戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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日系人シリーズ第3回~今村ミノルさんと兵坂米子さん

アメリカ本土で戦争を体験した日系人の皆さんのインタビュー第3回。
今回は今村ミノルさんと、兵坂米子さんのお話です。

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受賞した勲章や賞の数は1万8000個以上。アメリカ史上最も功績を挙げた伝説の部隊として今なお称えられているアメリカ陸軍・第442連隊戦闘団。「アメリカへの忠誠心を示すために」と集められた日系アメリカ人で構成された部隊です。御年90歳となった今もお元気な今村ミノルさんは、終戦の前の年の1944年に日系人部隊に入隊してヨーロッパへ戦線へと向かいました。

今村ミノルさん.JPG

18歳で入隊した今村さんは豪華客船クイーンメリー号に乗って、スコットランドからロンドンを経てフランスに渡りドイツに向かいました。しかしヨーロッパに向かう洋上で、ナチスドイツの降伏を知ったのです。ドイツに到着した今村さんはニュールンベルグの駐屯地に赴任し、進駐軍として一年間フランスとドイツを往復する生活を送ります。強制収容所にいた年上の日系人たちの多くはすでに442部隊で命を落としていました。後輩として彼らに続いた今村さんですが徴兵されることは怖くはなく外国を見聞したい気持ちの方が強かったそうです。「まだ若かったからね」と笑って話してくれました。

戦後は日本と同様、ドイツの人たちも飢えていました。日本人の顔をした今村さんですがアメリカ兵の一員としてドイツの子どもたちにチョコレートやチューインガムを配ったそうです。不思議な巡り合わせですね。日本が降伏したという一報を聞いた際はとても嬉しかったそうです。それは「家に帰れるから」。家とはもちろんアメリカの故郷のことです。

最初は英語で話していた今村さんですが、少しずつ日本語を思い出しながら語ってくれました。当時、米軍の日本語通訳として日本で働くこともすすめられたそうですが「嫌だ」と断ったそうです。今村さんは一言「ありがた迷惑でした」と言って苦笑いました。

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7人の日系人インタビュー。最後は9歳で強制収容所に入った兵坂ヨネコさんです。兵坂さんは、自らの体験談と合わせて、フィリピン系アメリカ人と国際結婚したお姉さん家族の話をしてくれました。

兵坂さんと2.JPG

兵坂さんの姉の夫は、フィリピン系アメリカ人。夫妻には幼い子どもが一人いましたがアメリカ政府は兵坂さんの姉と子どもの2人だけを夫から引き裂いて強制収容所へ連れて行こうとしました。姉の夫はそれに激しく抵抗し「それなら俺も強制収容所に入る」と言い張ってともに入所したのです。入所してからも義理の兄は当局に対して粘り強く抵抗し続け厄介な存在になっていきました。扱いに困った当局は、ついに兵坂さんの姉と義理の兄、そしてその子どもの3人に「もう収容所から出てよろしい」という通達を出したのです。 

姉家族はそうして出所しましたが、両親と兵坂さんら子供たちはみなカリフォルニア州のツーリー・レーク収容所に入れられ、さらにアーカンソー州のジェローム収容所へと移されました。アメリカ政府は日系人に対して思想の調査を行い「アメリカと日本、どちらに忠誠を誓うのか」と二者択一を求めました。「日本に忠誠を誓う」を選んだ人たちは、そのままツーリー・レーク強制収容所に残され日本に強制送還されることになりました。しかし結局彼らの大半は後に解放されます。当時のアメリカ政府の政策がいい加減だったことが分かります。日系一世でアメリカ国籍を取得できない兵坂さんの両親は「日本に忠誠を誓う」と答えようとしましたが、兵坂さんら子ども達の抵抗にあって断念しました。

後に収容所から解放された兵坂さん一家はユダヤ人が経営するミシガン州の農場に雇われますが、そこに捕虜となったドイツ兵が井戸の水を使わせてくれとやってきました。恐ろしく悪魔のような存在だと信じていたドイツ人たちがあまりに普通の人たちだったので兵坂さんは驚きました。「どうして彼らと戦争をしたのだろう」

ミシガン州で兵坂さんたちが差別されることはほとんどありませんでした。彼らは日本人を見たこともなく珍しい存在だったのです。戦争が終わり地元の学校に入学した兵坂さんたちを見てクラスメートたちが言いました。「嘘だ!君たちは全然日本人じゃない」「僕たちは漫画で読んで知っている。日本人は色が黄色くて目がつりあがっているんだよ」。


最後に、兵坂さんは番組リスナーに対して「私たち日系人は何とかうまくやっていますから皆さん心配しないで下さいね。私は日本のみなさんが元気に暮らしていることを祈っています。原爆を落とされて、私たちよりも大変な目にあったのですから。」と語ってくれました。

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皆様、本当にありがとうございました!素晴らしい笑顔で迎えて頂いてアーサーさんの良き思い出となりました。

アーサーのインタビュー日記

今村さんは、家族が強制収容所に入れら犯罪者扱いを受けているのに、日本流に言えば「赤紙」が届いて442部隊に入るしかありませんでした。何という矛盾でしょうか。僕は日本に来てから、戦前戦中に朝鮮半島の人たちが強制労働をさせられていたことを初めて知って、なんと矛盾だらけの犯罪なのだろうと感じたのですが、自分の母国であるアメリカの政府も同じような矛盾の中で日系人たちを扱ったことを知り憤りを持って受け止めました。

一方、兵坂さんが収容所を出た後住むことになったミシガン州の田舎町のディケーターは、僕の生まれ育った町の近くにあります。だから兵坂さんに対して「君は日本人じゃないよ」と言ったクラスメートの顔までが鮮やかに想像できました。兵坂さんの語るドイツ兵の記憶や自身の入学時のエピソードから伝わってくるメッセージは「結局、同じ人間同士じゃないか」ということです。言葉を置き換えれば「共感」と呼べるものです。最後に兵坂さんは「原爆の長期に渡る影響を心配している」と日本への心配りも口にしました。兵坂さんの兄弟はアメリカで農業を営んでいたのですが、戦後日本でも撒かれた強力な農薬DDTの散布 によって肺をむしばまれ亡くなっていったそうです。だからその事情が良くわかると話してくれました。この心配りもまた兵坂さんの持つ大きな「共感」のひとつなのだと感じました。

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