【インタビューvol.1】長野智子の原点と転機「諦めないでずっと壁の前をウロウロし続ければ、そのうち壁の中から扉が現れる」

【インタビューvol.1】長野智子の原点と転機「諦めないでずっと壁の前をウロウロし続ければ、そのうち壁の中から扉が現れる」

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4月1日から平日夕方の生ワイドとしてスタートする新番組『長野智子アップデート』
番組パーソナリティを担当する長野智子さんに、文化放送での思い出や、これまでの歩み、新番組にかける思いなどをうかがいました。
全3回の連載でお届けする第1回です。

目次

  1. 外の世界へつながる扉としてのラジオ
  2. 何もわからないまま飛び込んだラジオの世界
  3. 人生の転機になった偶然の再会
  4. 新人アナウンサー時代に芽生えた思い
  5. 畑違いのバラエティーで感じた壁

外の世界へつながる扉としてのラジオ

── まず、「長野さんとラジオ」ということで、リスナーとしてラジオを聴いていた時期があればお聞きできればと思うのですが。

長野 中学・高校の頃、夜11時から2時ぐらいまで、勉強をしながら深夜放送をよく聴いていました。あと、英語の勉強をしたくて、アメリカのFEN(在日米軍人向けラジオ放送:現AFN)も聴いていました。深夜放送は、中島みゆきさんや桑田佳祐さん、浜田省吾さんといったミュージシャンの方たちの番組を聴くことが多かったですね。

自分自身を振り返ってみると、幼稚園から高校までの一貫教育で、同じ顔ぶれの友人たちとの狭い世界で育ちました。だから、私にとってのラジオは、外の世界へつながる扉のような存在でした。すごくセンスのいい音楽が流れていて、素敵なお兄さんやお姉さんが面白い話をしていて。しかも、私の周りに一人もいないタイプの大人なんですよね。「いつか私も大人になったら、あんな世界に行ってみたい」という憧れの気持ちで聴いていました。

── 音楽という面では、FENを聴いていたということは海外の音楽に触れる機会も多かったのではないでしょうか?

長野 そうですね。ベイ・シティ・ローラーズ、イーグルス、クイーン、デュラン・デュラン、ロッド・スチュワートなど、ラジオを通じて数多くのアーティストを好きになりました。

何もわからないまま飛び込んだラジオの世界

── 長野さんと文化放送といえば、大学時代にパーソナリティを担当した『ミスDJリクエストパレード』(出演:1982年12月~1983年6月)ですが、この番組に出演するようになったきっかけを教えてください。

長野 当時、大学の先輩に頼まれて、マスコミ関係者と学生の交流パーティーに参加したんです。そこで知り合った芸能事務所の副社長さんから「文化放送でラジオのオーディションがあるんだけど、受けてみない?」と、お声がけいただいて。急なことで戸惑いました。その頃は学費のために家庭教師などのアルバイトをしていたのですが、合格すればそれを凌駕するほどの出演料だったので「受けます!」と(笑)。そんな気持ちで受けて、たまたま合格してしまったんです。

── ラジオ未経験の大学生がいきなり喋ることになるわけですよね。怖さはなかったのでしょうか?

長野 自分とは全く関係のない世界だったので、わからなさすぎて怖くない、という感じでした。ただ、それが大きな間違いでもあったわけですけど(笑)。

── 初回の出演はどんな感じだったのでしょう?

長野 拙い喋りで、ところどころで黙ってしまったり、ひどかったと思います。初回からディレクターに怒られました。こんなに下手だと思わなかったんでしょうね。そこから地獄のスパルタが始まります。深夜0時半から3時までの生放送が終わって、その日の放送の反省会。いろいろとダメ出しをされて、いい加減しょんぼりしているところに、「じゃあ今日はマイクの前で100回『ありがとう』って言ってから帰れ」と。つまり、普通にありがとうと言っただけでマイクの向こうに感謝の気持ちが伝わる喋り手がいるんだ、と。でも、当時の私は何を言われているのかわからないし、泣きながらやっていました。

── それは泣きますね。

長野 そのディレクターさんとは、今では一緒に飲みながら「私の青春をどうしてくれるんだ!」と冗談を言える仲になりましたけど。あと、渋谷公会堂の番組イベントのときに1人で歌わされたこともありました。もうね、“無理ゲー”ですよ!(笑)。

だけど、その一方ですごく嬉しい出来事もありました。私、デュラン・デュランが大好きで番組でもよく曲をかけてもらっていたのですが、あるときレコード会社の方から「ロンドンでデュラン・デュランに会いませんか?」と。すぐ渡英して、アビー・ロード・スタジオでデュラン・デュランにインタビューさせてもらったんです。緊張と喜びで吐きそうになりました(笑)。ただ、結局つらいほうの気持ちが上回って、半年でパーソナリティを終えることになりました。

『ミスDJリクエストパレード』出演当時の長野智子さん

人生の転機になった偶然の再会

── その半年で何か得たものはありましたか?

長野 マイクの向こうに「ありがとう」という気持ちを伝えること。私は最後までそれができませんでした。ただ、もしそんな喋り手になることができたら、これから生きていく上ですごく素敵な人になれるかもしれない。いつの日か、そういう人になってみたい。そんな思いが自分の中に残ったことを覚えています。

── その後、テレビアナウンサーの道へ進みます。

長野 大学4年生の就職活動のとき、マスコミは向いてないから元々の希望だった英語教師になろうと、教育実習の手続きを進めていました。そんなとき四谷の路上で、あのディレクターさんにばったり会うんです。「おお智子! 何やってんの?」って。学校の先生になろうと思って、という話をしたら、「もったいないな。俺はね、あのメンバーの中でお前がいちばんアナウンサーに向いてると思ったから厳しくしたんだ」と。驚愕ですよね。なんなら「あなたに散々叱られてこの世界を断念したんですけど」というぐらいの気持ちなわけで(笑)。でも、その言葉を聞いて、「あれ!? まだこの選択肢があるのかな…」って。それが人生の転機でした。メディア系の募集を見たら、1社だけフジテレビが残っていて。その試験に受かったんです。

── アナウンサーを目指す方は、アナウンススクールなどに通ってトレーニングを受けるというイメージがありますが。

長野 私以外の同期は全員通っていました。私は『ミスDJ』で挫折したので、もちろん何もしていませんでした。教師になろうと思っていたわけですし。ただ、『ミスDJ』をやっていて良かったと思ったのは、「上手な人の真似をしても駄目なんだ」と気づけたことですね。『ミスDJ』のときは、他のパーソナリティの皆さんがすごく素敵で、その人たちの真似をしようとして失敗していました。その経験のおかげで、フジテレビの採用試験のときは素の自分で臨むことができましたし、人前で喋る度胸もついていました。

だから『ミスDJ』で得たものは、やり遂げられなかったという後悔と、アナウンサーの道へ進むきっかけをいただいたこと。この経験がなかったら今の自分はないと思っています。

新人アナウンサー時代に芽生えた思い

── 1985年、フジテレビに入社して、アナウンサーとしての新人時代を過ごすことになります。

長野 入社後の研修が始まるわけですけど、先ほども言ったように、私以外は全員、アナウンス研究会やアナウンススクール出身者で優秀。私だけできないことが山ほどあったんです。『ミスDJ』に続いて「また私、できないわ…」と。休日になるとアナウンスの先生の自宅に呼ばれて補習を受けたり、もう散々なわけです(笑)。そのときはまだ、アナウンサーとして何をしたいかという志望も持っていませんでした。

そんなふうにアナウンサーとしての道を歩みはじめた年の夏、8月12日に、日航機墜落事故が起きました。スタジオで露木茂さんがずっと一人でニュースを伝え続ける姿を目にしながら、泊まりがけで関連取材のお手伝いをしたり、大きな報道の現場を初めて経験しました。

── その現場で何を感じましたか。

長野 いま事件が起きている現場に足を運んで、何かを伝えるという仕事があるということ。その最前線で頑張っている人たちを見て、新人ながらに「私もこうなりたい」と感じました。そのとき初めて、「報道をやりたい」と上司に伝えました。

その後、秋から夕方のニュースの天気予報を担当して、2年目からは朝の情報番組の司会を担当しました。報道の道に進むアナウンサーとしては、「天気予報からスタートして、朝の枠、昼の枠、そして夜の報道番組」という流れが当時の定番コースだったので、そのコースに乗れたと思って一生懸命取り組んでいました。そしたら突然上司に呼ばれて、「長野くん、10月から『オレたちひょうきん族』だから」と。

畑違いのバラエティーで感じた壁

── 報道をやりたいという思いが芽生えたところで、バラエティーに。

長野 「なんで?」って思いました。ただ、当時のプロデューサーの横澤彪さんが「絶対面白くなりそうだから使いたい」と言って私を指名してくださったという話を聞き、ありがたいと感じて、気持ちを切り替えました。

── 担当コーナーの「ひょうきんベストテン」には、たくさんの芸人さんが次々と登場します。その司会をしなければいけない。報道とは全くの異空間ですよね。

長野 ニュースなら、下手なりに努力の仕方があるんです。読み方の練習をしたり、時間の感覚を体で覚えたり。それが『ひょうきん族』では、台本を開けば「(ここで楽しいお喋り)」と書いてあるだけ。「マジか…」と(笑)。ディレクターからは「流れを壊すな」とか「空気を読め」とか、努力の仕方がわからないことしか注意されないんです。

どうしていいかわからなくなって、休日になるたびに新幹線に乗って、大阪のうめだ花月に行きました。一日中、芸人さんがどんなところで笑いを取っているのか、メモを取りながら観ていました。

── 陰でそんな努力をしていたんですね。

長野 それでも悩みが尽きることはなかったので、2か月ぐらい経ったとき、横澤さんに「ちょっとどうしたらいいかわからないです」と相談したんです。そしたら横澤さんが「世の中には天才っていうのがいるんだ。たけちゃん(ビートたけし)やさんまちゃん(明石家さんま)のような人だね。目の前に壁が現れたとき、天才たちは自分の力で登って、壁の向こう側に行く。だけど、長野みたいな普通の人は、自分で壁を登ろうとすると落ちて怪我をするから、登らなくていい」と。「その代わり、諦めないでずっと壁の前をウロウロし続ければ、そのうち壁の中から扉が現れる。扉が現れたら、その扉を開けて向こうに行けばいいから」と。天才と自分を分けるという考え方も初めてでしたし、「そうなんだ」と、気が楽になりました。時間が経つにつれて共演者の芸人さんにもかわいがっていただけるようになり、いつの間にか皆さんの記憶にある、あの仕上がりになっていました(笑)。

【インタビューvol.2】はこちら▶https://www.joqr.co.jp/qr/article/119356/

【インタビューvol.3】はこちら▶https://www.joqr.co.jp/qr/article/119897/

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