
寺島尚正 今日の絵日記
2026年3月16日 小さな希望
浜松町の街路樹に、白い灯りがともっている。
白木蓮の並木だ。
ひと目見て、「あ、世界が少し明るくなった」と思う。
ほんの数日前まで、街はまだ冬の余韻を引きずっていた。
アスファルトは冷たく、ビルのガラスはくもり、人の歩き方にも早春の頼りなさがあった。
ところがある朝、ふと顔を上げると、通りの空に白い炎のような花が幾つも浮かんでいる。
白木蓮の季節が来たのだと気づく瞬間だ。
葉より先に花を咲かせる白木蓮は、まだ裸の枝の上に春を灯す。
冬を抱いた幹から、真っ白な花がぽっとともる。
その対比の鋭さが、通り全体にやわらかな明るさをもたらしている。
白木蓮は、電灯とは別の光で街を照らす。
丈夫で、暑さ寒さにも強く、病害虫にも負けない。
樹形はすっきりと直立し、手入れもしやすい、そんな理由で街路樹に選ばれてきたという。
それでも、道ゆく人が足を止めるのは、その実用性よりも、「季節の境界を告げる劇的さ」のためだろう。
開花の期間は驚くほど短い。
三月の初めに蕾がふくらみ、気温が上がると一気に開く。
見頃はおよそ一週間。
風が強い年には、あれほど見事に咲き誇った花が、次に見上げるともう半分散っている。
白木蓮は、毎年同じように「短い春の幕」を演じて、静かに舞台を去っていく。
一輪の寿命も長くはない。
厚い花びらは数日で色を失い、風に叩かれればすぐに痛む。
それでも、散った花びらが歩道を覆う時でさえ、木は気品を保っている。
花言葉の「気高さ」「威厳」「慈悲」といった響きが自然と思い出されるのは、そのお陰だ。
咲き誇る時も、散る時も、どこか凛としている。
街路樹は本来、実務的な存在である。
強い日差しを和らげ、車道と歩道を隔て、風や埃を防ぐ。
しかし白木蓮の並木を歩くと、機能以上のもの街の物語を静かに編む姿を感じる。
卒業や入学のころに満開を迎えるこの花を見て、「年度が替わる」と身体で感じる人も多いだろう。
街路樹は都市の設計図の一部であると同時に、個人の人生の目印でもある。
白木蓮は俳句の世界では春の季語として親しまれてきた。
「木蓮」「白木蓮」と聞くだけで、夜の闇に浮かぶ白い花姿や、雨上がりの街角のしっとりした空気がよみがえる。
いつもはただの通りが、花の季節だけは小さな舞台に変わる。
桜より少し早く、あるいは並ぶように咲く三月の花。
桜が春の主役なら、白木蓮はその前に姿を見せ、まだ冷たい空気の中でひと時の光を投げかけて去る助演だ。
主役ほど華やかではないが、その登場があるからこそ、桜の季節がいっそう待ち遠しく感じられる。
通りを歩き、ふと見上げる。
掌をひらいたような花が並び、遠くからは均一な白の帯に見えても、近づけば一つ一つ開き方も透け方も違う。
蕾、咲き初め、散り際、一本の木の上で、いくつもの時間が同時に進んでいる。
まだ冷えの残る朝、並木をくぐると背筋がのびる。
世界はまだ完全な春ではない。
それでも、この通りだけは一足早く白く輝く。
その光景を今年も見届けられたというだけで、小さな達成感のようなものを覚える。
街路樹としての白木蓮は、都市に点在する「季節の灯台」だ。
そこを通るたび、私たちは自分の時間を測り直す。去年は誰とこの花を見上げていたのか。
今年はどんな気持ちで眺めているのか。
花の命は短くても、その問いだけは毎年変わらない。
世の中が白く明るく見えるのは、まぶしい花のせいだけではない。
あの白さの中に、私たちは自分の生活を照らす小さな希望の光を見ているのだ。
ソメイヨシノのつぼみは、まだ固い。

小さな希望

望みがひらく
- 3月 9日
- 3月16日








