戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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日系人シリーズ第1回~「開戦の日から周囲の視線が変わったな」リッチ日高さん

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去年の9月、アメリカに帰国したアーサーさん。渡米の目的は、インディアナ州にあるノートルダム大学の講義に招かれたためでした。後ろの電光掲示板は「アーサー、来る!」かな。

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真面目に講義をやっています。

忙しい合間を縫って、ノートルダム大教員のヘザーさんの車の助手席に乗せてもらって向かった先は大都会シカゴ。日本ではほとんど知られていませんが、シカゴは日系人にとってとてもゆかりの深い場所で、戦後、最大で2万人もの日系人たちが暮らしていた場所なのです。アメリカ・カルフォルニア州北部の町モデストで両親がクリーニング店を営んでいた日系2世のリッチ日高さん。

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仕事を求めてアメリカに渡った宮崎県出身の父とハワイ生まれの母が切り盛りする店は白人の客たちで賑わっていました。しかし日米開戦の翌日からは周囲の厳しい視線がリッチさんたちにも注がれるようになり、白人の客たちの足は遠のきます。さらにモデストの日系人社会のリーダーだったリッチさんの父親は、日系人であるというだけで開戦から2日後に当局に連行され取り調べを受けることになりました。一度、帰宅した父親はその2日後に再び拘束され、FBIとともに帰宅。荷物をまとめると「みんなとお別れだ」と言い残し捕虜収容所へと消えていきました。父親とリッチさんが強制収容所で再会できたのは、それから2年後のことでした。
戦争が始まると、リッチさんの身の回りにも変化が起きます。一番仲の良かった白人の遊び仲間がリッチさんと全く遊んでくれなくなります。彼は日高さんに言いました。「うちの母さんに、お前と遊ぶのを禁止されたんだ」学校でもクラスメートたちは日系人のリッチさんと全く口をきいてくれません。そんな毎日が続き、少年だったリッチさんの胸に暗い影を落としました。
そのうち日高さんたち残された家族も強制収容所に送られることとなります。列車に乗せられ「窓の外は見るな」と言われて三日三晩の旅。デンバーで乗り換えて着いた先は、コロラド州のアマチ強制収容所でした。
家も財産も奪われ打ちひしがれる大人たち。しかし若くて腕白小僧だったリッチさんは怖い父親の監視も無くなったのを良いことに悪友でもある年上の兄弟たちといたずら三昧の生活を送ることになります。ある日、兄弟たちとともに収容所の外に忍び出るとパトカーを盗みドライブを楽しんでいたリッチさん。前から来た追跡のパトカーに体当たりをしかけて道路の外に追い払うと、車を降りてちりちりばらばらに逃亡し、夜にそっと収容所に戻りました。しかし翌日になると万事休す。捕まった日高さんたちに課せられた罰は、毎週末に役所や警察の車両をピカピカに磨くという仕事。「坊やたち。そんなに車が好きなら、毎週その大好きな車をたっぷり磨かせてあげることにするか」厳しくもどこかユーモラスな収容所生活をたくましく生き抜いたリッチさんたちでしたが、悪運も尽きる日が来ます。いたずらが過ぎて、お兄さんが車を荒らしをしてお縄になり、ついに収容所を追われることとなりました。しかし、アメリカ政府は土地も家も白人が奪ってしまったカリフォルニアに日系人たちが戻ることを禁じていました。そこでリッチ日高さんたち一家が向かった新天地がシカゴだったのです。

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アーサーさんと、リッチさんジェーンさんの日高さんご夫妻です。
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アーサーのインタビュー日記

リッチさんと話していて実感したのは「ああ、この人はアメリカ人だな」という事でした。快活で陽気なリッチさんは、僕よりもよほどアメリカ人らしい人物だなとも感じました。そんなリッチさんの家族がアメリカ軍の邪魔をすると事はとても考えられず、収容所に入れる理由はどこにもみあたらないのです。しかしリッチ日高さんの一家が、カリフォルニアの社会に溶け込んで地域で役割を果たし、白人や黒人たちと毎日触れ合っているとアメリカ政府にとって都合の悪いことがひとつあります。日系人である日高家の人たちが、自分たちと変わらない「人間」であることがアメリカ中のいろんな人に伝わってしまうのです。日系人(日本人)たちもまた「人間である」と理屈ではなく実感としてつかめるのです。お互いが「わかりあえる」ということがわかるのです。そうなると、焼夷弾を雨あられとばかりに降らせて東京を焼き払うとか、まして広島や長崎に原爆を落とすということがアメリカの世論として難しくなります。一般のアメリカ人たちが日本に焼夷弾や原爆を落とす理由が理解できなくなるのです。だから強制収容所に日系人たちを収容したのは「わかりあえない社会を作る」「共感が広がらない社会を作る」とうい戦略だったのではないでしょうか?「アメリカ人」のリッチ日高さんを前にしてそう思いました。

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