ディズニー映画

ウォルト・ディズニーが長編アニメーション映画の日本語版を作った最初の作品は「ダンボ」だった。
この制作にあたり、三木鶏郎は歌詞と歌・コーラスの音楽監督を依頼された。元来ディズニーファンの鶏郎は喜んで引き受けたが、オリジナル版の試写を見て愕然とした。歌もコーラスもその音楽的センスがあまりにも日本のそれとかけ離れ、自分ではとても手に負えないと思ったのだ。
間もなく本国からオーケストラ・スコアとレコードが届き、鶏郎は苦心の末、歌詞はなんとか音階に嵌めた。しかし歌とコーラスの方はいくら猛練習してもアチラの様にはいかない。この時、コーラスに参加したのが永六輔、荻須照之、中川雄策ら雑唱団であった。何度録音しても鶏郎は気に入らなかったが、オリジナルを知らない人が聴くと面白いと云われ、製作者からOKが出た。この録音がハリウッドに送られ編集され、54年3月、日本封切りとなり大ヒットした。何より喜んだのが子供達であった。そしてこの成功により、ディズニーは全作品の日本語版制作に踏み切ることになった。
当時、ディズニー・プロから来日していた技術部長で外国語版制作のベテラン、ジョン・カッティングが次の「わんわん物語」(56年初公開)も三木鶏郎を再指名し、日本語版監督、音楽監督、作詞を任せた。以後、「バンビ」(57年公開)、「白雪姫」(58年公開)、「ピノキオ」(59年公開)まで、全5作品でカッティング総指揮のもと、三木鶏郎が日本語版監督を務めることになった。
(文中敬称略)

本サイト上に掲載されている画像、文章等の無断使用、転載、二次利用はご遠慮ください。スタジオ1205.jpg

三木鶏郎ギャラリー