戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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神風特攻隊の元隊員 手塚久四さん

東京帝大在学中に学徒動員された手塚さん。経済学部でアメリカの交通事情を学び、アメリカの産業規模の大きさを知り尽くしていた手塚さんにとって、彼らとの戦争はあまりに無謀な事と思えたのでした。しかし知力のみならず運動能力にも長けた手塚さんは、座った椅子をぐるぐる回した後1分以内に立ち上がるといったテストに心ならずも合格し戦闘機パイロットに選ばれます。特攻隊志願について「熱望」「希望」「否」と書かれた調査票を10分間にらみ続けた手塚さん。希望という字を消して「望む」と書き直しました。この時、ひとりだけ「否」と書いた早稲田の学生は制裁を受けたものの特攻隊には選ばれなかったそうです。手塚さんは沖縄戦では特攻メンバーに選ばれずほっとしたのも束の間、沖縄戦の惨敗を受けて召集された本土決戦のための特攻メンバーに選ばれます。
香川県の観音寺基地からの出発を命じられ、死を覚悟して北海道・千歳の部隊から陸路出発した手塚さんたち。途中の仙台駅で聴いた玉音放送に愕然としながらも、戦争が終わったことと「自分は死ななくて済むことになった」ことがすぐにはむすびつかなかったそうです。

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貴重な機体と貴重な人材を無駄に使う特攻戦には合理性が無いと説く手塚さん。一方で、自己犠牲の精神は自爆テロとは違うものであると、ジャーナリストのマクスウェル・テイラー・ケネディ(ロバート・ケネディの子供)に熱く語ったこともあります。

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手塚さんが搭乗したゼロ戦の模型。同僚を訓練中に亡くした悲しい思い出や、訓練で小樽の上空を飛んだ清々しい思い出。旋回を繰り返した緊張の記憶。さまざまな思い出の上に手塚さんの反戦への思いが込められています。

アーサーのインタビュー日記

手塚さんは話の中に本当に熟慮してもっとも適切な言葉を選んで表現される方です。それは手塚さんが特攻隊に組み込まれるときの体験にも現れていて「熱望か希望か、それとも否か」の中でどれも選ばず「望む」と書いたエピソードも手塚さんの言葉の適切さへのこだわりだと言えると思います。
しかし「東大まで行って特攻隊で死ぬのは嫌だ」と思った手塚さんですら「否」とは書けない時代でした。その「書けない」ところに、突っ込んで自爆していく以外の道が全て閉ざされていた仕掛けが隠されていると思います。特攻隊がまさに突撃してくる現場だけをみていた当時のアメリカ兵達は「神風のパイロットたちはみな人殺しの機械だ」「自爆集団だ」「テロ集団だ」とみていたけれども、アメリカ兵達は手塚さんが「望む」と書かざるを得なかった希望調査の現場は見ていません。「本当は死にたくない」「本当はその道を選びたくない」若い青年たちがどのように組み込まれていったのか?それがわからなければ、なぜ彼らが「突っ込んできたのか」を理解できないと思います。
早稲田の学生がひとり希望調査で「否」と書いたそうです。つまり、当時越えられなかったはずの境界線を少なくとも一人は越えていたということを手塚さんから聞きました。その学生は「否」と書いたことで殴られたけれども、特攻隊として突っ込まずには済んで手塚さんと同様、戦後に命がつながりました。私たちが組織に組み込まれ自分の意思と全く違うことをやらされるときには、そこに向かっていく過程の途中で抵抗できる場面が必ずあるはずです。私たちがどうやって生きていくか?その重要な課題が手塚さんの話の中に示されていたと思います。

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