戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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硫黄島からの生還者、秋草鶴次さん。島での負傷と救出、そして捕虜としてアメリカに渡ったその後。

今週も、硫黄島の戦いからの生還者、秋草鶴次さんの話をお届けしました。
秋草さん語る2.JPG

1945年、2月から3月にかけて行われた硫黄島の激戦。17歳で海軍の通信隊員として赴任した秋草さんは、アメリカ軍の砲撃を浴び右手と左足に重傷を負いましたが、通信課の同僚に救出され九死に一生を得ました。2万1千人余りの日本兵のうち生き残った者はわずか1023人。このことを日本では「玉砕」と表現します。しかし、秋草さんは戦友やたちの死がまとめて玉砕と表現される事に強い違和感を覚えています。沖縄を決戦の地と定めた大本営によって、その多くが職業軍人ですらなかった日本兵たちが集められた硫黄島では武器も届かないまま激しい戦闘を強いられます。それをまとめて「玉砕」と表現するのはあまりにも不公平だと秋草さんは語ります。墓場であり、聖地であると。そんな場所に物見遊山で行く人間もいることへの違和感を、秋草さんは静かに怒気をはらんだ声で絞り出してくれました。


食糧が尽きた壕の中で意識が薄れていった秋草さんを発見したのは2匹の犬。気が付くと米軍が保護する形で捕虜となっていました。グアム、ハワイを経由して送られた先は、アメリカ本土、バージニアの捕虜収容所。太平洋戦争が激しさを増す中、アメリカ本土で捕虜生活を送ることとなった秋草さんは厨房のボーイ係を命じられ、同じく捕虜として収容されていたドイツ人、イタリア人の3人で捕虜たちの食事を担当する毎日を送ることになりました。

秋草んの英語練習帳.JPG
秋草さんが収容所の中で英語を学ぶために作った練習帳。美しい英字にアメリカ人のアーサーさんも驚き!

秋草さんの収容所生活話にはユーモラスなエピソードも数多く登場します。厨房から材料を持ち出して作った手製の将棋や花札。ドイツ人やイタリア人の厨房仲間とのエピソードや女性の所長、老米兵の見回り係の様子など...秋草さんが「楽しかった」と表現した捕虜収容所での生活ですが、一方で兵士達は皆明日を知れぬ身。心荒んで、まさに荒れ狂う日本兵たちによる仲間へのリンチなどの事件も頻繁に起きたそうです。同じ捕虜でも民家と隣接した施設に収容されておおらかに暮らしたドイツ兵やイタリア兵と、厳しく管理された日本兵の扱いの違いも話してくれました。初めて伺う話にアーサーさんも、また新たな知識の糧を得たようでした。

秋草さんの写真集.JPG
几帳面な秋草さんは戦場となる前の硫黄島の風景写真なども大切に保管してきました。一級の戦争資料とも言えます。この写真集を眺める事で、先週の放送でアーサーさんが語った「いかに美しい島が戦争によって破壊されたか」という島の目線で硫黄島の戦いを俯瞰する事もできます。

アーサーのインタビュー日記

「玉砕」という不思議な日本語があります。僕も来日した後、ずいぶん日本語を学んだ後知った言葉です。秋草さんはその「玉砕」の体験者です。ほとんどの体験者は、その時、戦場で命が終ったわけですが、秋草さんは負傷しながらも奇跡的に命がつながりました。だから「玉砕体験」を本当の意味で語れる方です。それだけではありません。秋草さんはアメリカの捕虜収容所時代の体験も沢山話してくれました。日本からグアム、ハワイを通り西海岸から内陸部へ送られた捕虜としての旅。秋草さん達捕虜の一行は、僕の祖父や祖母、その兄弟らが僕が生まれる前から暮らしていた所も通っていたことに驚きを覚えました。もしかしたら何処かの町で僕の祖父とすれ違っていたかもしれないし、祖母が見かけたかも知れません。それだけではなく秋草さんはアメリカの事を詳細に観察していました。捕虜収容所でドイツ人やイタリア人とともに厨房に立ちながら、英語の学習まで始めていました。そして、そんな生活の途中で第二次世界大戦が終わったのです。
そういう体験が「玉砕」という言葉の枠にどうしてもはまりません。いかに言葉が現実と噛みあわないか、いかにそういう言葉が嘘であるかという事を、秋草さんは実体験で示してくれました。その話を聞いて僕は、「戦後」という言葉も、もしかしたら同じように人工的に作られた枠なのではないかと感じ始めました。秋草さんがアメリカ本土で戦後を迎えたときにはアメリカ人と触れ合って視野が広がっていてイタリア人やドイツ人とも交流しながらアメリカの政府から給与までもらっていたのです。「戦後」というパッケージの中にはどれほどの多様性が潜んでいることか。秋草さんのような方が持っている体験の豊かさと逞しさが作り上げてきたのが、本当の日本の「戦後」だったのではないかと思います。

硫黄島の戦いからの生還者、秋草鶴次さん(前編)

今回は、栃木県の足利市にやってきたアーサーさん。硫黄島の壮絶な戦いの渦中にいた秋草鶴次さんにお話を伺いました。

秋草さん1.JPGのサムネール画像

東京都心から、南へおよそ1250キロ。日本本土とサイパン島のほぼ中間に位置する太平洋の小島、硫黄島。戦前は約1100人の日本人が暮らす穏やかな島でしたが、アメリカ軍にとって日本への大規模空襲を行うための、日本軍にとって本土上陸を防ぐための防波堤としての最重要拠点として激しい戦闘が繰り広げられることとなりました。女性や老人、子供たちは島を追われ、若年壮年の地元男性たちは軍属として戦闘に巻き込まれていきます。
クリント・イーストウッド監督の2部作でも描かれた1945年の2月から3月にかけて行われた硫黄島の戦いは、日本軍よりも米軍に多くの死傷者を出した戦いでもあった一方、2万1千人余りの日本兵のうち生き残った者はわずか1023人という悲惨な戦いにもなりました。そしてそのわずかな生存者の一人が、今回お話を伺った秋草さんです。

秋草鶴次さんは硫黄島に、前の年の7月、海軍の通信隊員として17歳で赴任。どこに向かうのかもわからないまま、連れて来られたその島にある、菊池さんというお宅の庭に設けられた北通信所が、秋草さんの最初の着任地でした。

秋草さんのモールス機.JPGのサムネール画像
当時の秋草さんの仕事道具です


その後、正月早々、配置替えを命じられ向かったのが玉名山の通信科。戦いの最前線にあるこの場所に来た事で、秋草さんは寿命が何ヶ月も縮まったことを覚悟したと言います。


「十七歳の硫黄島」「硫黄島を生き延びて」の著作でも知られる秋草さんのお話は、詳細で緻密で論理的です。通信員という硫黄島を地理的に俯瞰し把握していた職業とも関係しているのかも知れません。余談ですが、話の中で秋草さんは、クリント・イーストウッドの映画の中で擂鉢山が見えるシーンの誤った描写についても指摘していました。興味深いお話は近々更新するPodcastでご確認下さい。

秋草さんの黒い砂.JPGのサムネール画像
硫黄島の黒い砂。クリントイーストウッド監督の「硫黄島の戦い」では、北欧の火山島アイスランドの黒い砂のビーチで撮影が行われたそうです。この砂は本物の「硫黄島の黒い砂」です。

来週の後半では、右の手と左の足に重傷を負った秋草さんが、壕の中で隠れた苦しい生活の後、米軍の捕虜となりアメリカ本土に送られた際のエピソードなどを伺います。


アーサーのインタビュー日記

僕は日本語という言語に出会う前に、すでに硫黄島という日本語を知っていました。もちろんそれはローマ字で綴られた「IWOJIMA」です。アメリカで聞いた「IWOJIMA」、映画でも観た「IWOJIMA」は、それが硫黄島という島の名前である以前に、米軍が苦戦しながらも勝利した戦い、Mount Suribachiに星条旗が翻った戦い、そんな象徴的な意味が強く入っていたと思います。
そんなIWOJIMAという単語が、硫黄島(いおうとう)という「島」であることを意味していることを理解したのは実は来日してからです。秋草さんはその壮絶な戦場となった硫黄島で九死に一生を得た体験を語ってくれました。時間の関係で放送できなかった箇所では、戦が始まる前の美しい硫黄島の景色を写真を見せながら解説もしてくれました。秋草さんが硫黄島で暮らしている間、いかに植物や動物、美しい海や山、砂浜の黒い砂の様子まで細やかに観察したかということに僕は驚嘆しました。秋草さんには、美しい島がどのように戦場として変貌していったのか、あの戦争は硫黄島にとってどういうものだったのかという事を俯瞰する視点があります。そのような視点があることで、日本軍と米軍の戦い、どちらの勝ち負けかという次元を超えた、戦争が持つ「破壊の本質」も見えてくると思いました。そして戦争の爪痕、傷痕が硫黄島には今も生々しく残っている事こそが、あの戦争の本質だったと学ぶこともできました。

戻らない島、択捉で生まれた鳴海冨美子さん

やってきました、青森県の野辺地。暖冬でも雪深い。

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そしてこちらが、今回お会いした北方四島のひとつ択捉島で生まれた鳴海冨美子さん。

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皆さんは「択捉島」と聞くとどんな島をイメージしますか? 「もちろん知ってるよ、北方領土のひとつ。ロシアに奪われて今も返還交渉を続けている」それで?「えっと、国後島の上の方だったよね」そうそう「真珠湾攻撃の部隊はここから出発したんじゃなかったっけ」と答えたあなたはかなり詳しい。知っていそうで知らない、択捉島。今日アーサーさんが探し当てたのは、その択捉島で生まれ育った鳴海冨美子さんです。5歳で追われるように一家で島を離れた鳴海さんですが、川の豊潤な流れや遡上してくるカラフトマスの群れなどが雄大な自然とともに鮮烈な記憶として残っています。物心がつく前に敗戦を迎えた鳴海さんにとって、進駐してきた隣人のロシア兵たちは皆とても優しく、しかしとても貧しい人たちでした。獲れた魚を彼らに分け与える近所づきあいの日々でしたが、ある日、彼らの態度は一変。昨日まで仲の良かったロシア人のおじさんが鳴海さんの自宅に上り込んで金品を奪っていきました。おそらくはロシア当局の指示であったであろう彼らの豹変は鳴海さんの心に深い影を落とします。5歳になった冨美子さんを連れて一家は樺太を経由し函館を目指しますが、択捉島で育ったアイヌ民族の母は、夫の故郷の青森に行きたくない、島に残りたいと最後まで訴えたそうです。説得され渋々納得した母親に手を引かれ乗り込んだ樺太に向かう船。船内でははしかが大流行し、命を落とす子供達が続出しました。海に投げ込まれていく彼らの姿と泣き崩れる親たちの姿を目撃しながら「絶対死ぬものか」と誓った鳴海さんでした。

(択捉島)
面積は、沖縄本島の2.6倍。江戸時代末期の日露親善条約で日本の領土と決まり、漁業で栄えてきた島でした。太平洋戦争の降伏文書調印を前にした1945年8月28日、当時のソ連の軍隊が上陸。そのまま占領地とされてしまいます。鳴海冨美子さんは、その択捉島で戦時中の1944年に生まれ、島を追われた5歳まで暮らしました。


現在は父親のふるさとである青森で70年近く暮らす鳴海さんですが、狭い船に押し込められて本土に引き上げて来た際には強く疎外感を感じました。シリア難民の姿を見ると、当時の自分と重なるそうです。

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今回もすっかり意気投合。アザラシを頂きました。
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というのはうそで、おいしいリンゴを頂いてお宅を後にしました。
ちなみにこの剥製は鳴海さんが知り合いの漁師に二十数年前にラッコの剥製だとしてもらったしろもので、後に鳴海さん宅を訪れた医師から「これはラッコじゃなくてアザラシだよ」と教えてもらったそうです!鳴海さんには豪快なエピソードをたくさん伺いました。そして人柄の温かさを感じさせて頂きました。

アーサーのインタビュー日記

鳴海さんにお会いするまで僕は択捉島に対して「外れのような、狭間のような土地」という印象を持っていました。しかし鳴海さんから択捉の生活体験を聞いた事でその印象が大きく変わりました。択捉島は現在の日本とロシアの関係を考える上でも第二次世界大戦の歴史を考える上でも、実はピンポイントのツボのような存在だったということを知りました。真珠湾攻撃の時に日本艦隊が択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に集まって、そこから出撃したという歴史はとても重要です。しかし択捉島の生活も日本とロシアとアイヌ民族の歴史がずっとつながって交流したり衝突したりというものをはらんできたようです。鳴海さんの家族もそういうつながりがあって、母はアイヌの方で父は漁師として択捉島に移り住んだ青森の方です。家族は敗戦でロシア軍が入ってきたことでロシアの兵隊たちと隣り合って彼らとギリギリの生活をすることになりました。ではロシアの兵士たちが皆恐ろしい人たちだったかと言えば、鳴海さんの記憶の中では実に優しい人たちだったそうです。彼らもギリギリの貧しい生活で靴も無く暮らしていたそうで、父親が魚を獲ってくるとそれを母親が調理して届けたりして隣同士の助け合いもあり、こうやって択捉島の戦争直後の生活が成り立っていたという事も見えてきました。しかしある日、おそらくはソ連の組織としての命令でその関係が急に崩れ、ロシア兵が怖い存在に変わります。組織の動きによって交流ができなくなり敵対関係になったことが、今の北方四島の問題、日露の国家間のことを考える上でも大きなヒントになるような気がするのです。

元BC級戦犯として戦後を生き抜いた飯田進さん

南方の激戦地ニューギニア。1943年、当時20歳の飯田さんは、海軍民政府・資源調査隊員として現地に赴任しました。戦況が悪化していく中、インドネシア語が話せ地元の地理にも明るい飯田さんは、やがてゲリラの討伐隊にも狩り出されていきますそんな中、ゲリラの集落で見つけた4人の女性と子供を飯田さんは食糧運搬係として徴用しました。しかし、その4人を隊長だった少佐が処刑してしまいます。飯田さんもまたゲリラとおぼしき現地住民を斬りつけて殺害。戦争という過酷な状況の中での突発的に起きてしまった出来事でしたが、その事実が戦後飯田さんを「戦犯」として歩ませる事になりました。元BC級戦犯として軍事裁判で死刑を求刑され、重労働20年の判決。その後、東京の巣鴨プリズンに移送。10年間の収容生活を送った後、70年前の戦争を世間に問い続けています。

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脳梗塞を患って以来、健康との戦いも続いています。取材当日も決して体調が良好でなかった飯田さんでしたが、重い一言一言を噛みしめながらアーサーさんにぶつけてきました。言葉のボールをアーサーさんが懸命に拾い受け止めているうち、いつしか飯田さんの目には涙が。そして絞り出すように「多くの日本人よりも外国人である君の方が、俺の言う事を理解してくれているね」とぽつりと語りました。アーサーさんの胸にもぐっと来た一言だっと思います。何が心の琴線に触れたのか確認するという野暮な事は致しませんでした。 「責任を取らない国家の代わりに一人で責任を背負っているのですね」というアーサーさんの言葉だったのかも知れないなと、何日も経った今、ふとそう思いました。

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多くの著書も残してきた飯田さんです。アーサーさんが手に持つのは「たとえ明日世界が滅びるとしても」(梨の木舎)シールズの中心メンバー奥田さんが高校生の時に飯田さんと朝まで語り合った事があったというお話も伺いました。

ちなみにインタビューの日は元気だったアーサーさんですが、その後風邪をひきスタジオ収録の日は声がガラガラ。今週はとても美声の「アーサー・ビナードです」という挨拶が聴けるのも一興です。

アーサーのインタビュー日記

飯田さんは「事実を語る」ことがいかに大変な事であるかということを僕に伝えてくれました。誰でも自分に不利な事はしゃべりません。戦犯として裁かれて殺された人たちも、彼らの残した遺書が必ずしも事実を語っていないと言われています。事実は闇の中に消えていきました。事実を語るためには自分にとって不利な事、自分が語りたくない事も伝えなければなりません。その事に気づいた飯田さんは、ずっと苦しみながら「事実を語る」という大変な仕事に挑んできました。それが飯田さんの70年だったと思います。僕は飯田さんの話を聞きながら、戦勝国とされる僕の母国アメリカや連合国の中枢に、もし飯田さんのような人物がいたら、もしかしたら歴史の定説はもう少し事実に近いようになっていたかもしれないと考えていました。「アメリカは戦争を早く終わらせるために原爆を作った」「戦争を終わらせるために東京大空襲は必要だった」と言う、僕らが定説として浴びせられてきた歪曲された歴史は、全て「自分に不利なことをしゃべらない」「自分に有利なからくりと作ろうとする」そんな人たちが作った定説です。飯田さんのように、そんな流れに抗して事実を伝えていこうとする人物がアメリカ側にもいたら、もう少し違う歴史が語られたかもしれません。会話の中で飯田さんは「間(はざま)」という言葉を使い、僕に鋭い視線を注いで「君はハザマという日本語を知っているか」と問いかけてきました。僕は「間(はざま)」という漢字は辞書を引かなくても書けますし、実際「間(はざま)」という言葉を今までずいぶん使ってきました。しかし飯田さんに「間(はざま)という言葉を知っているか?」と聞かれた時に、「僕は知らないんだ」という事がわかりました。しかし飯田さんの話を聞くことで、僕も無責任な国家と歴史の忘却・歪曲の「間(はざま)」で戦ってきた飯田さんの力を感じることができました。やっと「間(はざま)」という言葉が学習できたような気がします

樺太(サハリン)で終戦を迎えた中島邦男さんが帰国を果たすまで

あけましておめでとうございます。
「アーサー・ビナード 探しています」は春まで続きますので、ぜひお聴きください。
なお、今年からは番組情報のお知らせも兼ねて放送前に内容をご紹介していきます。今週は、前週に続いて中島邦男さんの後編です。

父親のそばにいたくて樺太へ転勤を願い出た中島さん。豊原に住んでいた父は一度息子の顔を見に職場を訪ねてくれました。しかし、そのとき2人で酒を酌み交わし駅まで見送ったのが最後となりました。中島さんの父は終戦を待たず急性肺炎で亡くなります。雨龍の陸軍気象観測所に移動し、しばらく経った8月15日。観測データを送った郵便局から電話が入ります。女性郵便局員は中島さんにこう告げました「日本が負けた」と。電話の向こうで女性はそれだけを告げて一方的に電話を切るのでした。その女性の言葉がどうしても信用できず茫然としていた中島さんでしたが、その後正式に敗戦したとの連絡が入ります。翌日、中島さん達が機密情報であった気象観測データを上官の命令で焼却していると、黒煙を発見したソ連の戦闘機が突如飛来し、中島さん達に機銃掃射を浴びせました。命からがら逃げた中島さんですが、今度は正気を無くしてソ連機に向け銃を乱射し続ける観測所長を皆で止める事に。そんな事があり、最後にこれで見納めと屋上にあがった中島さん。目に飛び込んできたのは、いろいろなところでソ連の空爆を受け立ち上る煙の数々でした。下を見ると上官たちが移動の準備を始めていました。「中島、お前も一緒にシベリアに来い」との上官の命令を振り切って、中島さんは列を抜けて逃げました。その後、日本からソ連に再び戻った極寒の地で中島さんは生き抜き、そして3年後ついに帰国を果たしました。

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中島さん宅には気象神社も祀ってあります。

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中島さんら戦前の気象のプロ達は戦後、気象観測の方法が変わったために気象庁で現業に戻る事はできませんでした。それは中島さん達にとって極めて不本意な事でした。その後、関東電波監理局に転じた中島さんは何と文化放送に仕事でいらした事もあったそうです。

アーサーのインタビュー日記

中島さんが樺太で観測の仕事したという話を最初聞いたときには、寒くて大変な場所に命令を受けて向かったのだと思っていました。しかし話を聞くと、家族と一緒にいたかったからという理由でした。中島さんの話を聞いていると、軍とも、樺太の生活とも、どこか距離が取れているというか客観視できる立ち位置がある気がします。日々、仕事として夜空を見上げて夜の雲が見えてくるまで寒い中空の動きを読み解いて予報につなげる視点が、もしかしたら反対に自分を上から俯瞰して客観視できる視点につながっていったのではないかと思います。
日本の敗戦を聞いたときに最初嘘だと疑った中島さんですが、それでも日本が負けたから絶望するということにはなりませんでした。国のために仕事をするという感覚はあっても、冷静に俯瞰する視点も持てたので、3年間生き抜いて家族を守りシベリアに連れて行かれないように危機をのり越える力になったのではないかと思います。

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