晩年(2) <Macでの音楽制作>

三木鶏郎は学生時代から趣味としていた写真、映像の撮影を晩年も続けていた。どちらも日課であり、撮影後は自ら整理、編集し、日記のようにまとめていた。その趣味にもう一つ加わったのが、Macintosh(Mac)コンピューターだった。
1987年、鶏郎は、サンフランシスコの楽器店でMacと出会った。初めて見る箱の形をしたそのコンピューターは、シンセサイザーと呼ばれる電子ピアノにつながり、そこから映画『スター・ウォーズ』のテーマ曲がオーケストラ演奏で流れ、同時にプリンターからスコアが印刷され続けていた。これは、すごい! 鶏郎は、目を見張った。そしてMacを購入し、東京市ヶ谷のオフィスに持ち帰った。
間もなく環境を整えると、音楽ソフトを使い、「僕は特急の機関士で」等、自身のヒット曲をアレンジしては次々と打ち込みサウンド化していった。当初、実際の楽器とはほど遠い音だったが、鶏郎の耳にそれは新鮮に響いた。また何と言っても、オーケストラを集めずとも自分一人ですべてが可能なのだ。こんな合理的なことはないと思った。
鶏郎は、戦中に作曲した人形劇団「貝殻座」の音楽もMacで再現し、半世紀ぶりに集ったメンバーとの宴でこれを披露した。
また91年には、これも戦中、諸井三郎氏に師事した折に卒業論文として提出予定だった未完成の「クラリネット五重奏曲」を完成させた。半世紀を経て音化された作品を聴き、鶏郎は感慨無量だった。
今夏、本作品が初演・録音されCD化。来春、発売予定である。

Macでの音作りに夢中になった鶏郎だが、実際の音はピアノを弾いて確認することも多かった。また時に自身の作品の発表当時を思い出し、懐かしむようにそのメロディーを奏でることもあった。
現在、鶏郎が晩年に愛用したそのピアノは、アド・ミュージアム東京に展示されている。

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あの日のスタジオにて

石鹸コマーシャルソングあれこれ

1951年三木鶏郎作詞作曲による日本で初めてのコマーシャルソングが発表された後の数年間、多くの企業はその効果のほどを計りかねてしばらくは様子見の様相だった。
しかし石鹸会社はそうでなかった。早い時期から積極的に鶏郎へコマソンの依頼を行っている。そしてそれらすべてが名作である。
「♪ワ、ワ、ワ 輪が三つ〜」(54年作成)のミツワ石鹸。
「♪うぶ湯の時から みんな花王〜」(56年作成)の花王石鹸。
「♪牛乳石鹸 よい石鹸」(56年作成)の牛乳石鹸。
どの作品も印象的なキャッチフレーズと旋律で、子供から大人まで家族皆が口ずさんだ。
上記石鹸3社はコマーシャルフィルムの制作も行い、これもまたそれぞれに個性あるユニークな作品となりコマーシャル効果を上げたのだった。
幸いなことに、私たちは今、その映像を観ることができる。


素材提供:牛乳石鹸共進社株式会社    

牛乳石鹸共進社株式会社は、当時の3番迄あるオリジナルCFを自社に所蔵し、今もなお三木鶏郎作詞作曲「牛乳石鹸の歌」をコマーシャルソングに使用している。
今年創業105年。企業理念の『ずっと変わらぬ やさしさを』には、
「社員一人一人の『やさしさ』が、製品の『やさしさ』につながると信じて、お客様の肌に、こころに、そして環境にやさしい製品を提供し続けたい」
(「牛乳石鹸」HP 社長メッセージより)。

という思いが込められている。
半世紀を共に歩む「牛乳石鹸の歌」をずっと大切にし続ける、その心もまた企業理念に通じるものであろうと感じられる。

57年、全日本石鹸協会が設立された時、先の石鹸3社が実証したコマソン効果からか、協会は石鹸のイメージソングを三木鶏郎に依頼した。鶏郎は、「石鹸リズム」「しゃぼん娘」「ふわりとね」と三曲作成し発表した。
また日本の宣伝効果が轟いたのだろうか。68年、鶏郎は台湾公告公司より招聘され渡航し、台湾のコマーシャルソング第1号「ハッピー石鹸」を作った。

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あの日のスタジオにて

映画『新鞍馬天狗』ひとコマ

1954年、三木鶏郎は、東宝映画『新鞍馬天狗』の音楽を手がけることになった。大佛次郎原作・製作による本作は、第1話『天狗出現』(同年10月公開)、第2話『東寺の決闘』(同年11月公開)、第3話『夕立の武士』(55年6月公開)からなる新鞍馬天狗シリーズ。鶏郎はこの3部作の主題歌「新鞍馬天狗の唄」を作詞作曲し、三浦洸一が歌った。
第1話と2話の監督は青柳信雄で、同年3月から公開された榎本健一主演「落語長屋シリーズ」<『落語長屋は花ざかり』(同年3月公開)『夏祭り落語長屋』(同年5月公開)『落語長屋お化け騒動』(同年7月公開)>の音楽を鶏郎が担当した折も青柳が監督だった縁もあって、青柳と鶏郎は親しく交流していた。
『新鞍馬天狗』(第1話と第2話)の出演者は、小堀明男(鞍馬天狗役)、岡田茉莉子(おみわ役)、藤間紫(暗闇のお兼役)、志村喬(近藤勇役)、他。
劇中の挿入曲「角兵衛獅子の唄」(「角兵衛太鼓」)と「おみわ可愛いや」は、当時21歳の東宝スター、岡田茉莉子が歌った。

同年9月、伊豆の長岡で行われたロケに同行した三木鶏郎は多くのスナップ写真を残している。
(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

ディズニー映画

ウォルト・ディズニーが長編アニメーション映画の日本語版を作った最初の作品は「ダンボ」だった。
この制作にあたり、三木鶏郎は歌詞と歌・コーラスの音楽監督を依頼された。元来ディズニーファンの鶏郎は喜んで引き受けたが、オリジナル版の試写を見て愕然とした。歌もコーラスもその音楽的センスがあまりにも日本のそれとかけ離れ、自分ではとても手に負えないと思ったのだ。
間もなく本国からオーケストラ・スコアとレコードが届き、鶏郎は苦心の末、歌詞はなんとか音階に嵌めた。しかし歌とコーラスの方はいくら猛練習してもアチラの様にはいかない。この時、コーラスに参加したのが永六輔、荻須照之、中川雄策ら雑唱団であった。何度録音しても鶏郎は気に入らなかったが、オリジナルを知らない人が聴くと面白いと云われ、製作者からOKが出た。この録音がハリウッドに送られ編集され、54年3月、日本封切りとなり大ヒットした。何より喜んだのが子供達であった。そしてこの成功により、ディズニーは全作品の日本語版制作に踏み切ることになった。
当時、ディズニー・プロから来日していた技術部長で外国語版制作のベテラン、ジョン・カッティングが次の「わんわん物語」(56年初公開)も三木鶏郎を再指名し、日本語版監督、音楽監督、作詞を任せた。以後、「バンビ」(57年公開)、「白雪姫」(58年公開)、「ピノキオ」(59年公開)まで、全5作品でカッティング総指揮のもと、三木鶏郎が日本語版監督を務めることになった。
(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

テレビの時代

1958年11月、関西テレビ開局記念番組「これがコマーシャルだ」で三木鶏郎は初めて民放のテレビ制作に携わった。民放にしかできない番組を考え、内容は全てコマーシャル。スポンサー各社の商品を寸劇やミュージカルにして紹介していくという画期的なものだった。しかしこの時鶏郎は、テレビがナイナイづくしだと知らされる。タレントがいない、人材がいない、予算がない、時間がない...あるのは立派な機械だけ。「人間が電子に振り回されてフウフウ言っている」という感じであった。
この年鶏郎は、「タレント教室」を発足、また役者育成のために「TV工房」を設立しており、左とん平らがここに集まっていた。
59年、鶏郎はレギュラー番組二本を抱えることになり、冗談工房、音楽工房、TV工房を総動員し、企画、構成、脚本、音楽を一手に引き受け本格的にテレビに進出した。
その一つは『ヤマハタイム』(フジテレビ/毎週月曜日20:00-21:00)で、同年3月の開局時からスタートし2ヶ月経っていたが、暗礁に乗り上げ、鶏郎に助けを求めてきたのだった。鶏郎は、まず6月分5本を引き受け本格的な世相風刺ミュージカルの制作を試みた。
題して「六月のア・ラ・カルト」。第1回「狂」(マニア)、第2回「賭」(トトカルチョ)、第3回「欲」(エネルギー)、第4回「祭」(フェスティバル)、第5回「泪」(ウエット)と、あえて外国語を振り仮名にしたタイトルで視聴者の興味を魅いた。
毎回の撮影記録が台本、スナップ写真、録音テープに残されている。
ここから第1回「狂」を見てみよう。
冒頭、バケツを手に男が登場し、これをぐるぐる回すと突然頭上で止める。男はずぶ濡れ、そこにタイトル「狂」が映し出される。続いて、音楽、ゴルフ、洗濯、バレエ...と様々なマニアが三木鶏郎の音楽に合わせてミュージカル風に紹介されて行く。そして電話マニアの遠藤周作らゲストがスタジオから有名人に電話をかけてマニアぶりを実演。最後に精神科医の式場隆三郎がこれらマニアの社会的、個人的な心理分析をし座談会で締めくくる、という内容である。
第2回「賭」では、放送中にオートバイで靖国神社とテレビ間を往復できるか実際に賭けをし、第4回「祭」では、スタジオ内に本物そっくりの神社を作り、出演者、スタッフ全員が浴衣姿となり、
ご近所の社中に祭りを実演してもらっている。
どの回を見ても、当時良くこれだけ斬新なことが生放送で出来たものだと驚かされる。
もう一つの番組は、『ニッケミュージカルデザイン』(日本教育テレビ=テレビ朝日/ 毎週日曜日19:30-20:00)。
ドラム缶、公衆電話、ポスト、氷など、毎回一つの品物を中心にストリートミュージカルを展開した。
何でも出来そうなテレビだったが、ラジオの「音」で出来たことがテレビの「絵」では予算がないとまともに出来なかったり、『日曜娯楽版』的な風刺や批判精神を盛り込もうと目論んでも民放で風刺が難しいことは自明の理であった。やがて鶏郎は、テレビ制作から離れ音楽に専念することになる。
60年、冗談工房、音楽工房、TV工房を合併した有限会社「三芸」を設立。会社を若い人材に任せたが、64年に殺人事件が起こり解散となった。
しかしここからまた次の時代に向けて三木鶏郎の再建が始まるのである。
(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

コマーシャル制作現場(2)
船橋ヘルスセンター <長生きチョンパ> (1962年)

船橋ヘルスセンターは、55年11月、千葉県船橋市の海岸を埋め立てた10余万坪の敷地にオープンした巨大総合レジャーランド。当時のパンフレットによれば、「日本一大きい、日本一面白い、日本一安い(入園料120円)、温泉と海と娯楽の大デパート」とある。
埋立て地から湧き出した温泉が目玉で、大浴場は「大ローマ風呂」をメインに大小20個の浴槽が楽しめる趣向を凝らした作りであった。また温泉の他に、演芸場、結婚式場、遊園地、遊覧飛行用の飛行場、人工スキー場、ボウリング場といった娯楽施設が、次から次へと増えていった。

オープンから7年後の62年、三木鶏郎は、CMソング制作の依頼を受けた。発注の橋渡しをしたのが山川浩二だった。山川は、電通のラジオ制作要員として、『トリローサンドイッチ』『仁丹一粒エチケット』の制作プロデューサー兼ディレクターを務めたが、おのずと冗談工房への出入りも頻繁となり、やがて電通の全国支社支局から殺到する三木鶏郎へのCMソングを受注する窓口となる。いわば、トリロー番であった。

船橋ヘルスセンター初のCMソング制作にあたり、三木鶏郎と山川浩二は現地視察へ。まずは空から見てみようとセスナ機に乗って船橋上空を飛んだ。それから大浴場を見た。温泉につかった後、客達は、400畳敷大広間でショーを観ていた。二階からその光景を眺めると一階にずらりと並んだおじいちゃんとおばあちゃんが目に映る。「これがCMのお客さんだ」と三木鶏郎はつぶやいた。そして帰りの車の中で「♪長生きしたけりゃ チョッとおいで チョチョンノパ チョチョンノパ」が口をついて出た。
すぐに歌とアレンジが完成し、レコーディングに臨んだ。歌うは、この年迄に200曲余を歌っていたコマソンの女王、楠トシエ。
1番:お風呂(大浴場)、2番:宴会場、3番:遊園地、4番:ゴルフ、プールにボウリング、5番:モーターボート、6番:飛行機、7番:劇場ステージ、と園内をめぐる。その間、サウンドは、スイングからラテン、マーチとリズムを変え、楠トシエが茶目っ気たっぷり、パンチの効いた歌声を聴かせてくれる。
歌に合わせて横山隆一の漫画キャラクターで制作されたCF映像がテレビで流れるようになると、一度聞いたら忘れられないフレーズ、「♪船橋ヘルスセンター〜」は大流行。入場者数も増えて、コマソン効果は絶大だった。
(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

コマーシャル制作現場(1)
「小田急ピポーの電車」 (1962年)

三木鶏郎が手がけた鉄道のコマーシャルソングは全部で4曲ある。
「京阪特急」(58年)、「南海電車」(59年)、「近鉄特急」(61年)、そして「小田急ピポーの電車」(61年)。
鉄道のコマソンやご当地ソングを書くにあたって必ず現地に足を運び取材することにしていた鶏郎だが、旅好き、電車好きの鶏郎にとってこれは趣味を兼ねた楽しみな仕事であったに違いない。

「小田急ピポーの電車」は61年に発表され、ザ・ピーナッツが歌った。「♪小田急 小田急 ピポピポー」のリフレーンが軽快なメロディーとザ・ピーナッツの絶妙なハーモニーが耳に残る。
翌62年、本曲に併せたCF制作を任された鶏郎は、1月〜3月にかけてあらためてロケハンを組んで箱根に足を運んだ。
新宿から特急で箱根に着くと、歌詞の通り、バスやケーブルカーを利用し、遊覧船やロープウェイに乗った。そして周遊中の風景を同行カメラマンと共に撮影し、35ミリフィルム6本に残した。
この時鶏郎は、数年前に観たチェコの映画「悪魔の発明」(カレル・ゼルマン監督)を思い出した。バックに並べられる景色が全てイラストで描かれた不思議な世界で、これを真似してCFに取り込むことにした。そこで撮影写真をもとにアニメーションを作り、ロープウェイに乗る親子のみを実写にした。
結果、アニメーションと実写を織り交ぜたイメージ通りのCFに仕上がった。

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あの日のスタジオにて

『トリロー・コーラス』

1957年7月、文化放送『トリロー・コーラス』(森永乳業提供)が始まった。日曜を除く毎朝7:00-7:10(全国ネット、地方局は時間帯が異なる)放送。
先の『トリロー放送歌謡』同様、番組の趣旨は、三木鶏郎の楽曲を通じて「うた」に親しみ、皆で一緒に歌いましょうというもの。
「うた」について、三木鶏郎は、「キャンプで、酒場で、家庭でみんなが歌えるうた。クラシックでなく、流行歌でなく、軍歌でなく、イデオロギーでなく、小唄、浪花節の類いでなく、みんなの歌えるうた」と語っている。そしてその「うた」の多くは、三木鶏郎自身が作品リストで「リリカル・ソング」とカテゴリーした抒情的な歌詞と旋律を持つものである。

歌ったのは、古賀さと子、宮城まり子、フランキー堺、トニー谷、楠トシエ、雪村いづみ、芦野宏、岡本敦郎、ダークダックス、他。
一週間に一曲、それぞれ歌手が歌の指導にあたり、一日目、歌詞の朗読とちょっとした解説の後、全番を通して聴き、二日目、1番を練習、三日目、2番を練習...六日目に全番が歌えるようになり一曲のお稽古を終えるというスケジュールだった。

本番組のために書かれた新曲は、放送で流れたきりの作品もある。しかし当時のリスナーによれば、57年を経た今でもラジオで聴き覚えたその「うた」が耳に残り、口ずさんでいると云う。
また希望者に頒布したピース譜面は、表紙の色彩が鮮やかで楽しく、歌唱者の写真も掲載されたため、毎回心待ちにしたファンも多かった。

放送のコーラス人気に乗じ、同秋から銀座で「トリロー・コーラス教室」が開催された。ダークダックスや服部リズムシスターズらのゲストを招いて三木鶏郎が作曲法、和声楽の初歩等を教えるもので、多くの番組リスナーが集い学んだ。


(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

『トリロー放送歌謡』『仁丹一粒エチケット』

いずれも三木鶏郎が自らの音楽作品で構成した文化放送の番組。

『トリロー放送歌謡』(日東紡績提供)は、1956年4月2日スタート。日曜を除く毎日、午前11:20〜11:50の帯番組。
二週間に一曲、新しい曲を覚えてもらう目的で、それを歌う歌手から歌謡指導を受けるという内容だった。その第一回二週分は、同年、第一回東宝ミュージカルで上演した『泣きべそ天女』の中で雪村いづみが歌った同名タイトルの主題歌。鶏郎がオーケストラの指揮をし、時に生徒役として冗談工房在籍のコント書きやタレント志望者が聴取者代表として出演した。またピース譜面が希望者に配布された。その表紙は、新進気鋭の画家や漫画家がそれぞれ楽曲に合った情緒あふれるイラストを描いている。

『仁丹一粒エチケット』(森下仁丹提供)は、1957年4月8日スタート。毎朝6時40分から5分間の帯番組。制作、冗談工房。
ダークダックスが歌う「♪ジンジン 仁丹 ジンタカタッタッター」の軽快なオープニングテーマで始まり、格言めいたテーマにちなんだ歌とコントで構成する。
その第一回は、「カレンダーは一枚ずつめくれ」。
コントは、冗談音楽時代からのベテランや冗談工房のライターたちが集って選句会をし、三木鶏郎が選定した。レギュラーライターに山川浩二、野坂昭如、他。フランキー堺、森繁久彌、千葉信男、香椎くに子らが出演した。
1959年、ラジオ広告電通賞制作者賞を受賞した。

(文中敬称略)

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あの日のスタジオにて

みんなでやろう冗談音楽 (1954年8月8日〜12月31日)

1954年6月13日NHK『ユーモア劇場』最終回放送の翌日、三木鶏郎は、文化放送から『ユーモア劇場』の続きを打診された。
一ヶ月後、文藝春秋がスポンサーに名乗りを上げる。疲労困憊、心中複雑な鶏郎だったが、「冗談音楽」復活を望む声に応えることになり、『みんなでやろう冗談音楽』が誕生した。
初回は、8月8日「冗談音楽復活祭」と銘打たれ、放送に先立ち有楽町ビデオホール(蚕糸会館内)で公開録音された。総司会は、当時「オール読物」編集長の小野詮造(文春)。
番組前半は、有名文化人の挨拶、後半は、「冗談音楽」で、NHK時代末期に検閲でカットされたすべての作品が放送された。
同年12月12日、吉田内閣総辞職のニュースとともに三木鶏郎は番組の終了を宣言。翌週、御礼放送。
12月26日、大団円・第一部「忘年会冗談カーニバル」、31日、大団円・第二部「さよなら1954年」で幕を閉じた。

文中敬称略

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あの日のスタジオにて

NHK『歌の新聞』『日曜娯楽版』『ユーモア劇場』

1946年1月29日(午後7:50-8:00)、NHK『歌の新聞』第1回放送。繁田裕司は、仲間とともにコメディアン・ハーモニストの名前で出演。
持ち歌が「南の風が消えちゃった」を含め3曲しかない。そこで曲と曲の間に一口噺をはさみスピーディーにつなげた。好評を博し、昼の定時番組となった。この時、グループ名をミッキー・トリオに変えたが、出演者が三人とは限らなくなったため、漢字をあてはめ、「三木鶏郎」。アナウンサーが「とりお」を「とりろう」と読み違えた。以後、三木鶏郎みきとりろうグループと名乗る。

一つのコントがCIEの検閲に触れ、『歌の新聞』は半年で終了。翌47年に始まった『日曜娯楽版』で「冗談音楽」として復活した。俄に人気沸騰し、投書が殺到。まもなく『日曜娯楽版』本体も「冗談音楽」化していく。
51年、日本独立。米軍管理下から解放後、「冗談音楽」の次第に過激化する世相風刺、政治批判に、52年6月『日曜娯楽版』は、"発展的に解消、春風の如き柔らかな"『ユーモア劇場』と改名。

しかし局側主導の番組構成で、聴取率が急降下。そこで鶏郎が全てを任され策を講じた。人気は回復したが、政治的風当たりも再燃。そして「音楽だけ●●●●の放送」命令が密かに下る。鶏郎は、放送前日秘密裡に録音し、当日は姿を消した。
54年3月14日放送翌朝刊、社会面トップが「三木鶏郎、雲隠れ」とスクープ。この一件で鶏郎は、参考人として参議院電通委員会に喚問され、ほかから●●●●の弾圧の有無について答弁する。4月、大規模な贈収賄事件「造船疑獄」に世論が沸騰したことで、政治風刺に厳禁体制が敷かれ、検閲が始まった。台本に赤が入り、しまいに真っ黒に塗りつぶされた。間もなく番組打ち切りが決定。6月13日、『ユーモア劇場』は「さよなら冗談音楽」にて終焉した。

※ Civil information and Education Section 民間情報教育局

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トリ小屋風景

戦争が終わり復員し、東京・九段市谷の自宅に帰ってみると、一面の焼け野原。繁田夫婦は、そこに掘立て小屋を建てた。

「われわれの掘立て小屋は四畳半を横三つに並べそれに台所を継ぎ足した不思議な形と広さを持っていたが、畳は四畳半一戸分しかなく、あと二戸つまり九畳分は板の間で、その中に、軍隊時代習志野の下宿先まで持って歩いたオルガン、蓄音機、レコード、アルバム、書籍などがワンサとつまっていた」(「三木鶏郎回想録」より)

間もなく友人(のちの河井坊茶氏)が花嫁同伴でやって来て、四畳半の部屋を二つに切り分けての同居が始まる。

ここで久しぶりに作った歌「南の風が消えちゃった」が誕生。 皆で歌うと、歌は焼け野原の青空に広がって行った。やがて、掘立て小屋=鶏小屋第1号に並び、第2号、第3号が建った。

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あの日のスタジオにて