日本とポーランド 百年を超えるつながり~ニュースパレード鈴木敏デスク取材後記

日本とポーランド 百年を超えるつながり~ニュースパレード鈴木敏デスク取材後記

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ウクライナ問題で世界の注目を集めるポーランド 日本との100年を超える縁

3月18日に放送したニュースパレード取材、ポーランド大使インタビューの取材後記。

余談から始めると、私(鈴木敏)は去年の10月、ラジオドキュメンタリー「命のビザを託されて~杉原ビザを繋いだ人たち」という番組を制作して放送した。太平洋戦争の始まる前、リトアニアの首都カウナスで駐日リトアニア領事代理を務めていた杉原千畝が、ユダヤ人救出のために外務省の意向に逆らってビザを発給し、多くの人たちを助けた史実をベースにして制作したものだ。

杉原の勇気ある行動は後に世界から称えられ、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」に名誉ある賞が贈られた。今も杉原が活躍したリトアニアには「スギハラ通り」がある。ここまで書くと、「杉原千畝の名前も、彼が行った偉業もお前さんに言われなくても知ってるぞ」という話になるのだが、それでも番組を制作したことには理由がある。それは旧知の放送作家の一言だった。

ユダヤ人の方たちをアテンドしたのはJTBらしいです

彼は言った。「知ってます?杉原ビザで日本に来たユダヤ人の人たちをアテンドしたのはJTBらしいですよ」 この記事を読んだ皆さんも驚かれたと思う。正確には当時ジャパン・ツーリスト・ビューローという社名だったそうだが、「歴史の話」と「旅行代理店がアテンドした話」の間の乖離が大きすぎる。アテンドなどという言葉が、今から80年以上前にあったのかどうかも分からないが、とにかく「杉原ビザ」と「JTBがアテンド」の2つの言葉がどうしても結びつかず混乱した。しかし、冷静に考えてみれば不思議なことではない。確かにビザを手にしただけでは、一足飛びに日本には来られないしアメリカにも行けないのは当たり前の話だ。単純な理屈だが、今まで考えたことは無かった。「そもそもどのようなルートで日本にやってきたのか?」「切符も買わねばならないが、果たしてそのお金はあったのか?」「なぜ領事代理のハンコだけで日本政府は許可を出したのだろう?」「そう言えば日本ではどうやって生活していたのだろうか?」「アメリカ行きの費用はどのように捻出したのだろうか?」 素朴な疑問の数々が湧いて止まらない。一方でなぜか「アテンド」という言葉で、歴史の話だった杉原ビザの物語がぐっと近しい出来事のようにも感じられた。

書けば長くなるが、大きくまとめて話すと、ユダヤ人救出のためにアメリカのユダヤ人社会が資金を準備した。そして最終的に彼らを日本に連れてくる業務を請け負ったのが現在のJTBだったということになる。物事には結果の前に過程がある。映画であれば、杉原ビザを握りしめてシベリア鉄道に乗りこんだところでエンドロールが流れてくるかもしれないが、現実世界だとそうはいかない。過程にこそドラマがあるのだと思う。

他にも大勢いた「杉原千畝」たち

調べると、杉原の他にも英雄が沢山いたことがわかってきた。例えば、根井三郎という気骨溢れる駐ウラジオストックの領事代理がいた。杉原ビザという「命の切符」と本物の「鉄道切符」の両方を手にシベリア鉄道に乗った人たちは、シベリアのウラジオストックに着く。ウラジオストックの港から船で福井県の敦賀港に渡ろうとするのだが、そのことに外務省の本省は反対した。しかし、根井は外務省の命令に逆らってユダヤ人たちに乗船の許可を与えたのだ。この根井の勇気ある行動は、杉原と比較しても遜色が無い。そして、杉原と根井が旧知の間柄であったという事実によって、2人が阿吽の呼吸で連携したのか、あるいは単なる偶然だったのかなど新たな憶測を呼ぶ歴史ロマンでもある。

そういった様々な人たちの努力と決断で来日したユダヤ人たちであったが、日本政府は彼らがすぐに第3国に向かうことを前提にしていた。つまり日本を「通過地点」とすることしか認めなかったのだ。しかし、アメリカなど第三国にスムーズに渡って行くことのできる財力やコネクションを持つものはごくわずかで、大半の人たちは命からがら日本に到着するのが精いっぱいだった。そこで小辻節三というヘブライ語学者が命を削る思いで、日本政府に働きかけ最大一年の滞在延長を勝ち取ったのだ。

市井の人たちの助けも大きかった。ウラジオストック敦賀間の航路でアテンド係を務めた添乗員の大迫辰雄(ジャパン・ツーリスト・ビューロー社員)や、港に到着する髭を蓄えるなどした「埃まみれの見知らぬ外国人たち」を気にせず銭湯に入れてあげた朝日屋の主人など、杉原ビザのバトンを受け取った人たちが大勢いた。無理やり野球に例えてみると、大谷の活躍でWBC日本代表チームは優勝したわけだが、大谷ひとりが野球をしたわけではない。懸命の力投をした今永投手や若手にアドバイスを送り続けたダルビッシュ投手、ピンチをはねかえした吉田選手のホームランや村上選手の劇的なサヨナラヒットなど一丸となった頑張りがあったことと同じだ。ユダヤ人救出劇でも、皆がMVPをもらうべきだと思える話が沢山隠れていた。

忘れてはならない2人の外国人

とは言え、取材時間にも放送枠にも限りがあり、全ての人たちを紹介することはできなかった。そのことが喉に刺さった魚の骨のように気になっていた。中でも本来は紹介すべき外国人が2人いる。ひとりはオランダの駐リトアニア名誉領事のズヴァルデンディク。彼はオランダ領であるカリブ海のキュラソーへ向かうための「見せかけのビザ(キュラソービザ)」を発給し、多くのユダヤ人を逃がした。

そしてもうひとりは、タデウシュ・ルドヴィク・ロメルという1939年に着任した初代の駐日ポーランド大使だ。なぜポーランドなのかと言えば、実は日本に避難してきた人たちの大半はポーランド国籍だった。ユダヤ系ポーランド人ということになる。敦賀で難民を受け入れたロメル氏を中心とするポーランド大使館の職員たちは、アメリカやカナダ、パレスチナ、南米などへの出国ビザの発行に懸命に力を尽くした。前出の小辻節三と同様に、難民のビザの延長も日本政府に働きかけたと言われる。しかし前出の番組では、ロメル大使の尽力について触れることができなかった。

日本に避難したユダヤ人たちが多く暮らした神戸の神戸ジューコム跡地 日本人にいかに親切にされたかという回想文も表示されている

日本が救ったポーランドの子供たち

実は日本とポーランドの縁はそれだけではない。第一次世界大戦後の1920年には、孤児となり栄養失調状態にあったポーランドの子どもたち760人余りが赤十字の助けで来日し、日本で健康を回復すると、シベリアではなく故国のポーランドに帰っていったという歴史的事実があるのだ。子供たちは横浜港を離れる時に。君が代を歌って泣いたという。100年前の孤児の問題も、実はロシアに起因している。ロシアによって強制的にシベリアに連れて来られたポーランド人たちがロシア国内の内戦に巻き込まれ、そのまま捨て置かれてしまったのだ。諸外国も一斉にシベリアから退避した中、親が餓死や凍死で亡くなって孤児となり生死の境にいた子供たちに手を差し伸べたのは日本だけだったという。そしてその人道援助の際に、シベリア鉄道を経由して船で敦賀港に渡るというルートが整備された。そして実はそのルートが約20年後に再び使われ、杉原ビザを握りしめたユダヤ人の逃避行が行われたのだ。このような過去のエピソードを日本人は忘れがちだが、ポーランドの人たちは忘れていない。

ちなみに当時ポーランドの子供たちが療養した福田会(ふくでんかい)という社会福祉法人は東京に現存している。現存しているどころではない。東京新聞の記事によると、現在福田会は、ポーランドでウクライナ難民の支援活動に取り組んでいるという。人情も支援の輪も100年の時間を越えてつながっているのだ。

このように語ってゆくと、排他的だったに違いないと思い込んでいた戦前の日本の方が、今よりずっと人としての感情が豊かで、かつ外国との連携も積極的でダイナミックだったのではないかとすら思ってしまう。今、日本の国会では入管難民法について激しい議論が交わされているが、難民をどのように受け入れるのかという大きな課題へのヒントも与えてくれる。時間軸が違うので単純な比較はできないが、100年前から学ぶべきことは多々あるのではないだろうか。過去と現在はつながっている。

そのような経緯で、先述の番組「命のビザを託されて」でお世話になったジャーナリストの北出明さんの紹介で、駐日ポーランド大使のミレフスキさんに直接お話を伺うことになった。

スマートなミレフスキ駐日大使と肥満気味の鈴木

ミレフスキ大使に伺ったのは、そのような歴史の話だけではない。現在のウクライナ問題は、隣国ポーランドの存在抜きには語れない。ウクライナ難民をもっとも多く受け入れているのはポーランドで、その数は、実に300万人近くに上っている。彼らウクライナ難民が第三国に避難する際の通過点の役割を果たしてきたのもポーランドだ。ウクライナとの国境に近い街に、一時多くの日本人ジャーナリストも集まっていたことを記憶している方も多いと思う。ポーランド抜きで彼らウクライナ難民の脱出は極めて難しかった。ロシアによる攻撃が迫る中でも、駐ウクライナ大使は退避をしなかったし、ロシアによる侵攻後も、チェコ、スロベニアの首脳とともにポーランドの首相がキーウを電撃訪問したことが記憶に新しい。

なぜポーランドがここまでウクライナを助けようとするのかと言えば、歴史的な理由に依拠する。ポーランドは1918年に独立を回復するが、それまではドイツやロシアなど周囲の大国に123年間に渡って領土を侵略され続けてきた辛い歴史を持つ。戦後も共産圏に組み込まれロシアの脅威と背中合わせで生きてきた。だからポーランドにとって、現在ウクライナで起きていることは他人事ではない。ちなみに両国の宗教は共にキリスト教だが、ウクライナが主にウクライナ正教、ポーランドが主にカトリックなので少し違う。ただ同じスラブ民族であり、言葉も似ている。ロシアの侵攻前からポーランドにはすでに多くのウクライナ人が生活していた。驚くべきことに、現在ポーランドに避難しているウクライナ人は、公的な医療を無料で受けられるそうだ。大人は働くこともできるし、子供たちは学校に行くこともできる。一般市民の受け入れ態勢も極めて温かいものだという。

ミレフスキ駐日ポーランド大使インタビュー

放送から少し間が開いてしまったのだが、3月18日に「ニュースパレード」で放送したパヴェウ・ミレフスキ駐日ポーランド大使のインタビューの一部を紙上再録する。

とても温かい人柄を感じさせるミレフスキ大使。2019年に着任。中国通としても知られる

Q:日本がウクライナ問題で果たす役割をポーランドとしてはどのように考えていますか?
A :日本がウクライナ支援において果たすことのできる役割は非常に大きいと言えています。なぜなら、日本は民主主義の国であって、国際社会の秩序と平和を重視している国だからです。日本はアジアの中でも最大の支援国の1つであり、また今年はG7の議長国でもあり、さらに国連の非常任理事国にもなりました。日本には戦後あれだけのダメージを受けた中から復興したと言う歴史があります。だから今回ウクライナに支援することの意味は非常に大きいと思います。そういった戦後の復興を経験しているだけではなく、経済大国でもあり経済面で果たす役割も大きいのです。そして日本がウクライナに対して行っている支援は、政府主導のものだけではなく、一般の人たちが自ら進んで行っていることも大きい意味があります。ロシアによる非常に野蛮な戦争に対して、日本は豊富な支援をしていて、またポーランドと協力して支援をすると言う取り決めもできています。

Q:日本ではまだまだポーランドという国について知っている人が少ないですね

A:日本の若い人たちに、日本とポーランドの歴史を知ってほしいと考えています。日本はポーランドの独立を最初の段階で認めた国の1つであり、そういった関係で日本とポーランドの関係は非常に深いものがあります。残念ながらご存じの方は少ないかもしれませんが、そういった点を特に知って欲しいと考えています。特に知って頂きたい点が3つあります。1つはシベリア孤児の問題で、100年余り前にウラジオストックから敦賀に来た孤児たちが最終的にポーランドに帰ることができたのですが、その問題で日本とポーランドが協力を深めたということがありました。もうひとつは外交の面です。リトアニア・カウナスの領事であった杉原千
畝氏と初代駐日大使になったロメル氏がポーランドから来た難民を救ったという物語がありました。そして3つ目が東日本大震災後の支援で、ポー ランドから日本に対して多くの支援を行われました。特にこの3つが大きな日本とポーランドの関係を表す支援のエピソードです。この3つの出来事によって、日本とポーランドの絆は非常に深まりましたが、それが良い形で現れているのが、現在起きている戦争における避難民支援です。ポーランドは世界最大のウクライナ難民受け入れ国ですが、日本も多くのウクライナ難民を受け入れていて、互いに協力しあい、歴史上築き上げてきた絆というものを維持しています。※インタビューは以上

追記

そう言えば、2019年に韓国で制作され、去年日本でも公開された「ポーランドへ行った子どもたち」というドキュメンタリー映画を観たのだが、これは先ほどのポーランド孤児の話と逆だった。1950年代に朝鮮戦争のために孤児となってしまった北朝鮮の孤児たち約1500人を、ポーランドが迎え入れて8年に渡って面倒を見たというのだ。ポーランドを離れる時に子どもたちは帰りたくないと言って泣いたと言う。韓国でも今まで知られていなかった史実に焦点をあてた作品だった。困った時はお互い様だという精神がポーランドにはあるのだと思う。精神という言葉を人情という言葉に置き換えて考えてみた。      鈴木敏

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