戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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広島原爆で被爆した大岩孝平さん

今年は戦後70年。つまり広島や長崎の原爆からも70年目の夏となります。
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1945年の8月6日、午前8時15分に広島市の上空およそ600メートルですさまじい閃光を放ち、炸裂した原子爆弾。摂氏100万度を超える熱を生み出し、一瞬にして街は壊滅。放射線による急性障害などで、その年の内に、およそ14万人が亡くなりました。
現在の広島市東区。比治山の東に自宅のあった大岩孝平さんは当時旧制中学の1年生でした。たまたま当日、体調を崩し学校を休んだために救われた大岩さん。焼けただれた体で山の向こうから助けを求めて彷徨い歩き続けてきた何百人もの人々。多くの遺体の山。無数のうじと腐臭。遺体を焼く炎。前の日、ケンカをしたまま原爆の閃光の中に消え、今も仲直りできない親友の面影。大岩さんのあの日の地獄の体験を、現在に生きる我々が想像の力で追体験することが必要な今夏です。

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原爆の事を「ピカドン」と言います。爆心地から2キロの地点にいた大岩さんは、「ピカ」の光は記憶していますが、「ドン」という爆発音を聴いていません。記憶から消えたのか、気を失っていたからなのか、それとも様々な轟音の中ドンの音も消されてしまったのか。今もわかりません。
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広島に生まれ東京に暮らす大岩さんと、東京から広島に暮らしの場を移しつつあるアーサーさん。お互い立場も年齢も国籍も違えども「原爆を語る」同志です。
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東京都原爆被害者団体協議会の代表でもある大岩さん。8月1日には東京・調布で講演会も行います。
こちらを開いてください。

大岩さん講演会.pdf

アーサーのインタビュー日記

大岩さんの奥さんも広島で「ピカ」に遭い、その2人が出会い永年連れ添ってきました。互いが被爆体験を持つことを理解しあいながらも具体的な体験は語りあわなかったとおっしゃっていました。語ると全てが甦ってしまうし、抱えることができない体験なので半世紀近く語らなかったそうです。しかし語らないとその体験が全て消えて語り継がれていかないと、ある時期から語るようになったそうです。2人の原爆の始まりは明らかに1945年8月15日の「ピカ」ですが、終わりは線引きができません。体内に潜り込んできた放射性物質はいつ攻撃を開始するかわかりません。その重荷をいつも抱えていなければならないのです。今の日本の状況を考えると、福島第一原発がメルトダウンして僕たちの生活にも放射線が潜り込んでいます。大岩さんの話は決して昔話ではなく、今皆が抱えている終わりの無い危機だと言えると思います。これから日本でどうやって生きているのかと考える事が、1945年の問題と直結していると思えるのです。

戦時下の対馬で幼き日を過ごした宮良瑛子さん

韓国との国境に接している島、長崎県対馬。東シナ海から、日本海へと抜ける入口に位置するこの島は、海上の要所として、戦争の度に翻ろうされてきた歴史を持ちます。昭和の初めには、長さ18.5メートル、当時としては世界最大の大砲が置かれ、対馬自体が、「海上の大要塞」とも言われていました。福岡で生まれた画家の宮良瑛子さんですが、父親の転勤で物心ついた時から対馬で育ちました。宮良瑛子さんが幼いころの対馬は、童謡「ふるさと」の歌詞の世界そのままの、自然の野山が広がる美しい島だったそうです。しかし小学校一年生の時に太平洋戦争が始まり、戦局が極まると陸軍の大部隊が守り固めのために対馬にやってきます。

小学校の校舎は兵隊の宿舎となり勉強もままなくなりました。そして宮良家の自宅として借りていたお寺の本堂には8人の士官が寝泊りすることになります。そして瑛子さん一家は台所での生活を強いられます。若い下士官が父親のような年齢の兵隊を殴りつける光景に、宮良瑛子さんは幼い胸を痛めるのでした。

今週は、そんな戦時下の対馬での生活や、戦後福岡に戻ってからの食糧に事欠く窮乏生活についてお話を伺いました。

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実は宮良瑛子さんは先週お送りした宮良作さんの奥様。偶然にもアーサーさんと面識があったのでした。作さんのインタビューを終えた後、沖縄本島はもちろん与那国島や波照間島、久米島など離島の戦時中の苦しみについて作さんに伺っていた際、瑛子さんが発した「私は対馬で育ったのよ」の一言に、アーサーさんの目がきらりと光りました。「では、瑛子さんも是非!!」となった次第です。しかしアーサーさんは、その日、読谷村に約束があったため2日後に再び那覇市内の宮良家に舞い戻ることになりました。

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また宮良家に来てしまいました(汗) 
申し訳なさそうなアーサーの手には、宮良瑛子さんの作品集が。

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力強い宮良瑛子さんの作品。よく見ると右下に若き日のご夫婦の写真が!

アーサーのインタビュー日記

毎週いろいろな方の戦争体験を聴かせて頂く中で、戦争の時にいかに大変だったか、いかにみなが修羅場を乗り越えてきたかを改めて実感しています。しかし今回宮良瑛子さんの話は、戦争中の大変さもさることながら、戦後福岡に引っ越してからの「たけのこ生活」生き残るために戦った苦しい生活の話がとても印象的でした

戦争が終わればすべてが良くなったとその時代を体験していないものが錯覚してしまいます。しかし人によっては戦争が終わった後の方がずっと苦しかったということも常に頭に入れてあの時代を追体験しないといけないということを学びました。
瑛子さんはその後美学校を卒業して画家になり、スケールの大きい美しい絵を沢山生み出してきました。
瑛子さんの作品は人物画が中心です。貴族の絵画のようにきらびやかなものではなく、描く人物ひとりひとりが力強く存在感のある骨太なものです。ひとつひとつが絵の中に立って私たちを見返しているような作品です。戦時中の兵隊たちの切ない思いを子ども心に感じ取った宮良さん。ひとりの人間が尊厳を持って生きていくことがいかに大事かということへの強い思いが、作品の中に現れています。そんな作品の数々は、おそらく今回聞かせて頂いた戦時中の体験からも生まれてきたのではないかと僕は想像します。

与那国で生まれ台湾で暮らした宮良作さんは戦後初めて「ニッポン」を観た

今週お話を伺ったのは、元沖縄県議会議員の宮良作さんです。日清戦争から太平洋戦争が終わるまでの50年、日本の植民地となっていた台湾。日本の西の端、沖縄県与那国島からは、わずか111キロ。戦前、貧しかった沖縄からは、多くの人が仕事を求め、移り住みました。与那国島で生まれ育った宮良作さんも、父親の仕事の都合で台湾に移り住んだお一人です。それは、1937年の秋、作さんが小学4年生の時でした。
基隆の港に明け方着いた宮良さんは目に飛び込んできた灯りの放列を、「人魂」だと勘違いし戦慄します。しかし船長は「あれは人魂じゃない。車の灯りだよ」と教えてくれました。車はおろか靴すらも見た事の無かった与那国島でののどかな生活から一転、台湾という文明社会での暮らしに順応していく中で、宮良さんは「言葉の壁」「民族の壁」「思想の壁」といろいろな壁にぶつかります。「本土人は一等国民、沖縄人は二等国民、台湾人は三等国民だ」と教える教師に反発した中学生の宮良さんは、台湾の友人に味方するのでした。その後、社会主義の運動に身を投じた宮良さんの原点とも言えるのかもしれません。

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普段は与那国島で暮らす宮良さんですが、アーサーさんに会うために
那覇での滞在を延ばして待っていてくれました。
アーサーさんと初めて会ったとは思えない意気投合ぶりには奇遇とも思える共通点がありました。
それは2人とも海の向こうからトウキョウにやってきたこと、そして初めて降り立った駅が2人とも池袋だったことです。
もちろんアーサーさんは25年前、宮良さんは70年前ですから宮良さんの方がずっと先輩です。
与那国と台湾で育った宮良さんは敗戦直後、念願かなって本土の土を踏んだ時、こう感じたそうです。
「そうか、日本という国は本当にあったんだ!」

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宮良さんの奥様で画家の宮良瑛子さんも合流。そして次週は瑛子さんに
「戦時中の対馬の暮らし」を急きょ伺います。

アーサーのインタビュー日記

宮良さんが台湾で過ごした少年時代の経験は、そこから当時の大日本帝国の支配の仕組みも見えてくるお話でした。しかし同時に台北帝大時代に学友たちと兵隊に逆らった話や酔っぱらって敗戦を喜ぶ父親のエピソードからは、台湾という大日本帝国の端っこで支配のシステムが最初にほつれ始め、そして生まれた隙間から「自由」が顔を覗かせていく流れも鮮やかに感じられる話でもありました。
宮良さんは与那国島で過ごした子供時代、靴という文化的な道具を見た事すら無い生活を送っていたそうです。台湾の地で生まれて初めて靴を履くわけですが、学生になると今度は軍靴を履く事を拒否し、下駄で日常生活を送ります。「履物」からも、当時の支配のからくりや自由を求める歩みが見えてきます。
1等国民、2等国民、3等国民と位置付ける残酷な階級社会には「言葉の問題」も深く関わっています。宮良さんは与那国語という全くの独立語が母国語だったことで、恥ずかしい思いもし、子供たちの中でもまれました。しかし、その苦労によって獲得した自身の表現力が、魅力的な人柄の宮良さんの「語り」の出発点だった気もします。

米軍が空から撒いたビラでポツダム宣言を知った村山元総理大臣

今週は、元内閣総理大臣の村山富市さんです。村山さんは神風特攻隊の基地があった大分県で11人兄弟の6男として生まれ、義務教育を終えると上京し町工場で働きました。その後、勤め先を変え、夜間学校に通い始めます。そして明治大学への入学を果たしました。その村山さんが学徒動員の後、徴兵されたのは20歳の時。夜間学部生には本来は受験資格が無かった幹部候補試験に甲種合格し、1年間の軍隊生活を送ります。そして終戦間近のある日、空から降ってきた米軍の宣伝ビラを思わず拾うのでした。
村山さんは当時、料亭で軍刀を持って柱に斬りつける特攻隊員らの姿を目にします。明日をも知れぬ中で、追い込まれていく彼らの姿を見た事で戦争というものがいかに人の心を変えていくものかという事を痛感。そしてその事が、戦後、平和運動、労働運動に足を踏み入れるきっかけになっていったと語ってくれました。周囲に押されるままに市議会議員、県議会議員、国会議員と上り詰めていった村山さん自身が「なぜこのようなことになったのか」信じられない思いで就任した総理大臣。
木曜配信のPodcastでは、村山さんが総理になるまでの数奇とも言える人生も語ってくれています。

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眉毛は現役時代以上に長かったです。「安保法制を止めるために命がけで戦うぞ」と豪快に笑った村山さん。御年91歳。益々意気軒昂です。


(番外編)
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大分駅に到着したアーサーさん、後ろはキリシタン大名の大友宗麟。ここまではまだ良かったのですが...

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オーマイガー。悪のりでやらかしてしまいました。ザビエルとアーサーさん(汗)ビナード家もカトリックらしいので赦してあげて下さい。




今回のポッドキャストは前編と後編でお送りいたします。
前編はこちらから
後編はこちらから

アーサーのインタビュー日記

村山さんは陸軍の軍曹だった1945年の7月の終わり、アメリカの飛行機が上空から撒いたビラに印刷されたポツダム宣言を読みました。そして当時自分の置かれている状況と国家の状況をつなげて「近々降伏するのだな」と気が付いたそうです。そういう体験を持った村山さんが半世紀後に総理大臣になり、戦後50年談話を発表した事に歴史の不思議さを感じます。
今、70年の節目に談話を出そうとしている安倍総理は、当然戦争経験はありません。そして国会のやり取りの中で「ポツダム宣言をつまびらかに読んでいない」と発言し世間を驚かせました。
実感があるか無いか、体験があるか無いかという違いが、歴史との関わり方や向き合い方に大きな相違点を生むものです。
ちなみに村山さんの話にはところどころで「しょうがない」という言葉が出てきました。「しょうがない」と聞くと大抵「あきらめる」とか「現状を認める」など、多くの場合は、消極的であきらめを含んだ「しょうがない」です。しかし村山さんは「しょうがないからやるか」「しょうがないから頑張ろう」「しょうがないから引き受けてみるよ」と一貫して前向きで積極的な意味が入っているのです。一見、消極的にみえて実はとても積極的。そんな村山さんの生き方が、「戦後50年談話」にも表れているような気がしました。
村山内閣の頃は、「積極的平和主義」という言葉は無かったでしょう。しかしまさにそういう言葉が当てはまるような50年談話です。僕はこう思います。歴史と向き合うことに消極的ならば、本当の意味での「積極的平和主義」にはなれないのではないか?今の総理をみていて、そんな「消極性」と「積極性」の違いを考えさせられました。

元ひめゆり学徒隊として沖縄戦の悲惨な体験を語り続けるひめゆり平和祈念資料館館長の島袋淑子さん

今週は、ひめゆり学徒隊の一員として九死に一生を得て、今はひめゆり祈念館の館長を務める島袋淑子さんにお話を伺いました。

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ひめゆり祈念館の中の一室でお話を伺いました。中学生、高校生達を中心にとてもにぎわっていました

先週の大田元沖縄県知事に続いて、今週も民間人を巻き込んだ壮絶な地上戦が行われた沖縄戦の話を伺いました。
アメリカ軍の上陸作戦が開始された3月には、県内の中等学校と女学校から、少年少女が学徒隊として戦場に動員されました。沖縄戦では、22の学徒隊を編成。有名なひめゆり学徒隊は、負傷した兵士の看護活動を主な任務に、沖縄師範学校女子部と、沖縄県立高等第一女学校の教員、生徒で編成された学徒隊でした。彼女達への招集は深夜、突然のことだったそうです。


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中庭でも一枚

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アーサーさんの後ろの塹壕は、ひめゆり平和祈念資料館の敷地内にある沖縄陸軍病院第三外科の壕跡です。
道を挟んだ向かいのお土産屋さんで、思わずTシャツを買って帰ったアーサーさんです。


アーサーのインタビュー日記

島袋さんの体験談の中には、同級生や上級生や日本兵や米兵ら多くの人達の「台詞」が織り込まれています。それは何故なんだろうと思いながら、どんどん島袋さんの語りに引き込まれていきました。そして島袋さんとの会話の中で、ひとつ手がかりを得た気がしました。島袋さんは平和祈念館を作るときに、亡くなった友人達の遺族に会うのがとても怖かったそうです。「私だけが生きていもて良いのですか」と尋ねた島袋さんに、遺族達は「あんたが生きていてくれたから、うちの子供がどうして亡くなったのかがわかったんだよ。あんたが生きていてくれたおかげだよ」と逆に元気づけられ、生きてて良いのだと実感したそうです。これを原点に、島袋さんは亡くなっていった仲間の言葉を背負って、逃げる途中殺された日本兵の言葉も背負って、語れなかった人達の分の言葉まで語ることで、今まで生きて来たのではないでしょうか。彼らの記録を残すことをライフワークとして、同時に彼らの人生も背負ったのではないでしょうか。
中でも捕虜となった島袋さん達に戦争の終わりを告げた米軍の通訳の言葉は、島袋さんの語りの大事な筋になっていると感じました。「戦争に勝った負けたは関係ない。私は人を殺さずに済んだ。皆さんも家族の元に帰れます」と語った日系2世のイトウさんの言葉が印象的でした。島袋さんの語りは勝ち負けという低い次元を超えて、生き続けることで亡くなった方の人生も背負って歩んでいく、そういう物語だったと思います。

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