糖尿友の会

終戦後、繁田裕司は栄養失調寸前だった。それから三年後、三木鶏郎として有名になり、公演のため出掛けた大阪で毎日食べ放題の結果、たった2週間で50kgだった体重が75kgに増えていた。遺伝的体質もあったが、鶏郎の糖尿への道はこの辺りから始まった。

鶏郎が初めて糖尿病宣告を受けたのが保険加入の時である(当時、糖尿病患者は契約できなかった)。2度目の宣告は、56年年末に怪我で入院し、ついでに入った人間ドックで。3度目は59年に大阪でカラヤン指揮の演奏会を聴く最中、突然激しく痛み出したオデキの原因が「糖」であることを知らされた時で、かなりの重症だった。ここで初めて鶏郎は糖尿と取り組む心構えが出来、この年を闘病開始年とした。
尿糖検査が主流の当時、鶏郎は毎日3回尿糖を計測し糖尿日誌を事細かにつけ始めた。始めると凝り性な質である。いつでもどこでも計れる「携帯トイレ」を考案した。独自の視点で糖尿を観察し、次第に「糖尿」を「趣味」と感じるようにさえなった。
10年後、鶏郎は、この厄介な病を積極的に楽しむ方向に転換したいという考えに至る。また楽しむなら大勢の方がもっと楽しい。そこで69年5月「糖尿友の会」を発足。すると糖尿仲間の多士済々が発起人として名を連ねてくれた。反響を呼んで、取材が殺到。新聞に闘病手記を連載したり、鶏郎自身がテレビや講演会に出演する内、全国から続々と会員が集まった。
同年7月、機関紙「糖友」創刊。9月「糖尿食品センター」発足。
会員は情報交換が出来るようになり、時には一同に会してレストランでの食事や国内外の旅行に出掛ける等して親睦を深めた。

94年6月、鶏郎は「糖尿友の会 25周年さよならパーティー」を開催。"糖尿を皆で楽しむ"という当初の目的を遂げた会に幕を引いた。しかし25年続いた機関紙「糖友」に掲載の「糖尿日誌」は、会員からの継続希望の声に応え、紙名を「余滴クラブ」と改め、「糖尿日誌」も「余生余滴」と変えて鶏郎自身が執筆を続け、同年10月に亡くなるまで私通信として発行した。

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