戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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折鶴を被爆地に届け、体験を子供たちに語り継ぐ森政忠雄さん

今週は、広島に落とされた原子爆弾により、11才の時に被爆した
「川崎市折鶴の会」の会長、森政忠雄(もりまさ ただお)さんの話です。


「ピカドン」はどの場所で見たかによってその証言も変わってきます。
森政さんは、現在は西区にあたる広島市郊外(爆心地から3.7キロ)の古田小学校にいました。
午前8時15分はまだ授業が始まる前の時間。森政さんは渡り廊下で窓の外を眺めながら、買ってもらったばかりの戦闘帽を自慢していました。その時、激しい光の柱が窓枠の上から下までを貫きました。4キロ近く離れているのに校庭に爆弾が落ちたと思ったほどの衝撃。反射的に校庭に掘られた防空壕を目指して駆け出した森政さんですが、その直後に衝撃波でガラスが割れ、頭に傷を負います。
傷の手当を受けて自宅に帰った森政さんの自宅から目と鼻の先には病院がありました。その病院を目指して大勢の変わり果てた姿の人々が広島中心部方向から歩いてきました。

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爆心地近くで被曝し大けがを負った「兄(あに)さん」とは長らく原爆の話をしたことはなかったそうです。
戦後63年目、原爆の日にあわせて広島の小学生たちにあの日の出来事を伝えるために帰省した森政さんは、そのの前日病床の兄を見舞いました。お兄さんはそんな森政さんに「明日は小学校で話をするのか。忠雄、お前はええことしとるのぉ」と言ってポツリポツリとあの日の出来事を話してくれたそうです。
その森政さんが被爆体験を語り始めたのは、おじいちゃんの話をもっと聞きたいと願うお孫さんの作文がきっかけだったそうです。森政さんの原爆体験は、助け合った親や兄弟、自身の体験を語り継いでくれる孫。そして森政さんの話を熱心に聞いてくれる生徒達。それは人と人のふれあいの物語でもあります。

森政さんが会長を務める川崎市折鶴の会は今年で創立50年となりました。
今年も8千羽の折鶴を広島と長崎に送りました。その作業日にもちょこっとお邪魔しました!

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先月ご登場頂いた長崎原爆で被爆した松原淳さんも、川崎市折鶴の会のメンバーです。
ということでスリーショット!
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アーサーのインタビュー日記

70年前の広島の8月6日、人の命の価値はどうだったのでしょうか。当時の日米両政府は命をほとんど価値の無いものと扱っていたと言えると思います。しかし森政さんの話を聞くことで、命の価値はまったく違う価値観に基づいていたということも具体的にわかりました。お兄さんの話はすべて命が中心になっています。「あの時赤ん坊を救っていたら連れて帰っていたら、あの子の命は続いていたかも知れない」心に深く心に刻まれて消える事も癒える事も無かった体験は全て「命がかけがえのないものであること」を示しています。森政さんが自分の体験を語り継いでいる土台もまさに「命の重さ」にあるのだと思います。

福島菊次郎さんが旅立ちました 

4月25日放送の「探しています」でご紹介した報道写真家の福島菊次郎さんが、今月24日脳梗塞のため山口県柳井市の病院でお亡くなりになりました。94歳でした。
「ピカドン」などの写真集で知られ、戦争を憎み権力を憎み差別に徹底的に反対しカメラ片手に追い続けた福島さん。今の日本の政治や社会に深い憂いや怒りを持ちつつも、なぜかそこに諦念の思いはなく命の大事さにこだわり続けた服しまさん。時にアーサーさんに挑発的な言葉を投げかけながらも温かく通じ合った対談でした。明るさとジョークにあふれた方でもありました。

インタビューしたのは、忘れもしない今年の1月1日の夜。収録順では、この番組で最初にお話を伺ったのが福島さんでしたが、いきなり頭をガツンとぶたれたような気分でした。「終戦70年の特別企画番組です」とお伝えしたら、「終戦という言葉の欺瞞から日本の戦後は始まった。できるなら敗戦特番にしてみなさい」とのいきなり叱咤激励の言葉。
ずいぶん考えました。「終戦という言葉もまた永遠に戦をしないという意味のある言葉ではないのか?」「70年前の終戦と、今の終戦の意味は違うのか?」など。「権力者の誤魔化しとは?」「その権力者とは誰をさすのか?」など長い自問自答の後、結局「戦後70年」というちょっと無難な言葉に落ち着いたのでした(汗) でもそれは良かったと思っています。
あの日の福島さんの一言一言に、「これは腰を据えてかかられねばならない番組だな」とアーサーさんも思ったことでしょう。忘れられない元日以来、アーサーさんも睡眠時間を削って、日本全国をマイク片手に駆け回る毎日が続いております。福島さんはインタビューの終わりにこんな風にも言ってくれました。「今の話は、あなたが遠慮なく好きなように編集しなさい」
あの日の3時間に渡るインタビューを「明日は明日とてわからない身ですから、語りますよ」と熱く話続けてくれた福島さんの遺言として伝えなければなりません。

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ちなみに葬儀・告別式は一切行わないということ。福島さんらしい旅立ちですね。
ご冥福をお祈りします。

帰国者たちの第2の人生を開いた駆逐艦「雪風」と西崎さんの戦後

今週は、最後まで沈まなかった主力駆逐艦、「雪風」の元乗組員、西崎信夫さんのお話の後篇です。「生きて帰ってきなさい」と語った母との約束を守り激戦を生き延びた西崎さんですが、最後に京都の宮津湾で再び30機のB29による集中攻撃を受けます。
右往左往と逃げまどいながらもやはり撃沈を免れた雪風を、多くの人たちが山の上から「がんばれ」と声をかけ見守っていたと言います。そしてついに迎えた終戦。最初は戦争に負けたことすら信じられなかった西崎さん、ふと考えたのは「これからどういやって生活していこう」ということでした。奇跡の不沈艦「雪風」は戦後、海外からの引揚者を輸送する「引揚船」として第2の人生を歩み始めます。そして西崎さんもまた「雪風」の甲板長として、1万3600人を内地に連れ帰り、彼らの第2の人生の道筋を作りました。

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西崎信夫さんは、15才で特別少年兵として海軍に入隊し雪風に、1943年11月から乗船。
戦後、引揚船としての使命が終わる1947年7月まで、運命を共にしました。
15歳の時、駅で600人に見送られながら特別少年兵として故郷を後にした
西崎さん。しかし戦後は、時代の様変わりに愕然としたそうです。

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収録は池袋駅前のレンタル会議室で行いましたが、何と時間切れで立ち退きのはめに。しかしここはあきらめず喫茶店に場所を移して話は続きました。この番組としては、初めて途中で収録場所が変更になる緊急事態が発生。後ろに聴こえるノイズも途中で急に変わっております。ご容赦下さい(汗)

アーサーのインタビュー日記

西崎さんは「雪風」の記録を全部焼いたという話をしてくれました。それは上からの「機密文書を焼け」という命令でした。自分の過去を消すこと。自分と自分の仲間たちが成し遂げた事を忘却のかなたに片づけることは本当に悔しかったと思います
もしその記録がいま残っていたら70年後の僕らが沢山のことを学べたのにそれらはすべて焼却されました。
焼却されることの背景には何があるかと考えると僕は「本土決戦」という言葉の矛盾に表れていると思います。
「本土決戦」「一億総玉砕」のプロパガンダを降らせながら権力の中枢にいた人たちは皆、自分たちの出口戦略を考えて、
都合の悪いものは全部消して次の就職を考えていたのではないでしょうか。全く決戦する気が無くて、次の豊かに生きていくための道を考えていた事がその煙に現れていたと思います。
最前線で戦った西崎さんは、悔しさや矛盾、戦争の馬鹿馬鹿しさを噛みしめながらも、戦後は雪風とともに、沢山の人を日本に連れて帰り、沢山の人の戦後の始まりを作りました。それこそが本当の武器の平和利用だったと言えると思います。

奇跡の駆逐艦「雪風」の元乗組員、    西崎信夫さん

今週と来週の2週に渡って、「雪風」とともに戦中、戦後を歩んだ西崎信夫さんのお話をお送りします。

「奇跡の駆逐艦」 戦後そう呼ばれた「雪風」は、太平洋戦争開戦時から常に最前線で戦い続けながら主力駆逐艦としては唯一、沈むことなく生き残った船です。レイテ沖海戦で沈んだ戦艦「武蔵」も沖縄水上特攻で沈んだ戦艦「大和」も幻の空母「信濃」も最後を見届けたのはいつも「雪風」でした。

三重県の伊勢志摩に生まれた西崎さんは、海軍エリートの卵として600人の村の人たちに見送られて駅から旅立ちます。
動き始めた汽車と並走するようにホームを走り追いかけてきた親友は西崎さんに向かって「信ちゃん、死ぬなよ」と叫びました。
出発の日の朝「生きて帰ることが立派な軍人さんの務めだ」と諭してくれた母親。甲板で「次は靖国で会おう」とつぶやいた同郷の仲間。目の前で息絶えて行った気立ての良い上官。 最前線で戦う西崎さんに向かってくる敵機の操縦桿を握る自分と同年代の米軍兵士。西崎さんの戦時中の出来事はいつも「命」と向き合う物語です

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終戦まで生き残った駆逐艦「雪風」は、戦後海外からの引揚者を輸送する「引揚船」として生まれ変わります。
来週は西崎信夫さんと雪風の終戦、そして戦後の旅路です。


アーサーのインタビュー日記

西崎さんは海軍特別少年兵の第一期生でした。第四期生まで総勢約1万8千人が養成されましたが、戦局要員として次々前線で倒れ約3千2百人が戦死したと言われています。戦艦大和にも多くの特別年少兵が乗っていました。西崎さんは15歳で軍人になり、軍の訓練と教育を受けました。大日本帝国軍の決まりごとは「決して捕虜になってはいけない」「国のために死ぬこと」が前提だったはずですが西崎さんの話を聞くと、国のために死ぬと考えていなかったようです。お国のために働く、戦う、できることはなんでもすることを軍人の基本姿勢としながらも、死ぬことが自分の使命であるとは全く考えていなかったのです。
常に考えていたのは、自分がどうすれば良いかを考えて危機的状況の中で戦い、そして生き延びることでした。権力者がいくら「国のために死ぬことが立派なことである」という話を作り上げても現場で死ぬことが尊いとはとても思えません。
最前線で戦った西崎さんの話を聞けば、それが伝わってきます。すぐれた軍人としての支えた背骨は何なのか、活躍の原動力は何だったのかということを考えた上で、国ために死ぬとはどういうことなのかということをつなげてみると権力者が作り上げた薄っぺらい作り話は壊れます。
お国のために死ぬことは日本のためにならないのです。国のためにがんばろうと思ったら一番大事なことは生き延びること、
無意味な破壊はしないことなのです。それを西崎さんの話から改めて教えられました。

極寒のシベリア生活を馬の手綱捌きと明るさで乗り越えた民謡歌手の舘松栄喜さん


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今週は、戦後にも関わらず、推計5万5000人が亡くなり「極寒の地獄」と呼ばれた「シベリア抑留」からの生還者。民謡歌手の舘松栄喜(たてまつ・えいき)さんにお話を聞くため八戸駅からタクシー乗り場へ。


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1945年8月9日未明、突如始まったソ連による満州侵攻。そして迎えた、8月15日の敗戦。満州には、開拓団の住民、投降した日本軍兵士ら、大勢の日本人が取り残されました。ドイツの降伏以後は日に日に増えていくソ連兵たち。これに対して日本軍は鉄砲もままならない状況でした。舘松さんたちは、車内が真っ暗な貨物列車に乗せられ、シベリアの大地を行軍させられて収容所に到着します。自分たちで藁を積み作った簡易ベッドで始まった抑留生活。シラミと南京虫に悩まされる毎日でしたが、子供の頃から馬の扱いに長けていた舘松さんはその馬さばきでソ連の兵士たちを驚かせます。そのうちソ連の将校と将棋を指すようになり、ボルガを教えてもらうことに。民謡で鍛えた喉でボルガも聴かせてくれました。


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舘松さんは、「マレーの虎」山下奉文陸軍大将に仕えていた時期があります。後ろの掛け軸は山下大将から贈られた書。山下大将、普段はとても穏やかな人物だったそうです。山下夫人にも優しく接して頂いて、戦後未亡人となってからも賀状のやり取りなど交流を続けていたというエピソードも披露してくれました。放送ではご紹介できなかった山下大将との横顔はPodcastでお聴きください。南部民謡の復興に尽力し「南部俵積み唄」を誕生させた御大ですが、笑顔通りの謙虚なお人柄。「偉い人ほど偉ぶらない」を地でいく舘松さん。90歳を過ぎて元気いっぱい。地肩が強そうなタイプです。


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収録が終わった瞬間運ばれてきたのは瓶ビールとグラス!ついついお言葉に甘えてしまいました。


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そしてお尻に根が生えてしまいました。気がつくといつしか南部地方の日も暮れなずんでいったのでした。

アーサーのインタビュー日記

舘松さんの歌のレパートリーには、「馬」にまつわるものが多くあります。ご本人も小さい頃から、馬たちとともに生活をし、巧みに馬を使いこなし、その才能が舘松さんの命をつなぐことに大きく貢献しました。
舘松さんは、まるで馬と同じ立ち位置でソ連という国家に使われ強制労働を課せられ、過酷な状況の中で苦しみながら働いていたはずでその経験の辛さは70年経っても決して軽くなるものでありません。しかし舘松さんの話を聞いているとロシア人に対する憎しみは全く感じられず、ロシアの歌を本当に楽しく歌ってくれました。
それは捕虜として自分がやった仕事に誇りがあるのだと思います。木材を切り出して馬とともに引っ張る仕事は強制的なものだったはずですが、それを自分が能動的にやる仕事に変えていったのです。
舘松さんの生きる知恵の根本にあるのは、運命が自分に押し付けたものであってもそれを引き受けた瞬間から自分が積極的に関わるということだったのではないでしょうか。ソ連軍の兵隊たちとの関係も平等ではないにも関わらず、決して自分が下に立っていない、その基本姿勢が舘松さんの民謡にも表れていると思いました。
舘松さんの声をラジオ番組や生で聴くたびに「本当に力強いな」と思っていましたが、今回の取材でその理由が少し汲み取れた気がします。

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