「時代の綺羅星たちを引き寄せる、引力のようなものが、
三木先生にはあったと思う。」

 1956年、ぼくは三木鶏郎主宰、冗談工房のマネージャー兼、専務となった。社長は永六輔。雑誌に書いたぼくの短文が、三木先生の目にとまって、どうやら縁につながったらしいが、実際はぼくの掃除が認められたのではないか。ぼくは一時、寺で修行したことがあって、庭の草取り、小間物の整理整頓、拭き掃除などが得意だった。
 すでに三木先生の周辺には、永六輔をはじめ才気あふれる連中が群れ集っていた。ぼくなど出来損ないの出る幕はない。他に才能がなきゃしょうがないと、雑務をこなす日々。しばらく楽譜の整理、留守番をするうち、見様見真似でラジオのコントを書きはじめた。そのうち、いずみたくと組み、コマーシャルソングを作るようになった。三木鶏郎門下としては裏切り行為だが、三木先生は大目に見てくれた。この頃いずみたくと組んで作ったコマーシャルソングが時代の波に乗り、昭和34年、ぼくの年収は一千万円を超えていた。やがてそんな浮ついた明け暮れが嫌になって、活字の世界へ移った。
 三木先生の才能は多岐に渡って発揮され、世の中に与えた影響は多大である。時代の綺羅星たちを引き寄せる、引力のようなものが、三木先生にはあったと思う。

野坂昭如     

スペシャルコメント

「ある意味、
ノーベル賞を受賞したということに匹敵する。」

(※三木鶏郎先生のような)ああゆう人が、どんどん出てこなくてはいけない、
日本に出てきた方が良いと思うんですよ。
ある意味、勉強してノーベル賞を受賞したということに匹敵するようなね。
今の皆さんは、あまり気が付かないかもしれないけれど、
(※昭和22年~29年という時代に)NHKで生放送で、アレ(※「日曜娯楽版」や「ユーモア劇場」)を夜やって、国民のうちの何千万という人が、それを聴いてみんないっせいに笑ったんですよね。これは大変なことですよ。
そして、あの番組で放送した歌をね。「面白いね」って聴いた。当時の歌謡曲っていうのは、面白いんじゃなくて、なんか陰々滅々と歌っている時代だったから。その中であの人(※鶏郎先生)だけでしょ。「面白いね」っていう歌を作ったのは。そういう意味では、もったいない人ですよね。もっと国が育てていく地盤を作って上げればね。面白かったと思いますよ。

(2014年10月30日三木鶏郎企画研究所で行われたインタビューより抜粋)

神津善行(作曲家)

スペシャルコメント

「トリロー好奇心」 嵐野英彦 (作曲家)

時は1960年7月某日夕刻、場所は湘南葉山長井。
トリロー先生長井宅でのお手伝いを終え、買い物のお供をした時のこと。
偶然、大学の仲間家族に遭遇してからがビックリの数分だった。
 先生の視線は同級生の手元に釘付け。その手は網袋いっぱいの素潜りの成果であろうサザエ。
先生宣う -

「ここで獲れたの?」「これ何?」

先生の視線は同級生のもう片方の手へ。手には素潜りの3点セット、ゴーグル、フィン、
シュノーケルで手にとり凝視。同級生説明すると

「どこで売ってる?」

好奇心満々の先生だった。そのやりとりは全く子どもの世界。
その後、今もって先生の素潜り成果は不明である。

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三木鶏郎自身が絶讃した企画盤が、20年振りに再CD化!!

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 イラストレーター和田誠の企画・構成による『三木鶏郎ソングブック』が、今週11月26日に、濱田高志監修による〈TV AGE〉シリーズの最新作として、再CD化されました。
 同作は、1971年5月にLPで発売され、その後1994年5月に三木鶏郎の傘寿を記念して初CD化、今回は生誕100年を記念して2度目のCD化となります。
 「南の風が消えちゃった」や「ぼくは特急の機関士で」、「田舎のバス」など、厳選された全13曲を収録したこのアルバム、全曲の編曲を手掛けたのはジャズ・ピアニストの八木正生。そして、その洒脱な編曲を得て、抜群の歌唱を響かせるのが、デューク・エイセスと由紀さおり。彼らの歌声によって、珠玉の「トリメロ」がモダンなサウンドと共に甦ります。
 幼少時から三木鶏郎ファンだったという和田さんは、三木鶏郎について次のように語っています。

鶏郎さんって、メロディと詞、両方書くでしょう。それが洒落てるんですね。しかも、曲と詞は分かちがたいものがある。鶏郎さんは、やっぱり日本人が作った日本の歌のイメージを変えた人ですね。
(『三木鶏郎ソングブック』ライナーノーツ掲載の和田誠最新インタビューより)

時を経てなお色褪せぬ「トリメロ」の数々、是非ともお聴きになってみて下さい。

『三木鶏郎ソングブック』(品番: UPCY-6942)
企画・プロデュース:和田誠、監修:濱田高志
*ブックレットには和田誠最新インタビュー記事掲載
発売:ユニバーサルミュージック/定価:2,000円+税
各種 CDショップ、Amazon、HMVなど通販サイトでお買い求めになれます。

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「競合大行進」伊藤アキラ(作詞家)

スポンサーは競合他社が起用した作詞・作曲家を避けるものだが、三木鶏郎に関しては「おかまいなし」だったようだ。民間放送創業期のCMソングを概観すると、鶏郎作品=競合他社作品の大行進である。

「キリン」も「アサヒ」も「サッポロ」もそうだし、「富士フィルム」も
「小西六」もやってるし、「カネボウ」「ニチボウ」「クラボウ」「トウヨウボウ」も。「シオノギ」「三共」「藤沢薬品」。「京阪特急」が走れば「小田急」「南海電車」も走る。「花王石鹸」「牛乳石鹸」。「明るいナショナル」を拝借すれば「ラジオ・テレビな-んでもト・リ・ロ・オ~」だったのだ。

氏の競合大歓迎の起源は戦時中にあった。
千葉県は習志野の東部軍教育隊。29才の陸軍少尉繁田裕司(本名)は
「東部軍教育隊隊歌」を作曲し大好評。「うちも」「うちも」と第一中隊を始め、二、三、四、五、第六中隊と、続々、隊歌のオーダーがきた。

「私はエライことになったと思った。六つの曲に、それぞれはっきりした特徴を持たせなければならぬ。(中略)同時に作るとどうしても似てくる。一日一曲。日を変えて発想を新たにし、苦心惨憺、どうにか六曲書き上げた。」
(「三木鶏郎回想録」/平凡社)

私は音を聴いてみたくなり、三木鶏郎企画研究所の竹松さんに頼んだがみつからない。そのかわりにと「東部軍教育隊隊歌」を聴かせてもらうと、これが素晴らしい出来ばえで各中隊からの依頼殺到もうなずける堂々たる作品であった。

そして戦後。競合二社、三社からの注文を平然と受ける体質は、六隊競合をこなした隊歌経験に基づくもの、と私はにらんでいる。

伊藤アキラ

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「三木鶏郎先生」 桜井 順

 先生と言う呼び方はピッタリ来ないのだが。鶏郎先生と出会わなければ、ボクは、音楽好きの冴えない商社マンとして人生を歩んだかも。
 1956年、大学4年の秋に、大阪朝日放送の「クレハ・ホ-ムソング・コンク-ル」にヒョイと応募したのが、スベテの始まりだった。商社の採用通知の直後にコンク-ル入選の通知があり、4人の審査員の一人だった三木先生から「是非会いたい」と電報が来て、カンズメ的仕事場だった四谷の「森や」なる旅館に出向いた。畳の上にペタリと置いた電気ピアノの前で、パジャマにドテラ羽織った三木さんは、ニコヤカに「冗談工房」で音楽のシゴトをしないか? と。
 ニッポン放送などで「劇伴」のアルバイトなどコナシてはいたが、音楽で食べていけるとは全く思っていなかった。でも続々と民放テレビが開局していたマスコミ世界への興味は大きかったので、サラリ-マンの傍ら「工房」でシゴトをすることにした。当時、寝るヒマも無いほど忙しかった三木先生43才、ボク23才。
 2足のワラジの結果、商社のサラリ-1万円ポッキリ、「工房」での音楽やコント書きなどで、その10倍以上は稼いだ。稼ぎだけでなく、放送カンケイのシゴトは面白かったので、カッキリ1年で、商社に辞表を出し、バカじゃないの、と周囲はアキレた。
 翌年も朝日放送の入選者いずみ・たくが「工房」に招かれ、前年の入選者、芸大卒の越部信義とボクの3人で、「工房」に押し寄せるシゴトを捌いた。三木先生には「師弟カンケイ」とか「徒弟修業中」と謂った感覚はまるで無く、ハナからボク等を一人前扱いでシゴトを托した。例えば「パパは何でも知っている」というアッチの流行りホ-ムドラマシリ-ズ、テ-マだけ先生が書き伴奏音楽は3人で手分けして書く。そうしたシゴトの重なりで体力勝負の徹夜が続いた。
 その他、三木先生の人脈とのツナガリでシゴトの場がドンドン広がった。小野田勇、キノ・ト-ル、三木鮎郎、などのテレビ番組の音楽担当。例えばNHKの「若い季節」の脚本は小野田勇、テ-マソング作詞は永六輔。その他にもフジTV、日本TV、TBSTV、当時の教育TV、教会を改装した四谷の文化放送、日比谷のニッポン放送など、三木先生から始まった人脈はあらゆる方向にツナガった。
 1964年に「三芸」と改称していた「工房」で事件が起こり、嫌気が差した三木先生は事務所を解散、マスコミ業界を去り、その後はサイパン島やハワイ・マウイ島などで、悠々自適の生活。サイパン島には2回ほどお邪魔して、一緒にゴルフを楽しんだりした。
 1994年、急逝された先生の年令、80才にボクも達している。青年時代に身に付けたクラシック音楽教養を、「日曜娯楽版」で大衆啓蒙的に利用した巧みな才能と、内外交友範囲の広さ、そして例えば「糖尿友の会」など、自分の病気まで冗談半分社会化してしまう時代環境洞察力には「脱帽」。こんなヒトはもう出ません。ただ、あまりに近くに居たために、その音楽作品を後の世代に伝える努力を欠いていたなア、という自覚忸怩。さまざまな想い篭めて合掌。

桜井 順

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頭が切れるわりには、ほんわかしていて、心が柔らかい方
中村メイコ(女優)

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(※「日曜娯楽版」や「ユーモア劇場」の放送されていた当時)
三木鶏郎そのものが人気者だったんです。
「この人の作るこの曲がいいとか、コントが上手いとか」そういうことじゃなくて三木鶏郎の大げさにいえば思想、イデオロギーとか、ユーモアとか、それが好きっていう人が、ほとんどだったんじゃないですかねぇ。

「ミキトリローイズム」っていったらいいのかしら。なんかそういう。

で、「風刺」っていうものを「明るいもの」だとしたのは、三木鶏郎だと思いますね。「風刺」っていうのを漢字で書いて、すごく難しい雑誌が政治家をやっつけたり、いろいろしてたんでしょうけど、鶏郎先生が作る「風刺」っていうのは、もうちょっと、なんかふんわりしていて、ちょっと皮肉っぽくて、都会的で、そこが人気のみなもとだったと思います

頭が切れるわりには、ほんわかしていて、心が柔らかい方。

でもね。時代がいろいろめまぐるしく変わっていく中で、すごくメンタルな点では、
寂しかった時期もおありでしょうし、嫌だった時期もおありだったと思います。

だけど、それを中途半端に発表したり、「また番組やろうよ」みたいことをなさらなかったところが「時代のスター」ですね。
(2014年10月7日三木鶏郎企画研究所で行われたインタビューより抜粋)

 

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三木鶏郎特番に向けて

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三木鶏郎さんの作品に最初に触れたのは、私が小学校入学の前後だったと思います。

箪笥の上のラジオから流れる音、一家団欒の食卓を囲みながら聴いた事を、子供ながらに記憶しています。

 その後我が家にもテレビが登場し、毎日流れる番組、中でも繰り返し流される短くテンポの良いコマーシャルソングは、自然と子供心に入り込み、今でもそれを耳にすると、当時の風景が自然と蘇って来ます。

 同じ「三木姓」(本名ではなく、ミッキーマウスとトリオをかけたものと知るのは後の事である)という事もあり、その数多くの作品と共に、三木鶏郎の名前は私の記憶に長い間残っていました。

 その後、私自身も縁あって放送の世界に入る事になりましたが、子供時代の心に刻まれた数々の音楽を生み出された三木鶏郎さんの特別番組を、「生誕百年」の記念すべき年に弊社で放送させていただく事は、私にとっても大変感慨深いものがあり、今から放送日を楽しみにしているところです。

 文化放送をお聴きの皆様も是非お聴きになって、「トリロー作品」の魅力を感じて頂きたいと思います。

 因みに私の一番好きな作品は「ワ、ワ、ワ輪が三つ」のミツワ石鹸のCMソングです。

最後に輪が三つ重なる映像と一緒に、子供の心に何とも言えない「暖かさ」と「明るい時代の到来」を予感させてくれました。

文化放送 代表取締役社長 三木 明博

 

スペシャルコメント