2018.7.03

「友情」「努力」「勝利」。 ボクらは『少年ジャンプ』から学んだ。

nmt事務局
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文化放送The News Masters TOKYO「マスターズインタビュー」。


今回のインタビューのお相手は、国民的漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」の4代目編集長、後藤広喜(ごとう・ひろき)さん。少年ジャンプの創刊時から編集者として携わっていた後藤さんは、1986年〜1993年の黄金期に編集長を務めた。


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<「少年ジャンプ」の誕生秘話!>


タケ小山のインタビューは、「少年ジャンプ」の1968年創刊当時についての質問からスタートした。
「創刊当初、どんな苦労がありましたか?」


後藤さんは、当時の状況を語った。
「一番の難題は、創刊した時、描いてくれる漫画家さんがいなかった。大家と言われる漫画家さんや人気のある漫画家さんは、口説き落とせない。理由は、大手の出版社が、有名な漫画家さんを抱え込んで離さなかったから。苦肉の策で、まだどこにも発表していない新人漫画家に目を付けた。新人賞を募集して、メインに新人漫画家を起用した。しかし、まだ海の物とも山の物ともつかない新人を集めても、本当に雑誌が出来るのか疑問が残った。そこで編み出したのが、「カセット方式」。新人に、ストーリー漫画なら31Pの読み切り形式で描いてもらう。ギャグ漫画なら15P。創刊メンバーの漫画家達が、もし人気が出なくても、もし描けなくて穴を空けたとしても、すぐに穴埋めが出来るよう、新人が描いた漫画を、描き溜めをして、原稿をストックしておいた。カセットを入れ替えるように、漫画の入れ替えが出来るのが、「カセット方式」。新人漫画家は掲載してもらいたいから、連載が決まっていなくても描く。その穴から生まれたのが、なんと、本宮ひろ志さんの『男一匹ガキ大将』!この漫画を掲載した途端、反響を呼び、見事、連載を勝ち取ることになった」


他にも、同じ頃連載が始まったのが当時新人の永井豪さんの『ハレンチ学園』この両作品が創刊時のジャンプを引っ張ったという。


これを聞いたタケは、懐かしみながらも大変驚き、興奮冷めやらぬ面持ちだった。




<編集者と漫画家の関係とは?>


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実は、理学部出身の後藤さんは、漫画のことはほとんどわからないまま、少年ジャンプの編集に任命されたという。そんな後藤さんに、編集者として駆け出しの頃の話を伺った。


「最初についたのは、野球漫画『父の魂』を描いた貝塚ひろしさん。なかなか原稿を描いてくれない。手伝いで通い詰めて、先生が眠そうになったら起こしていた」と話し、タケと2人で笑い合った後藤さん。続けて、「その後、『アストロ球団』の中島徳博さんと、『ドーベルマン刑事』の平松伸二さんの担当になった。この2人は甘やかさずに、最初から厳しくやろうと。結果、締め切りはきちんと守ってくれた」と話す。


野球漫画を描いていた中島さんは、なんと、野球を知らなかった!ルールすら知らない。バッターが打ったら1塁に走る?といった基本的なルールも知らないからこそ超人野球漫画という奇想天外な漫画が出来たという。
そんな新人の育て方について伺った。


「新人さんにとって、マガジンやサンデーは敷居が高い。その点、『少年ジャンプ』は、登竜門的存在。ハングリー精神の塊の新人さんは、最初の読者が編集者となると、相手が新米編集者だろうが、ベテランだろうが、編集者の言う事を信じるしかない。時には、言う通りにして、変な方向に行く場合もあった」と、後藤さんは語った。驚きあり、笑いありで、終始、和気あいあいと話が進んでいった。




<漫画戦国時代到来!>


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1970年代にその名の通り、漫画週刊誌首位に飛躍した「ジャンプ」。そのジャンプに追いつく勢いのあった他の漫画雑誌に、どのように対抗したのか。


「ジャンプの発行部数が200万部の頃、チャンピオンに肉薄された。チャンピオンは当時、『がきデカ』、『ドカベン』、『マカロニほうれん荘』、『ブラックジャック』など、強い漫画を揃えていた。1980年代に入り、ジャンプの発行部数が300万部に到達した頃、今度は少年サンデーに、『タッチ』、『うる星やつら』などの、ジャンプにないラブコメディカラーで肉薄された。ジャンプも迷走中の時期があり、従来の『血と汗と涙』の、いわゆる『熱血硬派』路線に、ラブコメディなどのさわやか系を入れたほうがいいのでは?という、スタッフの意見があった。しかし、最終的な決断は、ジャンプの読者は『対決漫画』と『ギャグ漫画』が好きであり、この路線を崩したらダメだということ。自分達の得意な分野を貫いていこうということだった。その時期に登場した漫画が、『北斗の拳』。これがジャンプの漫画だ、という、革命的な漫画だった。『北斗の拳』の連載が始まった年の暮れに、低迷していた部数を、再び300万部に伸ばし、翌年に400万部を突破した。こうして『北斗の拳』が、わずか1年で100万部も伸ばした立役者となった」と、後藤さんは詳しく説明してくれた。一方で、読者アンケートで下位を低迷する漫画はどんどん連載終了させた。温情をかけてはいけない。嫌な奴だと思われるくらいでないと雑誌運営はできない。


後藤さんの口から懐かしい漫画の名前が出る度に、タケは、少年のように目をキラキラさせていた。




<「友情」「努力」「勝利」>


ジャンプのキャッチコピーである「友情」「努力」「勝利」は、どうやって生まれたのか。


後藤さんは、「初代編集長の長野規(ながの・ただす)さんは、自分達が作っている雑誌の読者の、頭の中からポケットの中身まで、全部を知らないとダメだという方針の持ち主だった。そういった意味合いもあり、毎週、アンケートをとっていた。そのアンケートで、読者に、30ほどの単語の中から、『心温まる言葉』『大切だと思う言葉』『嬉しいと思う言葉』の3つを選んでもらった。その結果が、それぞれ『友情』『努力』『勝利』だった」と、今やジャンプの代名詞とも言える揺るがないポリシーについて語ってくれた。


毎年、同じアンケートをとっていたが、結果は毎年、変わらなかったという。また、『あなたの悩みは何ですか?』という意識調査で、『進路』『学校の成績』『おこづかい』『運動能力』の4つが、差がなく、毎年のように上位にランクインしていたそう。


「アンケート結果の『成績』や『運動能力』は、平等ではないからこそ、その才能を持ちたいと思っている証拠。決して諦めていないということ。そこから、ジャンプの読者は、健全で前向きだということがわかった。そういう読者に向けて漫画を作っていく。そう考えると、キャッチフレーズとして「友情」「努力」「勝利」はわかりやすいし、編集方針にも合っている」と、後藤さんは、キャッチコピーの素晴らしい誕生秘話を聞かせてくれた。




<ジャンプ漫画に込められているメッセージ>


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タケも夢中になったという人気漫画「ONE PIECE」についても後藤さんの見解を尋ねた。


「『ONE PIECE』を描いた尾田さんは、次郎長三国志が大好き。『ONE PIECE』のような海洋冒険は、新しいジャンル。尾田さんが初めて描いたと言っていい。『ONE PIECE』の中に、次郎長三国志や浪花節、歌舞伎の見得の切り方などを入れてくるセンスは、やっぱりすごい。古いものを取り入れているのに、古くなっていない。日本人の感性の昔からあるもの、それを活かしている」日本の伝統文化が、作品の中で活かされていることが嬉しいと語る後藤さん。


最後にタケは、漫画の物語の変遷について聞いた。


「もともと、ジャンプは戦いの漫画が多かった。『キン肉マン』や『キャプテン翼』の頃までは、スポーツや格闘技で戦うという"試合"だった。ところが、『北斗の拳』以降、悪人との戦いがメインになってきた。試合ではなく"戦闘"に変わってきた。悪人は悪人でも、身近なところで言うと"いじめ"がある。それも、無視のような陰湿な"いじめ"。いじめられている人間の大切にしているものを内側から壊していく"いじめ"。そういった漫画を描いたのが、荒木飛呂彦さんの『ジョジョの奇妙な冒険』や、森田まさのりさん『ろくでなしブルース』。そういう意味では、少年ジャンプの漫画は、時代を先取りしているところがある。漫画を読む時に、時代背景まで読み取ってもらえると、漫画家さんは、より描きがいがある」と、後藤さんは、漫画家目線で語ってくれた。


新しい作品・時代を先取りする漫画を描いてもらいたいという、読者にではなく漫画家に向けたメッセージが込められた、編集長らしい話の締めくくりだった。


読者に夢を与え続ける「週刊少年ジャンプ」の裏側には、後藤さんのような編集者の強いこだわりとひたむきな努力が隠されていたのである。

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