戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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アーサーさんのお姑さん、栗原澪子さんの書いた決戦日記

インタビュー最終週。最後にお話を伺った栗原澪子さんはアーサーさんの奥様の母親、つまりお姑さんです。日本全国はもとよりアメリカでもお話を伺ってきたアーサーさんがずっと気になっていたのは「まだ身近な人に聞いていない」ということでした。戦中戦後の激動の時代を生き抜いた先輩方には百人に百様の物語があります。灯台下暗しとならないようにお姑さんに改めて戦争体験を聞いてみることにしたというわけです。

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澪子さんは、1932年に埼玉県の嵐山(らんざん)に生まれました。父を早くに亡くし、母は食糧難の時代を生き抜くため学校教師の職を辞してにわか農業を始めました。東南アジアではナチスドイツが快進撃を続け、フランス領インドシナ、仏印と呼ばれていた東南アジアを手中に収めます。すると同盟国の日本軍も東南アジアで権益を拡大。澪子さんの学校には当時の子供達の憧れだった「ゴムボール」が届きます。東南アジアはゴムの木が林立する一大生産地。澪子さんはこう考えました。「そうか、日本の占領地が増えるということはゴムボールが手に入るという事なんだ」。子供心には日本軍の活躍が実にまばゆく映ったのでした。先生は自慢げにこう語りました「これからゴムボールはいくらでも日本に入ってくるぞ」。しかし、ゴムボールが二度と入ってくることはありませんでした。

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文学少女であるとともに愛国少女だった澪子さんは当時の状況を日記に克明に記しています。その日記のタイトルは何と「決戦日記」。

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これが「決戦日記」です。字も上手!

弱いものをいじめる欧米列強に対し戦いを挑む皇国・日本の姿に沸き立つ澪子さんとは対照的に大正デモクラシーの時代を生きてきた澪子さんの母親はうかぬ表情でした。「日本が勝つはずがない」と口にする母に澪子さんは「お母さんのような非国民がいるから日本の戦況は苦しくなるのよ」と食ってかかりました。そんな澪子さんに母は「あなたのように純真な心にお母さんはなれないのよ」と優しく諭すのでした。大人になり、当時の母の思いが良くわかるようになった澪子さんです。

澪子さんの語りと日記は、水雷艇の冷却ポンプを作る軍需工場に通った話。壊れた自転車で工場に向かう途中機銃掃射に追われて逃げた話。工場でも激しい空襲にあった話など一人の少女の目線で戦争を見つめた生々しい記憶である記録です。文章力のあった澪子さんは、工場で聴いた玉音放送でも「太平を開かんと欲す」の一言で戦争の終わりに気付き、泣き始めました。澪子さんは、戦後も学校の授業の綴り方で優秀な成績を残し、その褒美として学校長とともに東京裁判を傍聴しています。当日の「決戦日記」には「被告あはれなり」などの記述もあります。どこか現実感が乏しくもあるその美しい文章の中に、当時の子供達がどのように大人たちの戦争に染められていったのかが良くわかる「決戦日記」は当時の一級品の資料ともいえるのです。

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まさに身内ならではのショット。昼食に舌鼓を打つアーサーさんと台所に立つ澪子さんでした。


アーサーのインタビュー日記

僕は義母が日記をつけていることは知っていました。「日記をつけるとずっと後になって大事な記録になるからつけた方が良いわよ」と言われた事もあります。しかしまさか「決戦日記」という日米の本土決戦を意識した日記をつけていたという事は知りませんでした。そんな骨の髄まで軍国少女だった義母がなぜ「鬼畜米英」の国の男を婿として迎えることになったのかと考えると、そこには義理の祖母の存在が有ったのでしょうか。祖母は若くして亡くなったので僕の妻にも祖母の記憶は有りません。今回、戦争体験を聴くため祖母の家に行ったのですが、大正デモクラシーの中に育ち軍国主義の時代を生抜いた義理の祖母に無性に会いたい思いを胸に抱いて帰路につきました。

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