戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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日系人シリーズ第2回~女性たちの記憶 ジーン三島さん メリー大家さん ジェーン日高さん

今回は日系アメリカ人強制収容所の体験を持つ3人の女性、ジーン三島さん、ジェーン日高さん、メリー大家さんの話です。

1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名すると、翌月末にアメリカ西海岸を中心に、敵となる外国に祖先を持つ者にアメリカ陸軍が強制立ち退きを命じました。日系アメリカ人の多くは、戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所と司法省などの政府機関が管理する収容所や拘置所に強制的に入れられることとなります。その数は12万313人に上りましたが、このうちの7割は、アメリカの市民権を持つ日系二世、三世の人たちでした。

日系三世であるジーン三島さんはアリゾナ州フェニックスの南東50キロに作られた「ヒラリバー強制収容所」に1942年に入れられます。そのとき5歳でした。まだ幼かったため、収容所に向かった際の詳細は覚えていないそうです。しかし壁からシャワーヘッドが突き出ているだけの収容所の簡素なシャワー室で、自分たち子ども3人がたらいの中で順々に体を洗ってもらったことやたらいに座って見上げると、並んで体を洗う大人の女性たちのお尻が並んでいたことは良く記憶しています。収容所の裏は砂漠だったので出入りは自由。しかし散歩して転ぶとサボテンの針が沢山刺さりました。ジーンさんはやがて収容所の中の小学校に入学します。教師たちはキリスト教・クエーカー教徒が多かったのですが、外には砂漠が広がるばかりで白人教師たちも収容所で暮らすしかありませんでした。そのため長くは続かなかったと言います。教師たちの顔ぶれはしょっちゅう変わったのでした。

ジーンさん一家は収容所に入れられたことで全ての財産を無くしました。集団生活では朝昼晩の食事もまた行列に並んで受け取り取ることになります。子供は子供同士で食べることが習慣になり、徐々に一家団欒の場は消えていきました。家族の会話も次第になくなり、父親はもはや自分は一家の主では無いと自覚、自負心を無くしていったそうです。

ジーン三島さん.jpg

ちなみに日系人の皆さんのお話はジーンさんのご自宅で伺いました。ジーンさんはシカゴ日系人歴史協会の会長を務めるなど地元日系人社会のリーダーの一人として活躍されています。なぜ日系人たちが強制収容所に入れられることになったのかについてもいろいろと教えて頂きました。日系人の収容所問題は1980年代の後半からアメリカ政府が検証委員会を立ち上げ検証してきました。9つの州で公聴会を開き、750人の証言をきいて1万点の歴史的な資料も検証。基本的人権を無視した事実が報告書としてまとめられました。結論は「日系人を収容所に入れることは軍事的に必要なかった」「人種差別と根拠ない恐怖を先導した結果であり、ルーズベルト大統領の政治的なリーダーシップの欠如」と導かれました。

最後にジーンさんは、「歴史は繰り返されている」と話してくれました。2001年のアメリカ同時多発テロを受け、当時イスラム教徒たちを強制収容所に入れようというような声も上がりました。その時、多くの日系人たちが反対の声を上げたのだそうです。「そんなことをしたら、私たちがやられたことを同じじゃないか」と。


続いて伺ったのはメリー大家さんです。1924年にモンタナ州に生まれた日系二世のメリーさんは西海岸のオレゴン州ポートランドに暮らし、学校に通いながら農場で働いていました。日米開戦はラジオで知ったそうです。そして18歳の時に、カリフォルニア州のツーリーレイク強制収容所に入れられる事となります。収容所に入る際には、荷物は一人で運べる2つのカバン程度しか許されませんでした。最初、一家は地元ポートランドの一時的な収容所に入れられます。そこは競馬場の中の馬小屋で、親たちは政府によって自分たちが家畜同然の扱いを受けている事に対して大きなショックを受けたと言います。メリーさんの一家は「ここにいるよりはましではないか」と、自らツーリーレイクの収容所に入ることと決意しました。しかしツーリーレイクはできたばかりの寂しい施設。後から送られて来ると思っていた知り合いたちはアイダホ州の収容所へ向かい、メリーさん一家は知人たちと離ればなれになってしまいました。

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戦争が終わる間際、メリー大家さんの一家は、シカゴに移りましたがアパートを借りることもできませんでした。空き室はあるのに貸してくれない。敵国、日本への憎悪が貸主たちに「部屋はもう一杯です」と言わしめていたのです。中国人に対しては第二次世界大戦当時アメリカの友国だったため差別待遇はありませんでした。しかしアメリカ人には日本人と中国人の見分けはつきません。だから中国人たちは「私は日本人ではありません」というバッヂを胸につけて生活していたそうです。


最後に、ジェーン日高さんをご紹介します。

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ジェーン日高さんは先週ご登場頂いたリッチ日高さんの奥様です。離婚した父親がワイオミング州のハートマウンテン強制収容所の中で結核にかかって死んだ際の思い出を語ってくれました。訃報を受けてジェーンさんは母とともに自分たちが暮らしていたアーカンソー州のジェローム刑務所から汽車に乗り、遠路はるばるワイオミング州まで向かいました。しかしハートマウンテンの駅に着くと、預けていたはずのスーツケースが届いていません。スーツケースが誤ってワイオミング州のデンバーではなくコロラド州のデンバーに運ばれてしまっていたのです。当然スーツケースに入れていた喪服もありません。しかし親切な日系人達が服を貸したり面倒をみてくれたそうです。6月のお葬式でしたが雪が降っていたことを記憶しています。どの収容所も、人が暮さない寒々としたところに作られていたのでした。葬儀を終えて、ジェロームに再び戻ることになったジェーンさん母娘。汽車に乗っていたところ、途中でアメリカ兵たちが乗りこんできました。するとジェーンさんたちは彼らに席を譲らねばならなくなったのです。席が足りない場合は日系人が席を譲ることになっていました。ジェーンさんのご主人のリッチさんは、戦時中、電車が満員になった際に降りることを命じられた記憶もあります。砂漠の中なのでどこで降ろされたのか次の電車がいつ来るのか何ももわからない場所で降ろされました。当時の日系人がどのように扱われていたかが良くわかるエピソードです。

ジョーンさんとジーンさん2.JPG
ジョーンさんとジーンさん

強制収容所に入れられる際に、日系人たちは皆、住んでいた家を置いていくか他人に貸していくことになりました。多くの人は裏切られて家を取られてしまいましたが、ジェーンさんの祖父母は幸いにも信頼できる人に託していたので無事返してもらうことができカリフォルニアに戻ることができました。
一方、ジェーンさんは戦後、シカゴにあるユダヤ系の宝石店に就職しました。ユダヤ人が経営する店で働く日系人は多かったそうです。ヨーロッパとアメリカでともに差別され家を追われ強制収容所に送られたもの同士、勤勉な民族性も似ていました。戦後シカゴには2万人くらいの日系人が集まったそうです。日本人が知らない日系人の歴史です。

ジェーンさんの母親たちの世代は強制収容所にいたときの話を家の中でも全く話しませんでした。あの強制収容が人権侵害や違法だったという話も体験者同士では話さなかったそうです。その理由を、ジェーンさんは「おそらく恥ずかしかったからだろう」と説明してくれました。何の罪もないのに犯人扱いされて収容所に入れられたことが「恥ずかしい」ことだったのです。犯罪者扱いされた恥ずかしさで記憶を葬って当時の日系人たち。恥ずかしかったか理由をジェーンさんは、「アメリカ政府の処置を仕方がないこと」と受け入れてしまったからではないかとも話してくれました。

アーサーのインタビュー日記

合衆国憲法と照らし合わせると、日系人たちが強制収容所に入れられるという事はあり得ない話です。しかしそれが実際に70年以上前、アメリカ政府によって行われました。本来は政府に責任を突きつけて然るべき話ですが、「恥ずかしくて」家族の間でもその話はできませんでした。僕はその話を聞いて日本の当時の戦陣訓に出てくる「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が頭に浮かびました。アメリカ政府は巧妙に国民を操作するために、「恥」の心理を使い責任を取らずにこの問題を葬ってきましたが、改めてこの問題と向き合い歴史を繰り返さないこと。3人の話を伺いそのことの意味の大きさを改めて痛感しました。

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