戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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元BC級戦犯として戦後を生き抜いた飯田進さん

南方の激戦地ニューギニア。1943年、当時20歳の飯田さんは、海軍民政府・資源調査隊員として現地に赴任しました。戦況が悪化していく中、インドネシア語が話せ地元の地理にも明るい飯田さんは、やがてゲリラの討伐隊にも狩り出されていきますそんな中、ゲリラの集落で見つけた4人の女性と子供を飯田さんは食糧運搬係として徴用しました。しかし、その4人を隊長だった少佐が処刑してしまいます。飯田さんもまたゲリラとおぼしき現地住民を斬りつけて殺害。戦争という過酷な状況の中での突発的に起きてしまった出来事でしたが、その事実が戦後飯田さんを「戦犯」として歩ませる事になりました。元BC級戦犯として軍事裁判で死刑を求刑され、重労働20年の判決。その後、東京の巣鴨プリズンに移送。10年間の収容生活を送った後、70年前の戦争を世間に問い続けています。

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脳梗塞を患って以来、健康との戦いも続いています。取材当日も決して体調が良好でなかった飯田さんでしたが、重い一言一言を噛みしめながらアーサーさんにぶつけてきました。言葉のボールをアーサーさんが懸命に拾い受け止めているうち、いつしか飯田さんの目には涙が。そして絞り出すように「多くの日本人よりも外国人である君の方が、俺の言う事を理解してくれているね」とぽつりと語りました。アーサーさんの胸にもぐっと来た一言だっと思います。何が心の琴線に触れたのか確認するという野暮な事は致しませんでした。 「責任を取らない国家の代わりに一人で責任を背負っているのですね」というアーサーさんの言葉だったのかも知れないなと、何日も経った今、ふとそう思いました。

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多くの著書も残してきた飯田さんです。アーサーさんが手に持つのは「たとえ明日世界が滅びるとしても」(梨の木舎)シールズの中心メンバー奥田さんが高校生の時に飯田さんと朝まで語り合った事があったというお話も伺いました。

ちなみにインタビューの日は元気だったアーサーさんですが、その後風邪をひきスタジオ収録の日は声がガラガラ。今週はとても美声の「アーサー・ビナードです」という挨拶が聴けるのも一興です。

アーサーのインタビュー日記

飯田さんは「事実を語る」ことがいかに大変な事であるかということを僕に伝えてくれました。誰でも自分に不利な事はしゃべりません。戦犯として裁かれて殺された人たちも、彼らの残した遺書が必ずしも事実を語っていないと言われています。事実は闇の中に消えていきました。事実を語るためには自分にとって不利な事、自分が語りたくない事も伝えなければなりません。その事に気づいた飯田さんは、ずっと苦しみながら「事実を語る」という大変な仕事に挑んできました。それが飯田さんの70年だったと思います。僕は飯田さんの話を聞きながら、戦勝国とされる僕の母国アメリカや連合国の中枢に、もし飯田さんのような人物がいたら、もしかしたら歴史の定説はもう少し事実に近いようになっていたかもしれないと考えていました。「アメリカは戦争を早く終わらせるために原爆を作った」「戦争を終わらせるために東京大空襲は必要だった」と言う、僕らが定説として浴びせられてきた歪曲された歴史は、全て「自分に不利なことをしゃべらない」「自分に有利なからくりと作ろうとする」そんな人たちが作った定説です。飯田さんのように、そんな流れに抗して事実を伝えていこうとする人物がアメリカ側にもいたら、もう少し違う歴史が語られたかもしれません。会話の中で飯田さんは「間(はざま)」という言葉を使い、僕に鋭い視線を注いで「君はハザマという日本語を知っているか」と問いかけてきました。僕は「間(はざま)」という漢字は辞書を引かなくても書けますし、実際「間(はざま)」という言葉を今までずいぶん使ってきました。しかし飯田さんに「間(はざま)という言葉を知っているか?」と聞かれた時に、「僕は知らないんだ」という事がわかりました。しかし飯田さんの話を聞くことで、僕も無責任な国家と歴史の忘却・歪曲の「間(はざま)」で戦ってきた飯田さんの力を感じることができました。やっと「間(はざま)」という言葉が学習できたような気がします

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