戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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八丈島から軽井沢へ。沖山操さんが体験した集団疎開

東京都心からおよそ300キロ。伊豆七島の最も南にある島、八丈島。日本本土と小笠原の硫黄島を結ぶルート上にあり、戦争末期は前線基地として要塞化が進められました。八丈島の海岸には人間魚雷「回天」を収容した豪が今もその面影を残し、中継基地として使われた飛行場からは、硫黄島に向かう航空隊が出撃していきました。
当時、小学生だった沖山さんたち子ども数人はある日、見晴旅館という旅館に呼ばれ兵隊たちの前で歌い踊るように言われます。座敷には多くの兵隊さんたちが白い杯を持って座り真ん中には長い刀を下げた上官の姿がありました。歌い終わると金平糖や乾パンをもらった沖山さん。嬉しさのあまり飛び跳ねて階段を駆け下りると、そこには敬礼をしながら涙を流す兵隊が直立していました。沖山さんたちが歌い踊った宴は、出撃していく隊員たちの最後の杯だったのです。でも幼かった沖山さんにとっては、なぜ男の人が泣いているのかわかりませんでした。

沖山操さん1.jpg
伺ったのは村の集会所。

沖山さんを含む八丈島の多くの人たちが疎開したのは長野県の軽井沢でした。山に囲まれた軽井沢の青空教室で、棒を使って校庭の土で算数の勉強をしたことも懐かしい思い出です。69歳の時に、もう一度寝泊りした思い出の旅館を尋ねてみた沖山さんでしたが、今はゴルフ場となっていたそうです。

戦争が終わり、島に戻った沖山さん。港に残されたのは捨ておかれた数多くの魚雷でした。当時は鉄はとても高く売れたそうで、
沖山さんのお兄さんのマツオさんも魚雷回収に精を出したやんちゃ盛りでした。そしてついたあだ名は「魚雷の松」だったそうです!!


沖山操さん2.JPG
笑顔の似合う小柄な沖山さん、穏やかさが八丈島の景色そのものですね。それにしてもアーサーさんとの身長差がすごい。

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