2026年7月21日 ヤマユリ揺れる

梅雨明け間近の土曜、八王子を流れる淺川の土手を歩いていると、一際目を引く花に出会いました。
オレンジ色のヤマユリです。
白いユリももちろん気品があって素敵ですが、このヤマユリの濃い色合いはどこか情熱的で、自然の中でも強い存在感を放っています。
そんなヤマユリを眺めていると、ふと頭に浮かんだ言葉があります。

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」

耳にしたことのある方も多いと思いますが、美しい女性の立ち居振る舞いを花にたとえた、よく知られたことわざです。
この言葉、江戸時代にはすでに原型が見られるとされているのですが、はっきりとした作者や最初の出典はわかっていません。
いわば、人々の間で自然に磨かれてきた表現なのです。
リズムも七五調に近く、都々逸のように口ずさみやすいことから、庶民の生活の中で広まっていったとも考えられています。

では、なぜ芍薬、牡丹、そして百合なのか。
それぞれの花には、きちんと理由があります。

まず「立てば芍薬」。
芍薬はすっと伸びた茎の先に、端正で美しい花を咲かせます。
その姿は正に、すらりと立った女性の美しさそのもの。
香りもやわらかく上品で、外見だけでなく雰囲気の美しさまで感じさせます。
次に「座れば牡丹」。
牡丹は枝分かれした横向きの枝に大きな花をつけるため、どっしりとした安定感があります。
中国では「花の王」とも呼ばれ、豪華さや気品の象徴とされてきました。
座っているときの落ち着きや華やかさ、そうした美しさを表しています。
そして「歩く姿は百合の花」。
百合は風に揺れると、しなやかに、少しうつむくように動きます。
その様子が、女性の優雅な歩き方に重ねられているわけです。
決して大げさではなく、自然で品のある動き。ここに日本的な美意識がよく表れているように感じます。

つまりこのことわざは、「どの瞬間を切り取っても美しい女性」を表しているわけです。
ただ顔立ちが整っているというだけではなく、立つ、座る、歩く、そのすべての所作に美しさが宿っている。
言い換えれば、外見と同時に内面の落ち着きや品格まで含めた、総合的な美の表現なのです。

さらに興味深いのは、この三つの花が咲く時期です。
牡丹は春の終わり、芍薬は初夏、そして百合は夏へと、まるでバトンをつなぐように順番に咲いていきます。
座っていた人が立ち上がり、やがて歩き出す、そんな時間の流れまでも、この言葉の中に重ねて見ることができます。

一方で、このことわざにはもう一つ、別の解釈があります。
それが漢方、生薬の効能を表した言葉だという説です。

例えば「立てば芍薬」。
これは気が立ってイライラしている状態に芍薬が効く、という解釈。
芍薬の根は、筋肉の緊張をゆるめたり、痛みを和らげたりする働きがあるといわれます。
「座れば牡丹」は、座りっぱなしで血の巡りが悪くなった状態、いわゆる「瘀血」に牡丹皮が効くという説明。
そして「歩く姿は百合」は、精神的に不安定な状態を百合が鎮める、というふうに読み解かれます。

語呂合わせとして面白いのですが、この説には少し疑問も残ります。
というのも、芍薬は主に筋肉のこわばりを和らげる薬で、いわゆる精神的なイライラを直接抑えるものではありませんし、百合も実際の漢方ではそれほど頻繁に使われる生薬ではないと言う指摘があります。
この漢方説は後から付け加えられた解釈、いわばこじつけに近い可能性が高いとも言われています。
やはり自然なのは、花の美しさになぞらえて、人の所作の美しさを語ったという本来の意味でしょうか。

現代でもこの言葉が残っているのは、おそらく単なる美人の表現にとどまらないからでしょう。
姿勢や動き、そして雰囲気。そうしたものが調和してはじめて生まれる美しさ。
「一瞬ではなく、連続する動きの中で完成する美」です。

ヤマユリを見ながらこの言葉を思い出したとき、そんな美しさは決して特別な人だけのものではなく、日々の立ち方や歩き方、ちょっとした所作の積み重ねの中にあるのかもしれない、そんなふうにも感じました。
加えて、男女供に、日々の暮らしから、人の佇まいは作られているのでしょう。

花を眺める時間というのは、ただきれいだと思うだけでなく、自分自身のあり方まで静かに問いかけてくる。
そんな力があると感じました。

今日の早口言葉  ゆっくり3回言ってみましょう

「土手のヤマユリゆらゆら揺れて百合より目立つヤマユリ揺れる」

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