晩年(1) <サイパンとハワイ>

60年代後半から徐々に仕事を減らして行った三木鶏郎は、73年のコマーシャルソング制作を最後に第一線から退いた。
その頃迄に海外へ積極的に出掛けていた鶏郎だったが、70年年末から健康のため暖かい南の島(ハワイ、タヒチ、グアム、サイパン等)を好んで渡航するようになった。その内、サイパンで年末から春までを過ごすのが恒例になる。やがてそこで現地の人と親しくなり、76年、彼の所有するゴルフ場の一角を借りて家を建てた。そこへはサイパン空港からエアロポートロードをサンホセ方面に向かって行くが、舗装されず石ころだらけの道を走ること数十分、道中ホテルもなければ店もない未開の地であった。また電気、ガス、水道のライフラインも未整備で、特に生活用水は雨水を沸かして飲用したが、雨が降らない年は大変苦労した。しかし鶏郎はこの地がとても気に入り、以後、毎年この家で越冬することになった。

鶏郎は、糖尿病克服のため日常生活が規則正しくあるように努めた。例えば、朝6時起床。体温、血圧、尿糖など「糖尿日誌」に必要な項目を計測後、ラジオ体操、7時朝食、というように自ら決めたスケジュール通りに行動し、朝昼晩と食事の時間が乱れないようにした。すると体調が良好となり、ゴルフやヨットを思う存分楽しむことができた。また鶏郎は、どこへ行くにもカメラ、ビデオを常に携帯し、特に夕日の撮影に熱心で、これは欠かせない日課だった。

サイパン越冬から11年目の87年。鶏郎は、夏も快適に過ごせる場所を探しはじめた。89年、越冬と避暑の両方に快適なハワイ・マウイ島へ移動。翌年、ハレヤカラ山の中腹にあるクラの里に家を見つけここに居を構えた。自らを「渡り鳥」に喩え、鶏郎がこの年に詠んだ年頭の句は、「また翔んで ついの棲家か クラの里」だった。
三木鶏郎、76歳。ここでもサイパン同様、規則正しい生活を心がけた。また自叙伝執筆を始め、Mac での音楽制作等、趣味の仕事に取り組んだ。もちろん、カメラとビデオは常にそばに置き、花と風景、夕日の撮影は日課であった。海と山が同時に見える風光明媚なクラの家で、鶏郎は自由を謳歌、充実した日々を送っていた。

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余暇あれこれ <車と船>

1959年、糖尿病と真剣に取り組むことになった三木鶏郎は、ストレスと運動不足の解消手段を考えた。
そこでまず、プライベートでの車の運転の必要を感じ、47歳にして運転免許を取得した。免許証を手にした時の嬉しさはひとしおで、早速、大阪・名古屋への長距離ドライブを試みた。
それからは通勤と余暇のドライブが自身で可能となり、好きな時に運転できる楽しみを味わった。
また鶏郎は、同年夏から夏期休暇を取る事に決め、三浦半島の海岸に小さな海の家を建てた。運動のため、ヨットの操縦と水泳が目的だったが、さらに14フィートのモーターボートを購入し、石廊崎まで遠航した。これを機に鶏郎の船への夢が膨らみ、26フィート・モータークルーザーの建造を計画。65年に完成させ、夫人の名前から「マコ号」と命名し隅田川に進水した。
初めての航海は、相模湾一周クルージングだった。これはストレスと運動不足解消の両方に大変役に立ち、快適な夏を送る事ができた。
以後、三浦の別荘で過ごす夏に船は必需品となった。

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糖尿友の会

終戦後、繁田裕司は栄養失調寸前だった。それから三年後、三木鶏郎として有名になり、公演のため出掛けた大阪で毎日食べ放題の結果、たった2週間で50kgだった体重が75kgに増えていた。遺伝的体質もあったが、鶏郎の糖尿への道はこの辺りから始まった。

鶏郎が初めて糖尿病宣告を受けたのが保険加入の時である(当時、糖尿病患者は契約できなかった)。2度目の宣告は、56年年末に怪我で入院し、ついでに入った人間ドックで。3度目は59年に大阪でカラヤン指揮の演奏会を聴く最中、突然激しく痛み出したオデキの原因が「糖」であることを知らされた時で、かなりの重症だった。ここで初めて鶏郎は糖尿と取り組む心構えが出来、この年を闘病開始年とした。
尿糖検査が主流の当時、鶏郎は毎日3回尿糖を計測し糖尿日誌を事細かにつけ始めた。始めると凝り性な質である。いつでもどこでも計れる「携帯トイレ」を考案した。独自の視点で糖尿を観察し、次第に「糖尿」を「趣味」と感じるようにさえなった。
10年後、鶏郎は、この厄介な病を積極的に楽しむ方向に転換したいという考えに至る。また楽しむなら大勢の方がもっと楽しい。そこで69年5月「糖尿友の会」を発足。すると糖尿仲間の多士済々が発起人として名を連ねてくれた。反響を呼んで、取材が殺到。新聞に闘病手記を連載したり、鶏郎自身がテレビや講演会に出演する内、全国から続々と会員が集まった。
同年7月、機関紙「糖友」創刊。9月「糖尿食品センター」発足。
会員は情報交換が出来るようになり、時には一同に会してレストランでの食事や国内外の旅行に出掛ける等して親睦を深めた。

94年6月、鶏郎は「糖尿友の会 25周年さよならパーティー」を開催。"糖尿を皆で楽しむ"という当初の目的を遂げた会に幕を引いた。しかし25年続いた機関紙「糖友」に掲載の「糖尿日誌」は、会員からの継続希望の声に応え、紙名を「余滴クラブ」と改め、「糖尿日誌」も「余生余滴」と変えて鶏郎自身が執筆を続け、同年10月に亡くなるまで私通信として発行した。

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作曲バス (1960〜)

1950年代から60年にかけて多忙を極めた三木鶏郎は、過労がたたり40代前半で糖尿病と診断された。入院生活も余儀なくされたが、仕事を断わるわけにはいかない。入院中は病室にピアノを入れ、面会を避けて仕事を続けた。そして退院後、鶏郎が考え出したのがマイクロバスを改造し移動ピアノを設置した「作曲バス」で、ここに録音機材も組込み作曲から簡単な録音も可能な移動スタジオを作った。
これは快適だった。月1回1週間行程の旅行に出掛ければストレスの解消になる。何しろ糖尿にストレスは大敵である。またコマーシャルソング作りには前に作ったものを忘れるため頭の切り替えが必要で、バス旅行はこれにも有効。さらに作曲のため現地視察に出掛けた帰り、その印象が新鮮な内に仕事に取りかかれるという利点もあった。
鶏郎ならではの仕事場に報道各社が取材に駆けつけ「作曲バス」を追った。

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音楽工房 (1957年〜)

1956年、大阪朝日放送が主催した第1回「クレハ・ホームソング・コンクール」(公募)で審査員を務めた三木鶏郎は、ここで新しい才能に出会うことになった。
作曲の越部信義、桜井順、作詞の吉岡治である。鶏郎は彼らと仕事をしたいと思い、それぞれに電報を打った。
「ゼヒ、オメニカカリタシ」
まずは、芸大を卒業し高校の音楽教師をしていた越部信義、そしてサトウ・ハチローの弟子であった吉岡治が鶏郎を訪問。同年設立した「冗談工房」で請けていた音楽の仕事を手伝うようになった。また鶏郎は、コンクールで歌った和田京子を加え、四人でQ(Quartet)の会を作った。二十代前半の若い彼らと"新しい音楽"を作ってみたかったのである。
大学卒業後商社に勤務していた桜井順は、鶏郎から二足のワラジを勧められ「冗談工房」に参加。音楽だけでなくコントの才能も発揮した。
57年、音楽の仕事場として赤坂一ツ木に「音楽工房」が設立され、越部、桜井、吉岡が正式に参加することになった。
同年、第2回同コンクールに入選したいずみ・たくも鶏郎からの電報を受けて参加することになった。
越部、桜井、いずみは、ラジオ帯番組の挿入曲やTV番組の伴奏音楽等、次から次へと任される仕事をこなして行く。
60年に同コンクール入選の嵐野英彦は芸大作曲科の学生だったが、やはり電報で呼ばれ、コマーシャルソングの世界に入るきっかけになった。
三木鶏郎は、毎年のように入賞者に電報を送った。
日々忙殺されていた鶏郎にとって、それは単なる音楽の助手探しという目的ではなかった。毎年発掘される新しい才能や感性が新鮮で、それに向き合うことが自身の刺激にもなり楽しみでもあったのだ。
(文中敬称略)

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凡天寮 (1951年〜)

1951年、三木鶏郎文芸部の部長キノ・トールが独立し、その後の文芸部が、江森彰、野口汀、小泉準司、工藤昌男、能見正比古といった多くの新人による隆盛をきたした頃、三木鶏郎は、四谷二丁目、当時の文化放送近くにあった材木屋の2階に「凡天寮」を開設。
凡人と天才が集うという意味で、新人をここに公募した。ちょうど民放が出来たてで仕事は降るほどに有り、三木鶏郎のグループは引っ張りだこであった。

56年、有限会社「冗談工房」が設立すると、都内の各大学に「冗談工房研究生募集」のポスターが貼られた。すると一挙に70人余りの凡人天才が集まり、凡天寮の2間ぶち抜きの和室がぎっしりいっぱいになった。週1回開催される教室では、三木鶏郎、山川浩二、野坂昭如らが講義をして出題し、研究生は翌週迄にコントを提出する。それは三木鶏郎を筆頭にベテラン作家陣によって採点され採用の分は台本に掲載、放送されるとコント料が支払われた。
60年に研究生となった伊藤アキラは、当初全く採用されなかったコントが徐々に採用され、大学卒業時には当時の大卒初任給と同じくらいの収入になったと云う。

「冗談工房規約及び名簿」<第3章 研究生>に下記の記載がある。
・ 研究生は毎年2回、春期と秋期に公募する。
・ 但し、人員過多の時は公募を行わないことがある
・ 研究期間は通常2カ年とし、2年後に卒業式を行う。
・ 研究生にして作品を採用された時は賞金を受ける
  作詩・コントそれぞれ一篇につき
 1年生 金200円(税共)/2年生 金300円(税共)

また研究生用に作成された「冗談入門教本」には、巻頭に「冗談入門」の3ケ条が掲げられ、下記の講座内容が掲載されている。
第1部 基礎技術講座
第2部 CM講座
第3部 制作演出講座
第4部 脚本技術講座
第5部 常識涵養講座 
第6部 実地技術講座

研究生らはこの有益かつユニークな内容の講義を聴講し2年間のコント修行をするのだが、三木鶏郎によれば、「手取り足取りしない。当人に才能があれば何でもできる」とのことで、最初大勢いた研究生は、一年もすると数人になり、残った者が冗談工房同人となった。

(文中敬称略)

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冗談工房 (1956年)

1949年の三木鶏郎文芸部発足以来、代々の文芸部部長は、常連コント作家らが書いた「冗談音楽」のコントをまとめ、またその運営もやりくりしていた。そうした中で「冗談音楽の会」が発足し機関紙が発行される等、文芸部は工房の様相を呈していた。いつしかそこが「冗談工房」と呼ばれるようになった所以である。やがて民間放送の番組制作依頼が増えるにつれ、これに対応する組織の必要が生じてきた。
56年4月2日有限会社「冗談工房」が設立。市ヶ谷のトリ小屋第1号跡地に建てたトリローオフィスでスタートし、翌年銀座に移転した。
主に番組やCM制作のためのプロダクションで、ニッポン放送『トリローサンドイッチ』『冗談天国』、文化放送『仁丹一粒エチケット』『トースト冗談』等、歌とコントで構成するラジオ番組の企画制作を請け負った。
社長:永六輔、専務(経理):阿木由起夫<野坂昭如>、常務:宇野誠一郎、監査役:繁田裕司<三木鶏郎>。三木鶏郎以外、社長以下、スタッフもほとんど二十代。永六輔の発案で、皆、派手なポロシャツにジーンズというバンドボーイ風のスタイルだったと云う。

当時の様子は、野坂昭如著「風狂の思想」に詳しい。
四谷左門町に「森や」という旅館があり、二階の大広間に工房のライター達二十数名が毎週土曜日に集い、与えられたテーマのコントを持ち寄っての選句会が行われた。文芸部時代からの運座制で、三木鶏郎と担当プロデューサーの山川浩二が判定した。
主なメンバーは、小泉準司、野口汀、川崎慎一、黒子恭正といった「冗談音楽」時代からのベテランや、阿木由起夫、小川健一、北川伸介、桜井順、渡辺修(なべ・おさみ)、他。多忙であった永六輔は、月一度の参加。文芸部時代からのキノトール、三木鮎郎も作家グループの一員だった。
阿木由起夫=野坂昭如は、冗談工房設立の一年後、経理の役職と三木鶏郎のマネージャーから離れ、コント作家に転身していた。

野坂らによってコント作家養成のため各大学に研究生募集のポスターが貼られた。それを見て冗談工房の門を叩いた学生は数多く、実にいろいろなタイプが集まった。誰もが入門でき、面白いコントであれば採用される。
コント職人集団が一丸となってコント制作に熱意を注いだ時代であった。

(文中敬称略)

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山中湖大コーラス会 (1957年)

文化放送『トリロー・コーラス』のスタートから二ヶ月経った1957年8月24−25日、「山中湖大コーラス会」が開催された。
これは、山中湖湖畔にて『トリロー・コーラス』の歌指導、収録を行うと同時に、歌手、演奏家、スポンサーの森永乳業、文化放送(地方局からも参加)、冗談工房のスタッフの親睦会を兼ねた一泊二日の収録旅行だった。総勢約80名、観光バス班、ステーションワゴン(QR&NJB)班、PRカー(QR)班に分かれて移動した。

その「行動予定表」には、下記のスケジュールが記載されている。
8月24日(土)
11:00 集合
11:30 出発
16:00 現地到着
☆大コーラス会(指導及録音) 於:山中湖旭ヶ丘湖畔
16:30−18:00 セッティング
18:00−20:00 本番
終了後、河口湖畔ホテルへ移動 宿泊

8月25日(日)
11:00−12:00 河口湖巡り 遊覧船を貸切り約一時間の河口湖巡り
12:00−14:00 レイクホテルにてコレクション参観
15:00 現地出発
20:00 東京着

「大コーラス会」では、三木鶏郎が司会、進行、歌の指導をし、古賀さと子、小鳩くるみ、服部リズムシスターズらが歌った。収録風景とともに翌日、スタッフ全員が休日のひとときを楽しんだ様子がスナップ写真に残されている。

(文中敬称略)

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舞台風景

1946年NHK『歌の新聞』がレギュラー番組になっても、三木鶏郎は貧乏で飲まず食わずの生活を続けていた。日本中の誰もが栄養失調で飢餓状態だった。
そんな時、日本劇場出演の話が来た。
山本紫朗構成演出のバラエティー・ショー『笑う東京』で、約一時間半の間、様々な芸人が約10分間ずつ出演する。その中の一コマに三木鶏郎グループの「歌の新聞」が組み込まれたのだ。一日三回公演、二週間の興行。素人集団のスラップスティックとなって、どうにかこうにか終えた初舞台だった。
そのギャラで闇米を買ってホッとしたのも束の間、『歌の新聞』の放送が中止になった。

それより少し前、鶏郎は銀座のキャバレーで演奏するバンドのピアニストとしての職を得ていた。ところがそこのバンマスが失踪し、鶏郎が代表となりバンドそのものを組合組織の楽団として経営することになった。誕生した三木鶏郎楽団は、昼間はラジオに出演、夜はキャバレー、深夜は米軍キャンプにと活躍し稼いだ。入団希望者が増え、ジョージ・川口、鈴木章治、小野満らも加わった。

『歌の新聞』放送中止後、鶏郎は飛行館東横劇場での舞台の仕事を引き受ける。作、演出:三木鶏郎、出演:三木鶏郎グループ、演奏:三木鶏郎楽団で、ミュージカル・ショーは満員大盛況。二週間に一度脚本を新しくして約9ヶ月間続いた。その後、池袋文化劇場、浅草国際劇場、日本劇場他、地方巡業を含め、三木鶏郎はグループと楽団とともに活動の場を舞台に広げた。

(文中敬称略)

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音楽部 (1948~)

三木鶏郎文芸部が確立し、部員が鶏小屋第1号でひしめき始めた時、音楽の仕事はすでに隣に建つ自宅=鶏小屋第2号で行われていた。
三木鶏郎作曲助手の第一代目は、石川皓也。ラジオ、劇映画、舞台と想像を絶する忙しさに不眠不休だったと云う。
以後、第二代目の助手に神津善行、第三代目、宇野誠一郎と続く。
1953年、居並ぶ鶏小屋裏にスタジオ(トリスタ)が建つと、音楽部の作業場が広がった。仕事のオファーもひっきりなしで、'53-54の年末年始は、12月一杯だけで41本のプログラムを抱えていた。

コメディアン志望の桜井千里が訪ねてきたのはこの頃。ピアニストでもあった彼は、良く三木鶏郎のハモンドと合奏し劇伴をした。

文中敬称略

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三木鶏郎文芸部 (1949年)

『日曜娯楽版』スタートから2年が経ち、三木鶏郎は、作詞作曲の他、番組の企画構成、脚本も担当。とてもひとりで手が回らなくなった。そこで脚本から演出までを担当する文芸部を作り鶏小屋第1号に置いた。
第一代部長は、キノトール。副部長、神吉拓郎。
「冗談音楽」の台本作りが文芸部のカナメで、週一回投書の常連を集めコント持ち寄りの文芸部会を開いた。そこでは句会の運座が取り入れられ、マル印の多いコントから順に選び、部長が台本にまとめ、鶏郎が監修した。
三木鶏郎文芸部は、時に『日曜娯楽版』本編も担当したが、「日本文化史冗談版」「世界文化史冗談版」というシリーズものの傑作も生まれた。
1951年、第二代部長に能見正比古を迎えた。
文芸部志望者が次から次へと鶏小屋にやって来た。この頃、投稿常連で最年少の学生、永六輔が参加する。
文中敬称略 。

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繁田裕司誕生〜三木鶏郎誕生前

1914年1月28日、三木鶏郎(本名:繁田裕司<しげたひろし>)は、東京市麹町区飯田町で誕生。
幼少時代を日本橋で過ごし、日本橋城東小学校へ入学するも関東大震災で学校が全焼。
暁星小学校へ転校、暁星中学校へと進む。
中学4年修了で旧制浦和高校に合格し入学。
この間、レコード、映画で音楽に親しみ、オルガン、ハーモニカ、三味線を奏す。また大学入学前より小野アンナにヴァイオリン、渡辺シーリーにピアノと声楽を師事。
1935年、東京帝国大学法学部法律学科入学。入学前から入団演奏していた音楽部に正式入部。
1940年、卒業、就職。翌年1月10日兵役のため入隊。
戦中、諸井三郎に作曲を師事。軍務の傍ら、歌曲や人形劇団「貝殻座」のための音楽を作曲。
1945年8月15日、千葉県習志野の「東部軍教育隊」で終戦を迎えた。
文中敬称略 。

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