戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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戻らない島、択捉で生まれた鳴海冨美子さん

やってきました、青森県の野辺地。暖冬でも雪深い。

アーサーが野辺地に到着.JPG

そしてこちらが、今回お会いした北方四島のひとつ択捉島で生まれた鳴海冨美子さん。

鳴海さん.JPG

皆さんは「択捉島」と聞くとどんな島をイメージしますか? 「もちろん知ってるよ、北方領土のひとつ。ロシアに奪われて今も返還交渉を続けている」それで?「えっと、国後島の上の方だったよね」そうそう「真珠湾攻撃の部隊はここから出発したんじゃなかったっけ」と答えたあなたはかなり詳しい。知っていそうで知らない、択捉島。今日アーサーさんが探し当てたのは、その択捉島で生まれ育った鳴海冨美子さんです。5歳で追われるように一家で島を離れた鳴海さんですが、川の豊潤な流れや遡上してくるカラフトマスの群れなどが雄大な自然とともに鮮烈な記憶として残っています。物心がつく前に敗戦を迎えた鳴海さんにとって、進駐してきた隣人のロシア兵たちは皆とても優しく、しかしとても貧しい人たちでした。獲れた魚を彼らに分け与える近所づきあいの日々でしたが、ある日、彼らの態度は一変。昨日まで仲の良かったロシア人のおじさんが鳴海さんの自宅に上り込んで金品を奪っていきました。おそらくはロシア当局の指示であったであろう彼らの豹変は鳴海さんの心に深い影を落とします。5歳になった冨美子さんを連れて一家は樺太を経由し函館を目指しますが、択捉島で育ったアイヌ民族の母は、夫の故郷の青森に行きたくない、島に残りたいと最後まで訴えたそうです。説得され渋々納得した母親に手を引かれ乗り込んだ樺太に向かう船。船内でははしかが大流行し、命を落とす子供達が続出しました。海に投げ込まれていく彼らの姿と泣き崩れる親たちの姿を目撃しながら「絶対死ぬものか」と誓った鳴海さんでした。

(択捉島)
面積は、沖縄本島の2.6倍。江戸時代末期の日露親善条約で日本の領土と決まり、漁業で栄えてきた島でした。太平洋戦争の降伏文書調印を前にした1945年8月28日、当時のソ連の軍隊が上陸。そのまま占領地とされてしまいます。鳴海冨美子さんは、その択捉島で戦時中の1944年に生まれ、島を追われた5歳まで暮らしました。


現在は父親のふるさとである青森で70年近く暮らす鳴海さんですが、狭い船に押し込められて本土に引き上げて来た際には強く疎外感を感じました。シリア難民の姿を見ると、当時の自分と重なるそうです。

鳴海さんとアーサー.JPG
今回もすっかり意気投合。アザラシを頂きました。
オットセイにかぶりつくアーサー.JPG
というのはうそで、おいしいリンゴを頂いてお宅を後にしました。
ちなみにこの剥製は鳴海さんが知り合いの漁師に二十数年前にラッコの剥製だとしてもらったしろもので、後に鳴海さん宅を訪れた医師から「これはラッコじゃなくてアザラシだよ」と教えてもらったそうです!鳴海さんには豪快なエピソードをたくさん伺いました。そして人柄の温かさを感じさせて頂きました。

アーサーのインタビュー日記

鳴海さんにお会いするまで僕は択捉島に対して「外れのような、狭間のような土地」という印象を持っていました。しかし鳴海さんから択捉の生活体験を聞いた事でその印象が大きく変わりました。択捉島は現在の日本とロシアの関係を考える上でも第二次世界大戦の歴史を考える上でも、実はピンポイントのツボのような存在だったということを知りました。真珠湾攻撃の時に日本艦隊が択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に集まって、そこから出撃したという歴史はとても重要です。しかし択捉島の生活も日本とロシアとアイヌ民族の歴史がずっとつながって交流したり衝突したりというものをはらんできたようです。鳴海さんの家族もそういうつながりがあって、母はアイヌの方で父は漁師として択捉島に移り住んだ青森の方です。家族は敗戦でロシア軍が入ってきたことでロシアの兵隊たちと隣り合って彼らとギリギリの生活をすることになりました。ではロシアの兵士たちが皆恐ろしい人たちだったかと言えば、鳴海さんの記憶の中では実に優しい人たちだったそうです。彼らもギリギリの貧しい生活で靴も無く暮らしていたそうで、父親が魚を獲ってくるとそれを母親が調理して届けたりして隣同士の助け合いもあり、こうやって択捉島の戦争直後の生活が成り立っていたという事も見えてきました。しかしある日、おそらくはソ連の組織としての命令でその関係が急に崩れ、ロシア兵が怖い存在に変わります。組織の動きによって交流ができなくなり敵対関係になったことが、今の北方四島の問題、日露の国家間のことを考える上でも大きなヒントになるような気がするのです。

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