戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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悲劇の疎開船・対馬丸の生き証人、平良啓子さん

1944年7月、日本政府は沖縄決戦に向け、高齢者や児童などの疎開を沖縄県に通達。この結果、戦闘に向かない多くの沖縄県民が半ば強制的に本土などに送られることとなりました。そして疎開船「対馬丸」の悲劇もそんな世情の中で起こったのです。学童ら1788名を乗せ、1944年8月21日、那覇港を出港した「対馬丸」。護衛艦を含めて5隻で出港したはずが、翌朝には危険を察知した全ての船が姿を消し「対馬丸」一隻だけが太平洋の孤独な航海を続けていました。台風も近づく不穏な空気がつつむ中、アメリカの潜水艦の攻撃を受け沈没。分かっているだけで1482名が命を落としたこの大惨事から生還した数少ない一人が平良啓子さんです。
重油を飲みこみながらも間一髪で樽につかまり、海中から足を引っ張られながらも筏にしがみつき、追い払われながら船底の下を泳いで筏に潜り込みました。一日一日生存者が減っていく中で、ついに行き着いたのは無人島。そこから懸命に助けを求めて奄美の人に救われます。無事に沖縄に生還したのもつかの間、今度は地上戦に巻き込まれ銃弾の中、逃げ惑う日々。蛙やトンボを食べながら命をつないだ平良さんが、今、アーサー・ビナードさんの目の前にいます。
平良啓子さん3.JPG

平良さんは我流の泳ぎで懸命に筏にたどり着きました。その泳ぎをアーサーさんに指南
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平良さんの証言は、生き残るため人間の「業」とはいかなるものかという事を教えてくれるまさに一大叙事詩です。是非、Podcast(木曜日アップ予定)でもお聴きください。
実はインタビューしたのは、沖縄県国頭郡東村高江。米軍のヘリポート建設反対の座り込み中にお話を伺いました。すさまじい戦争体験を持つ平良さんだからこそ語れる平和の意味の重さです。
高江の風景.JPG
とても暑く、そしてさんざめく蝉しぐれの中、お話を伺いました。

アーサーのインタビュー日記

平良啓子さんの話を聞いて、「生き証人」と言う言葉が浮かんでいました。「生きる」ということに長けている強い方だという印象と同時に「証人」としての役割を果たして活躍しているという実感も重なります。
対馬丸は1944年に撃沈されましたが、すぐに箝口令が敷かれてその事実が隠されました。そして公になったのは戦後の事です。しかし、それも平良さんたち生き証人がいて力強く語ってくれたから、この悲劇が歴史に残ったわけです。平良さんの証言は、ただ生き残った人、助かった人という次元の話ではありません。71年間、ずっと証人して戦ってきた存在なのです。亡くなった祖母も同じ年の隣のときこさんも背負って戦ってきました。平良さんとそのほかの人たち生き残ったそのおかげで対馬丸の物語を今と繋げて権力の暗部を見つめることができるのだと思います。
平良さんは、対馬丸がうっちゃられた(置き捨てられた)船だったと何度も語っていました。しかし懸命に生き延びて、この悲劇を語り続けている平良さんは、亡くなった人たちを決してうっちゃったりはしない、それが平良さんの生き方なのだと思います。

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