「時代の綺羅星たちを引き寄せる、引力のようなものが、
三木先生にはあったと思う。」

 1956年、ぼくは三木鶏郎主宰、冗談工房のマネージャー兼、専務となった。社長は永六輔。雑誌に書いたぼくの短文が、三木先生の目にとまって、どうやら縁につながったらしいが、実際はぼくの掃除が認められたのではないか。ぼくは一時、寺で修行したことがあって、庭の草取り、小間物の整理整頓、拭き掃除などが得意だった。
 すでに三木先生の周辺には、永六輔をはじめ才気あふれる連中が群れ集っていた。ぼくなど出来損ないの出る幕はない。他に才能がなきゃしょうがないと、雑務をこなす日々。しばらく楽譜の整理、留守番をするうち、見様見真似でラジオのコントを書きはじめた。そのうち、いずみたくと組み、コマーシャルソングを作るようになった。三木鶏郎門下としては裏切り行為だが、三木先生は大目に見てくれた。この頃いずみたくと組んで作ったコマーシャルソングが時代の波に乗り、昭和34年、ぼくの年収は一千万円を超えていた。やがてそんな浮ついた明け暮れが嫌になって、活字の世界へ移った。
 三木先生の才能は多岐に渡って発揮され、世の中に与えた影響は多大である。時代の綺羅星たちを引き寄せる、引力のようなものが、三木先生にはあったと思う。

野坂昭如     

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