戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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自動車部隊の運転席に座った持丸真喜男さんの思い出

今週も八丈島の語り部です。


八丈島の道.JPGのサムネール画像
南国らしい暖かさを感じる八丈島の小道です


東京都心からおよそ300キロ。伊豆七島の最も南にある島、八丈島。戦争末期、本土決戦に備えて要塞化が進められたこの島には、兵士や建設労働者が集められ、島民は本土への疎開を余儀なくされました。当時、小学生だった持丸真喜男さんのお宅はとても広かったため、中国戦線から帰還した自動車部隊の兵士たちの宿舎となりました。持丸さん一家は彼ら兵士達と同居生活を送りましたがそれはわんぱく盛りの持丸少年にとって楽しい記憶として残っています。自動車部隊は正式には輜重兵(しちょうへい)と呼ばれ、後方支援の輸送業務や食料、燃料の運搬業務を担当していました。兵士たちには持丸家の食事が振舞われ、兵士たちは持丸少年を自動車に乗せてあげることもありました。


アーサーと持丸さん.JPGのサムネール画像


戦中、戦後と港に放置された船に潜りこんだり、戦後も人間魚雷の操縦席に乗り込んでみたりとわんぱくなガキ大将であったであろう持丸さん。ボサボサの髪のまま軽井沢に疎開した際、八丈島のやんちゃ坊主達は地元の子供たちから「南洋猿」とからかわれ悔しい思いをしたそうです。自動車部隊を羨望のまなざしで見つめながら、一方で持丸さんは空港建設に従事させられる日本人労働者や港湾で過酷な建設作業に従事させられた朝鮮半島の出身者らの姿を見つめていました。彼らに対して深い同情の気持ちに包まれていたわんぱく少年でもありました。


魚雷の説明.JPGのサムネール画像
低土港から10分足らず。八丈島三根地区の海岸そばに大きな穴が開いている。ここに持丸さんが乗り込んでみた人間魚雷「回天」が設置されていました。「回天」基地の跡です。


魚雷の穴.JPG
中は夏と思えないほどひんやりしていました。

魚雷穴の鉄片.JPG
穴の中には戦後、「回天」を破壊した際の鉄の破片が今も突き刺さっています。まさに戦争遺構ですね。


後ろが魚雷の発射場.JPGのサムネール画像
穴から出た「回天」はアーサーさんの背後の場所から海で滑り出す事になっていました。アメリカ軍は八丈島をスルーしたために
出番は無かったわけです


持丸さんと亀.JPG
持丸家の愛亀。帰る際には奥様とともに亀も見送ってくれました。乗り遅れると大変だと八丈島空港に向かいましたが、出発は一時間遅れ。一路、八丈島を後にしたのです。


今回は八丈島の皆さんのお招きで講演会のための来訪。番組は便乗させて頂きました。
皆さん、本当にありがとうございました。

アーサーのインタビュー日記

70年前、持丸さんの家には自動車部隊の兵士たちが宿泊していました。当時の自動車はクランクで回して操作する全てマニュアルの車。機械も運転もすべて特殊な技術を要するものだったので少年だった持丸さんたちが、そんな特殊な技術を駆使する自動車部隊の兵士たちを羨望のまなざしでみつめ憧れの心で触れ合っていた心境はとてもよくわかります。兵士たちもまたかわいい少年たちと遊ぶことでほっとする時間もあり楽しい交流の物語があったのだと思います。実は僕もアメリカに生まれ育ち、子供の頃は自動車や戦車、飛行機など軍の車両にすごく興味がありました。いわゆる飛び道具を見に行くチャンスもあり、航空ショーにも行きヘリコプターの迫力にびっくりしたものです。パイロットや米軍の兵士と触れ合うチャンスもあって「面白かったなあ」と今思い出してもわくわくする部分があります。そして多くの友人、知人が米軍に入っていきました。彼らのことを思う時、やはりそういう子どものころの原体験があって、ひとつの軍隊に入る要因になったのだと思います。
今年も三沢基地で米軍が地域住民を招いてオスプレイもみせる機会もあり大人気だったそうです。自衛隊もいろんなところで定期的に交流していてそういう体験を通じて子供たちは軍隊に興味を持つわけですね。興味を持つことは当然だと思うし米軍も自衛隊も一般の人たちが入手できないような魅力あふれる迫力満点の機械をもっているのもまた事実です。
でも一方で軍隊とは何か、そういった飛び道具が航空ショーやデモンストレーションではなく実際に戦地で使われるとどういう事になるかという想像力を持つことも大事だなと持丸さんの話を聞きながら改めて思いましたそれら技術や機械の魅力の裏側に何があるのか?全体の組織が何をしようとしているのか?両方を冷静に見つめたうえで自分の子どもに何を伝えていくのか?
持丸さんの70年前の体験からいろいろな課題もみえてきた気がします。

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