14分53秒から始まった箱根駅伝への道——日本大学・冨田悠晟“20番目からの下剋上”

14分53秒から始まった箱根駅伝への道——日本大学・冨田悠晟“20番目からの下剋上”

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第101回箱根駅伝に、人一倍の悔しさを抱える選手がいる。日本大学で3区を走った冨田悠晟(4年)だ。
結果は区間20位。チームの順位を13位から19位へと落とした。憧れだった箱根駅伝の舞台に、打ちのめされた。

2025年1月2日、101回の箱根駅伝。91回目の出場を果たしていた日本大学に異変が起きていた。序盤からレースの流れに乗れずに遅れ、総合20位。シード権争いに加わるものと目されていただけに、衝撃が広がった。

聞けば、直前に体調不良者が続出。当日も混乱は続いた。4区出走予定だった高田眞朋(現3年)が40度を超える発熱で欠場。8区予定だった大仲竜平(現4年)が、早朝3時30分にたたき起こされ、急遽4区を走ることになった。スクランブル体制だったそうだ。
冨田も12月10日のチームエントリー後に胃腸炎になっていたと明かす。それも「プレッシャーへの対応ができなかった実力不足」としつつ、当時を振り返ってこう語る。

「めちゃくちゃ悔しくて、眠れないくらい夜も悔しい思いで……。競技者として、自分は上を目指していたので、この結果を受け入れられませんでした。結果として出てしまった以上は受け入れるしかないんですけど、葛藤があって……毎日泣いちゃうくらいきつくて、一人になると泣いてしまっていました」

昨年の夏は3ヶ月で合計3000kmを走り抜き、初めて掴んだ箱根駅伝の出走だった。積み上げてきた練習があるだけに、悔しさが募った。

立ち直ることができたのは、家族の言葉があったから。

「両親から『どんな結果であっても悠晟は頑張ったよ』って言ってくれて。親も悔しかったと思うんですが、次こそは家族に喜んでもらえる走りがしたいと思いました」

日大が掲げたスローガンは『古櫻復活』。10000m上位10名の平均は堂々の5位。シード権争いに絡む準備はできている

高校時代の持ちタイムは5000m14分53秒。高校生でも13分台が珍しくなくなった今、箱根駅伝を目指す選手としては傑出した成績ではない。箱根駅伝への夢を封印し、競技を辞めることも考えていた。

「自分の家がそんなに裕福な家じゃないっていうのは十分理解していました。親孝行は国立の大学に進学し、学費を抑えることだと思ってたんです。でも両親が『箱根に出てほしい、箱根を走っている姿を見たい』と背中を押してくれました。夢を追いかけるチャンスを、両親がくれました」

持ちタイム14分53秒は同期29人中20番目。特待生として学費が免除になるということもなかった。だから、がむしゃらに走ってきた。「一番走ったって自信を持てるくらいに走ってきました」と胸を張る。
2022年に65歳で逝去した小川聡元監督は、冨田にこう言ったという。「お前は距離さえ踏めば、どんな選手にもなれる」。その言葉は、特待でもエースでもなかった冨田にとって、走り続ける理由になった。期待してくれるなら頑張らなきゃと思えた。愚直なまでに努力を続けてきた。そうして、入学したときに“20番目の選手”だった冨田は、今や10000mとハーフでは学年トップにまでになった。

「14分53秒は本来なら箱根を走れるタイムではなかったと思います。でも両親は期待してくれたし、その期待に応えたいという想いが原動力でした。どんなにきつくても頑張ってこられました」

冨田にとって2度目の箱根駅伝が近づいている。現時点では補欠登録だが、順当であれば出走になるだろう。

学年の中で下剋上をしてきた冨田には、もう一つやらなければいけないことがある。それは“区間20番からの下剋上”に他ならない。あの時背中を押してくれたから箱根駅伝を目指せた。あの時支えてくれたから、箱根駅伝に向き合えた。憧れ続けた箱根駅伝で、結果を残すと、そう誓う。

それでも筆者は思う。両親への恩返しは、結果だけではない。堂々と走り切ること、その姿こそが恩返しになるのだと。

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