戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
tweet

GHQの職員を勤めた篠原英子さん

今週は戦後の日本を統治したGHQ・連合国軍最高司令官総司令部に勤めた経験を持つ篠原栄子さんにお話を伺いました。東京・八王子の旧家に生まれた篠原さんは11才の時に敗戦を迎えますが、実家は戦後GHQの指揮の下行われた農地改革で所有していた広大な畑も山も全て没収されてしまいました。その後、成長した篠原さんは英語を学びたいと東京外大を受験するものの失敗。浪人生活の傍ら通学したYWCAの学生生活にいつしか心惹かれ、秘書コースでの授業に没頭。ビジネスガールの道を目指す方向に転向します。そんな時に、親族が教えてくれた「知り合いのGHQの人が事務職ができる日本人を募集しているよ」との一言。この言葉が篠原さんの人生を変えました。「ダメでもともと」の気持ちで東京・日比谷の第一生命館に向かった篠原さんでしたが見事合格。晴れて篠原さんはGHQの職員になりました。

篠原さんとアーサー2.JPG
バルコニーにカフェテリア、そして語らうアメリカ人の男女たち...建物に一歩はいるとそこはまさに映画の中のワンシーンのような光景でした。一方で机に脚を載せてリンゴにかぶりつく無作法な上官の姿には茫然。まさにカルチャーショックでした。

英語辞典の表紙.JPG
これが篠原さんが学生時代愛用した秘蔵の「ポケット日米会話」。この小冊子を丸暗記し戦後の日本人は英語を習得していったのです。
日米英語の中身.JPG
表紙はこんな感じ...


話を戻します。GHQの人たちは夕方の5時になると同時に一斉に帰宅。油断していると篠原さん一人が館内に残されることもあったそうです。

今のGHQ.JPG
今の建物は1995年に別のビルと合体させて再建したものですが、外観は往時のまま再現されました。美しい建物です。
GHQ今の正面.JPG
こんなプレートもありますよ


当時のGHQは総司令官がマッカーサーからリッジウェイに交代し、日本の主権回復までカウントダウンの時期でした。海の向こうでは朝鮮戦争の真最中、日本はいわゆる朝鮮戦争特需によって経済が復興に向かいつつありました。篠原さんが配属されたのはGHQの人事部。先輩のミセス・リトルらの指示の下、アメリカ本土から届く夫や息子の様子を案じる手紙の山に目を通し上司に言われた通りタイプライターに向かい彼らに返事を書く日々が続きます。手紙には息子や夫が戻らぬ家族たちの心配な思いが綴られていましたが、わら半紙のような安物の紙の切れ端に書き殴られた文章に篠原さんは「日本では手紙は筆で書いてきちんと封書で送るものでは」とショックを受けたそうです。ちなみにGHQが立つ日比谷では人々は皆立派なコートを着て颯爽と歩いていましたがJR(当時の国電)を挟んで向かい側の銀座界隈はヨレヨレのコートを羽織った人たちが多く行き交い、戦後数年を経てもなお貧しさを引きずっていたそうです。通勤電車もまだ客車が整わず貨物車両を利用。タクシーもなく夜に八王子の駅から人力車で帰宅したこともあったそうです! 敗戦後の日本、GHQというアメリカ、そして海の向こうの朝鮮...3つの世界が篠原さんの記憶の中で鮮やかにブレンドしています。


篠原さんとアーサー1.jpg
今は縁あって大阪の岸和田在住。語学力を生かして、外国人観光客のボランティア通訳務めるなどますます元気で活躍中の篠原さんです。


アーサーのインタビュー日記

篠原さんがGHQに就職したのは、1952年の春です。おそらく一番「戦後」という言葉がぴったりする時代で、日本の復興も軌道に乗り経済が本格的に成長を始めた時代です。戦争ではない方向に日本が向かっている時代だったはずで、篠原さんもおそらくそんな時代の空気を感じながら仕事をしていたと思います。就職した組織はアメリカのGHQ、第一生命館という実にすばらしいビルでした。仕事はすべて英語。日本の主権回復で在日米軍と名前を変えても篠原さんの仕事は続きました。その仕事の中身はとても興味深いものでした。篠原さんの仕事は朝鮮半島に送られた米兵たちの妻から届く心配のこめられた手紙を事務処理して対応することだったのです。朝鮮戦争の人事の対応を日本の首都のまん真ん中で行うといういわば戦争に関わる仕事でした。その朝鮮戦争を原動力に日本の経済が成長しました。日本の決定権を握っていたのもGHQであり在日米軍です。日本の表面だけをみるとあの時代は「戦後」という言葉がぴったりあたはまるのですが、GHQの中で篠原さんがどういう仕事を英語で行っていたかという事を考えると「戦後じゃない」と思います。戦時中で、次の戦争に完全に移行していて、そして日本の心臓部でその戦争がいろんな意味で作られている。「もはや戦後ではない」という言葉が流行するのはもう少し後の事ですが、「戦後」ではなく「戦争の継続」。すでに次の戦争に入っている時代だったということが見えてくる気がします。

NHKの新人アナだった近藤富枝さんが間近で見つめた玉音放送

戦時中、日本に存在した唯一の放送局がNHKでした。ラジオはおよそ530万台普及していたとされ、政府は情報統制を目的に一日中、ラジオをつけておくよう指示。大本営発表の戦況ニュースも空襲警報も玉音放送も... 伝えたのは全てラジオでした。そんなNHKに、演劇少女だった近藤さんが1944年10月、アナウンサーとして入局。 チャキチャキの江戸っ子で少しそそっかしい愛すべき近藤さんの姿は、彼女をモデルにした1981年放送の連続テレビ小説「本日も晴天なり(主演は原日出子さん)」の中でも鮮やかに描かれています。同期入局者は、近藤さんを含めて東京組が13名。地方局採用組が19名でしたが、この内、男性はたった2人。女性アナウンサー大量採用の理由は、多くの男性たちが戦地に出征していたためでした。

国内のニュースは全て男性が担当していましたが、雑音交じりで流れる海外向けの短波放送は女性の声の方が良く透るという事で、近藤さん達新人女性アナは泊まり勤務などをこなしながら短波放送でニュースを読み続けます。自身が読む「被害僅少なり」を繰り返すニュースの中身には違和感を禁じえませんでしたが、近藤さん達は高い職業意識で格調高いアナウンスメントを目指すことに集中したそうです。隣のブースには徳川夢声、スタジオの外には詩人の久保田万太郎....あの時代の空気が活き活きと蘇る近藤さんの語り。

迎えた玉音放送の日。全員集合の召集がかかった昼前にNHKに到着した近藤さんに同僚アナウンサー達は、「日本のいちばん長い日」でも描かれた降伏を阻止しようとする青年将校らによって銃剣を突き付けられスタジオ入りを阻まれるなどしていました。
そして玉音放送。天皇陛下の声はすでに録音済みでしたが、前後を固める和田信賢アナウンサーの喋りは当然生放送(何という緊張感)。いつも青ざめたような顔をさらに青くして放送ブースに向かう和田さんの姿を近藤さんもまた緊張の面持ちで見つめるのでした。

近藤富枝.jpg

近藤さんの姪の作家森まゆみさんとアーサーさんが旧知の仲など偶然の縁もありました。戦後は作家として主に日本文化をテーマに作品を紡ぎ続けてきた近藤さん。高度な技巧を尽くした実に優美な紙技巧の王朝継ぎ紙研究会も主宰しています。取材後、王朝継ぎ紙の事でも熱い談義となりました。

アーサーのインタビュー日記

1945年8月15日午後12時。玉音放送がNHKによって流れた時に近藤さんは新人アナウンサーとしてNHKの現場にいらした方です。それを聞いただけでも胸はワクワク。その日の放送現場はどうなっていたのか耳を澄ましてお話を伺いました。
近藤さんの話を聞いて思ったのは、上下関係や事務仕事などにおいて組織としてのNHKは意外と一般社会と変わらないなということでした。とは言え、近藤さんには情報が人より早く入ったでしょうし、世の中を見渡す景色が一般社会と少し違うということはあったと思います。情報は入っても戦時中のニュースに「表現の自由」があるはずはなく、自分が読むニュースの原稿と実際の現実がずれていることを本人もよくご存知でした。しかしそういった状況の中でも近藤さんはNHKのアナウンサーとして美しくわかりやすく伝えること、豊かな声で皆に情報を手渡すことを学んでその技術を高めようと仕事に臨んでいました。戦争は敗戦という形で終わったわけですが、それからしばらく経った頃、近藤さんら同僚たちは生ビールを飲む会を催しました。そして、そこに集まった皆は「表現の自由に乾杯!」と快哉の声をあげたそうです。敗戦まではあり得なかった「表現の自由」という乾杯の発声のエピソードを聞いて、今僕らが使っている「表現の自由」とは少し違う驚きや輝きを感じました。すり減ってしまい、使うことに慣れっこになっている「表現の自由」とは全然違う新鮮さを。
でも近藤さんの話をもう一度耳を澄ませて聴くともうひとつの思いが浮かんできます。今から70年前のアナウンサー達が、表現の自由が無い中でどういう風に表現しようかと日々腐心していたのかを考えると、表現の自由がなかった時代と、表現の自由が憲法で保障されている現在では本当は大きな本質的な違いが生じるはずです。しかしその違いがあるのかないのか?今を生きる我々は「表現の自由」を本当に使っているのかと言う事を近藤さんから美しく、優しく突きつけられた気がしました。

自動車部隊の運転席に座った持丸真喜男さんの思い出

今週も八丈島の語り部です。


八丈島の道.JPGのサムネール画像
南国らしい暖かさを感じる八丈島の小道です


東京都心からおよそ300キロ。伊豆七島の最も南にある島、八丈島。戦争末期、本土決戦に備えて要塞化が進められたこの島には、兵士や建設労働者が集められ、島民は本土への疎開を余儀なくされました。当時、小学生だった持丸真喜男さんのお宅はとても広かったため、中国戦線から帰還した自動車部隊の兵士たちの宿舎となりました。持丸さん一家は彼ら兵士達と同居生活を送りましたがそれはわんぱく盛りの持丸少年にとって楽しい記憶として残っています。自動車部隊は正式には輜重兵(しちょうへい)と呼ばれ、後方支援の輸送業務や食料、燃料の運搬業務を担当していました。兵士たちには持丸家の食事が振舞われ、兵士たちは持丸少年を自動車に乗せてあげることもありました。


アーサーと持丸さん.JPGのサムネール画像


戦中、戦後と港に放置された船に潜りこんだり、戦後も人間魚雷の操縦席に乗り込んでみたりとわんぱくなガキ大将であったであろう持丸さん。ボサボサの髪のまま軽井沢に疎開した際、八丈島のやんちゃ坊主達は地元の子供たちから「南洋猿」とからかわれ悔しい思いをしたそうです。自動車部隊を羨望のまなざしで見つめながら、一方で持丸さんは空港建設に従事させられる日本人労働者や港湾で過酷な建設作業に従事させられた朝鮮半島の出身者らの姿を見つめていました。彼らに対して深い同情の気持ちに包まれていたわんぱく少年でもありました。


魚雷の説明.JPGのサムネール画像
低土港から10分足らず。八丈島三根地区の海岸そばに大きな穴が開いている。ここに持丸さんが乗り込んでみた人間魚雷「回天」が設置されていました。「回天」基地の跡です。


魚雷の穴.JPG
中は夏と思えないほどひんやりしていました。

魚雷穴の鉄片.JPG
穴の中には戦後、「回天」を破壊した際の鉄の破片が今も突き刺さっています。まさに戦争遺構ですね。


後ろが魚雷の発射場.JPGのサムネール画像
穴から出た「回天」はアーサーさんの背後の場所から海で滑り出す事になっていました。アメリカ軍は八丈島をスルーしたために
出番は無かったわけです


持丸さんと亀.JPG
持丸家の愛亀。帰る際には奥様とともに亀も見送ってくれました。乗り遅れると大変だと八丈島空港に向かいましたが、出発は一時間遅れ。一路、八丈島を後にしたのです。


今回は八丈島の皆さんのお招きで講演会のための来訪。番組は便乗させて頂きました。
皆さん、本当にありがとうございました。

アーサーのインタビュー日記

70年前、持丸さんの家には自動車部隊の兵士たちが宿泊していました。当時の自動車はクランクで回して操作する全てマニュアルの車。機械も運転もすべて特殊な技術を要するものだったので少年だった持丸さんたちが、そんな特殊な技術を駆使する自動車部隊の兵士たちを羨望のまなざしでみつめ憧れの心で触れ合っていた心境はとてもよくわかります。兵士たちもまたかわいい少年たちと遊ぶことでほっとする時間もあり楽しい交流の物語があったのだと思います。実は僕もアメリカに生まれ育ち、子供の頃は自動車や戦車、飛行機など軍の車両にすごく興味がありました。いわゆる飛び道具を見に行くチャンスもあり、航空ショーにも行きヘリコプターの迫力にびっくりしたものです。パイロットや米軍の兵士と触れ合うチャンスもあって「面白かったなあ」と今思い出してもわくわくする部分があります。そして多くの友人、知人が米軍に入っていきました。彼らのことを思う時、やはりそういう子どものころの原体験があって、ひとつの軍隊に入る要因になったのだと思います。
今年も三沢基地で米軍が地域住民を招いてオスプレイもみせる機会もあり大人気だったそうです。自衛隊もいろんなところで定期的に交流していてそういう体験を通じて子供たちは軍隊に興味を持つわけですね。興味を持つことは当然だと思うし米軍も自衛隊も一般の人たちが入手できないような魅力あふれる迫力満点の機械をもっているのもまた事実です。
でも一方で軍隊とは何か、そういった飛び道具が航空ショーやデモンストレーションではなく実際に戦地で使われるとどういう事になるかという想像力を持つことも大事だなと持丸さんの話を聞きながら改めて思いましたそれら技術や機械の魅力の裏側に何があるのか?全体の組織が何をしようとしているのか?両方を冷静に見つめたうえで自分の子どもに何を伝えていくのか?
持丸さんの70年前の体験からいろいろな課題もみえてきた気がします。

八丈島から軽井沢へ。沖山操さんが体験した集団疎開

東京都心からおよそ300キロ。伊豆七島の最も南にある島、八丈島。日本本土と小笠原の硫黄島を結ぶルート上にあり、戦争末期は前線基地として要塞化が進められました。八丈島の海岸には人間魚雷「回天」を収容した豪が今もその面影を残し、中継基地として使われた飛行場からは、硫黄島に向かう航空隊が出撃していきました。
当時、小学生だった沖山さんたち子ども数人はある日、見晴旅館という旅館に呼ばれ兵隊たちの前で歌い踊るように言われます。座敷には多くの兵隊さんたちが白い杯を持って座り真ん中には長い刀を下げた上官の姿がありました。歌い終わると金平糖や乾パンをもらった沖山さん。嬉しさのあまり飛び跳ねて階段を駆け下りると、そこには敬礼をしながら涙を流す兵隊が直立していました。沖山さんたちが歌い踊った宴は、出撃していく隊員たちの最後の杯だったのです。でも幼かった沖山さんにとっては、なぜ男の人が泣いているのかわかりませんでした。

沖山操さん1.jpg
伺ったのは村の集会所。

沖山さんを含む八丈島の多くの人たちが疎開したのは長野県の軽井沢でした。山に囲まれた軽井沢の青空教室で、棒を使って校庭の土で算数の勉強をしたことも懐かしい思い出です。69歳の時に、もう一度寝泊りした思い出の旅館を尋ねてみた沖山さんでしたが、今はゴルフ場となっていたそうです。

戦争が終わり、島に戻った沖山さん。港に残されたのは捨ておかれた数多くの魚雷でした。当時は鉄はとても高く売れたそうで、
沖山さんのお兄さんのマツオさんも魚雷回収に精を出したやんちゃ盛りでした。そしてついたあだ名は「魚雷の松」だったそうです!!


沖山操さん2.JPG
笑顔の似合う小柄な沖山さん、穏やかさが八丈島の景色そのものですね。それにしてもアーサーさんとの身長差がすごい。

TOPへ戻る