2014年10月31日
舞台風景
1946年NHK『歌の新聞』がレギュラー番組になっても、三木鶏郎は貧乏で飲まず食わずの生活を続けていた。日本中の誰もが栄養失調で飢餓状態だった。
そんな時、日本劇場出演の話が来た。
山本紫朗構成演出のバラエティー・ショー『笑う東京』で、約一時間半の間、様々な芸人が約10分間ずつ出演する。その中の一コマに三木鶏郎グループの「歌の新聞」が組み込まれたのだ。一日三回公演、二週間の興行。素人集団のスラップスティックとなって、どうにかこうにか終えた初舞台だった。
そのギャラで闇米を買ってホッとしたのも束の間、『歌の新聞』の放送が中止になった。
それより少し前、鶏郎は銀座のキャバレーで演奏するバンドのピアニストとしての職を得ていた。ところがそこのバンマスが失踪し、鶏郎が代表となりバンドそのものを組合組織の楽団として経営することになった。誕生した三木鶏郎楽団は、昼間はラジオに出演、夜はキャバレー、深夜は米軍キャンプにと活躍し稼いだ。入団希望者が増え、ジョージ・川口、鈴木章治、小野満らも加わった。
『歌の新聞』放送中止後、鶏郎は飛行館東横劇場での舞台の仕事を引き受ける。作、演出:三木鶏郎、出演:三木鶏郎グループ、演奏:三木鶏郎楽団で、ミュージカル・ショーは満員大盛況。二週間に一度脚本を新しくして約9ヶ月間続いた。その後、池袋文化劇場、浅草国際劇場、日本劇場他、地方巡業を含め、三木鶏郎はグループと楽団とともに活動の場を舞台に広げた。
(文中敬称略)
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