岡に引っ越してからの「たけのこ生活」生き残るために戦った苦しい生活の話がとても印象的でした

戦争が終わればすべてが良くなったとその時代を体験していないものが錯覚してしまいます。しかし人によっては戦争が終わった後の方がずっと苦しかったということも常に頭に入れてあの時代を追体験しないといけないということを学びました。
瑛子さんはその後美学校を卒業して画家になり、スケールの大きい美しい絵を沢山生み出してきました。
瑛子さんの作品は人物画が中心です。貴族の絵画のようにきらびやかなものではなく、描く人物ひとりひとりが力強く存在感のある骨太なものです。ひとつひとつが絵の中に立って私たちを見返しているような作品です。戦時中の兵隊たちの切ない思いを子ども心に感じ取った宮良さん。ひとりの人間が尊厳を持って生きていくことがいかに大事かということへの強い思いが、作品の中に現れています。そんな作品の数々は、おそらく今回聞かせて頂いた戦時中の体験からも生まれてきたのではないかと僕は想像します。

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