「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第2章 マルチェリーノ、憧れの日本へ

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第2章 マルチェリーノ、憧れの日本へ

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文化放送は今から70年前、イタリア人の神父たちの手によって設立されたことをご存知ですか?異国の地で東奔西走しながらラジオ局を開局させるまでの秘話を、連載形式でご紹介しています。※毎週火曜日更新

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第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

 

第2章「マルチェリーノ、憧れの日本へ」

 

   若きマルチェリーノが修道院の活動に汗を流していた時期は、ヨーロッパ中を巻きこんだ第1次大戦と第2次大戦の狭間になる。イタリアはどちらの大戦にも関わっているので、マルチェリーノも、聖職者でありながら常に政治的な問題に向き合わざるをえない環境であった。戦後、外国人そして宗教人でありながら、日本の財界や政界に対し積極的なアプローチを続けたマルチェリーノの原動力は、時代を読み解きながら生きていかざるを得ない空気の中で培われていったものなのかもしれない。

 

ところで、なぜマルチェリーノは、日本に憧れを持っていたのだろうか?それもまた時代背景抜きには考えられない。マルチェリーノは少年時代のある日、近所の文房具店で一冊のノートを買った。するとそのノートの裏表紙には、日露戦争の様子が漫画で描かれていた。小柄な日本人が巨大なロシア人を打ち負かしている勇ましい絵だ。牛若丸が弁慶をやっつけているような大胆な構図を勝手に想像する。その絵を見た瞬間、マルチェリーノは例えようの無い感動を覚えた。なぜならば、マルチェリーノもまた、日本人のようにとても小柄だったからだ。彼は終生、自分の背が低いことに、コンプレックスを感じていたというが、そのコンプレックスを吹き飛ばしてくれたのが、小柄で勇敢な日本の兵隊たちが、巨人揃いの憎らしいロシア軍をやっつけている絵だったというわけだ。

 

その絵から受けた強烈な印象が、マルチェリーノに日本という国への強い憧れを抱かせることになる。日本が大国ロシアを打ち破った日露戦争は、1905年に終戦を迎えている。その時、マルチェリーノは6歳か7歳。男の子の多くが、戦争ものの漫画や冒険小説に心躍らせる年ごろだ。子供の目に映る戦争は、今ウクライナで目のあたりにするような悲惨な戦争というよりも、活劇のようなものだったのではないだろうか。ちなみに日本の代表的な兵隊漫画と言えば田川水泡の「のらくろ」だが、この「のらくろ」もやはり第1次と第2次大戦の間の時期に人気を博したユーモア漫画だ。

 

 チマッティ神父と会話を交わしてから9年もの歳月が流れた1934年の初夏。マルチェリーノに、またと無い機会が訪れた。 出張でローマを訪れていた時に、聖パウロ修道会の創立者アルベリオーネ神父とローマ市内の視察に出るという絶好のチャンスを得たのだ。聖パウロ修道会は当時すでに本部を首都のローマに移していた。アルべリオーネと車に乗りローマ市内を回っていたマルチェリーノは、タイミングを見て、意を決したように、話を切り出した。 

 

「ところでアルベリオーネ様! 今朝の新聞にとても面白いニュースが出ていました。それは日本人の外交官が洗礼を受けたというニュースです。彼は外交官を辞めてカトリックの本をたくさん買い、そして日本に帰国するそうですよ。素晴らしいニュースだとお思いになりませんか? どうでしょう、もし私を宣教師として遠いところにおやりになるなら、どうか日本に行かせていただけませんでしょうか?」 

 アルベリオーネは、思い詰めたような表情で熱く語り始めたマルチェリーノの様子に驚いた。そして尋ねた。

 「マルチェリーノさん、どうしてそんなに日本に行きたいのだね?」  

「ご覧のとおり私は小柄です。日本人もそれほど背が高くないと聞きました。 だから私が行けば警戒もされず、布教活動にはちょうど良いと思うのです」 

「ははは、君は愉快なことを言うね。実に愉快だ」 

 マルチェリーノの真剣な様子に、一瞬身構えたアルベリオーネだったが、その理由を聞いて思わず吹き出してしまった。しかし、マルチェリーノは、大真面目に語り続けた。

 「アルベリオーネ様、私は本気なのです……」 

「ははははは、実に愉快だ。では、ごきげんよう」 

 アルベリオーネは、笑うだけで返事をしなかった。そして振り返りながらもう一度笑って、車を降りていった。

 

去りゆくアルベリオーネの後ろ姿を見つめながら、マルチェリーノは、9年前にサレジオ会のチマッティ神父の背中を見送った時のことを思いだした。そして、大きくため息をついた。 

しかし、その後、マルチェリーノに思いもよらない事態が起きる。季節は秋になっていた。再びローマに出向き、聖パウロ修道会の本部に滞在していたマルチェリーノの元に、逆にローマからアルバに戻っていたアルべリオーネから一通の封書が届いた。封筒は節約のために何度も使い古したもので、 中には小さな紙切れが。そして、 それはアルベリオーネからの「緊急通知書」というものだった。 手紙には、たった2行の短い走り書きがあった。

 

『マリチェリーノ神父。あなたもそろそろ外国で支部を設ける仕事をしなければなりませんね。だからハンガリーか日本か、どちらかを選びなさい!    アルベリオーネより』

 

マルチェリーノは驚いて飛び上がった。聖パウロ修道会の創立者であり、尊敬するアルベリオーネに、千載一遇のチャンスとばかり願いでたものの、あえなく笑って流されたと思い込んでいた。「宣教師になる夢は、もうあきらめるしかないのか。」そう考えていた矢先に、手紙が届いたのだ。これは夢か。どうやらそうではなさそうだ。しかしマルチェリーノは2つの候補を示されたことで悩んだ。ひとつは日本だったが、もう一つのハンガリーもまた、ハプスブルク家の統治が終わりハンガリー王国として新しい歴史を刻もうとしていた魅力的な国だったからだ。同じヨーロッパなので、身近にも感じる。ブタペストでドナウ河の河畔に立つ自らの姿を想像すると心躍るものがあった。一方、日本で活動する自らの姿はなぜか想像がつかなかった。憧れていたのは、子供の頃に出会ったノートの裏表紙の世界。本当の姿は、漠然としたイメージのままだ。異界とも言うべき東洋の、しかも極東の謎の国。マルチェリーノは少し不安になった。

 

『これは大変なことになった。しかし、急にどちらにするかと言われても。

 悩みに悩んだが、結論はでない。身を二つに割ることができれば良いのだが…。マルチェリーノは、興奮で少し震える手でペンを握り、手紙に次のようにしたためた。

 『アルベリオーネ神父様、私にはどうしても選べません。あなたが選んでください』

 

 マルチェリーノは、手紙をポストに投函したが、その手紙がアルバに届く前に、アルベリオーネからさらに2通目の手紙が届く。マルチェリーノは緊張した。ハンガリーが選択肢に加わったということは、やはりハンガリーに向かえということなのかも知れない。もしかすると、外国への派遣は止めることにしたと書いてあるかも知れない。2通目の手紙を手にすると、再び日本に行きたいという思いが湧き上がってきた。いわば合格発表だ。マルチェリーノは、心臓の小さな鼓動も感じながら、その封筒を開いた。2通目の手紙には、次のような指令が書かれていた。

 

『マルチェリーノさん。これから最初に出る船で、さっそく日本へ向かいなさい』 

 

マルチェリーノは、日本に決まった驚きと喜び、そしてすぐに行けと命じられたことへの戸惑いで、再び飛び上がった。1934年の10月17日のことだった。マルチェリーノ、32歳。体も心も働き盛り。興奮と緊張で、また体が震えた。武者震いだった。

 

一夜明けた18日、マルチェリーノは朝早く飛び起きると、慌ただしくローマの中心部に向かった。観光地としても知られるスペイン広場。そこには多くの船会社が軒を並べている。マルチェリーノは、2つの鐘楼が並び立つローマの観光スポット、トリニタ・ディ・モンティ教会を目指した。137段もある広く大きな階段を上っていく。この階段、映画好きならもう説明は必要ない。「ローマの休日」で、オードリー・ヘップバーン演じるアン王女がジェラートを食べる名シーンの舞台だ。オードリー・ヘップバーンと同じ階段を、その十数年前にマルチェリーノが上っていった光景を思い浮かべるだけでも楽しい気分になる。

現在のスペイン広場とトリニタ・ディ・モンティ教会

 

「マーテル・アドミラビリス」と名付けられた有名な壁画でも知られるトリニタ・ディ・モンテ教会は当時、聖心女子学院であった(今では聖心会ではなく、同じカトリックのエマヌエル会が入っている)。なぜ最初に聖心会に向かったのかと言えば、マルチェリーノは、東京にも聖心女子学院があることを知っていたので、紹介状をもらうことにしたのだ。知り合いもいない日本で、頼るべき場所をひとつでも多く作っておく必要があると考えていた。マルチェリーノは、汗をかきながら教会に到着すると、無事にミサを立てることができた。

 

一息ついたマルチェリーノは、さっそく船会社を探し始めた。しかし、残念なことにすぐに出航する船は見つからない。歩き回った末に、イタリア半島北東のトリエステを出発し、南東のブリンディジを経由して上海に向かう「コンテ・ヴェルデ号」という船が、11月初旬に出航することが分かり、すぐに予約をした。

「コンテ・ヴェルデ号か」

マルチェリーノは船の名前を小声でつぶやいてみた。日本語では「緑の伯爵」。マルチェリーノにとって未来に向かうわが身を預ける伯爵号だった。実は、このコンテ・ヴェルデ号はその後、歴史に翻弄された末に悲しい最期を迎えることになる。それだけではない。コンテ・ヴェルデ号の運命は、信じられないことに、マルチェリーノ自身の運命をも左右することになるのだ。コンテ・ヴェルデ号のことは、今度改めて紹介しよう。もちろんだが、ようやく船を予約して安堵したばかりのマルチェリーノには、自分の身に将来起きうる嘘のような本当の話は想像もできない。ただひたすらに海風を、頬と大きな額に受けながら、東洋を目指す自らの姿が頭に浮かんでいただろう。異国に向かうことへの不安もあったが、それを遥かに超える冒険心に溢れていたであろう。マルチェリーノはすぐにアルべリオーネに電話をし、船便の予約が完了したこと、そして船の出発は11月になったことを報告した。

 

スペイン広場には、布教聖省(ふきょうせいしょう)というローマ教皇庁の重要な建物がある(現在では、福音宣教省と呼ばれている)。ローマ教皇庁の重要な省のひとつで、カトリックではない国における宣教を司るところだ。日本もそれに該当した。布教聖省には「赤い教皇」と呼ばれる長官がいる(ちなみにローマ教皇は白い教皇、イエズス会の総長は黒い教皇とという愛称で呼ばれる)。マルチェリーノが、日本へ向かうという挨拶に向かったところ、係員が「マルチェリーノ神父、日本で活動する許可はもらいましたか?」と訊いた。そこで、マルチェリーノは答えた。「私にはわかりません。きっと、うちの創立者がもらってくれたのでしょう。私は、ただ行けと言われて行くだけです」すると、係員は「ああ、そうですか」と生返事をしたものの、少し不安そうな表情を浮かべた。マルチェリーノは、長官(赤い教皇)にも無事会う事もでき、祝福を受けたのだが、長官からも同じ質問を受けた。「ところで、許可はありますよね?」さすがに一抹の不安を覚えたマルチェリーノだったが、再びこう答えた。「もし許可を取っていなければ、そのうち取ります。」長官は答えた。「それはそうだね。」

そんなやり取りがあって、結局、マルチェリーノは、布教聖省を後にしたのであるが、「許可」は取っていなかった。そしてマルチェリーノ達は許可を取らないまま日本に向かうことになる。

 

 マルチェリーノとともに日本へ向かうことになったのは、彼よりも4歳年下、28歳のロレンツォ・ベルテロ神父だった。ベルテロが日本行きを命じられたのは、マルチェリーノが命じられた約10日後、10月の終わりだった。ベルテロは手紙ではなく直接伝えられている。多くの書類を手に現れたアルべリーネは笑顔でベルテロに語りかけた。「ベルテロ神父、ここにあなたの出生証明書や国籍証明書などがあります。これを全部、ローマのマルチェリーノ神父に送りましょう。彼があなたのパスポートを準備してくれます。あなたはマルチェリーノ神父とともに、宣教師として日本に向かうのです。よく祈り、そしてよく準備しておきなさい。」 

 

ベルテロは自身の著書 『日本と韓国における最初の聖パウロ会宣教師たち』の中でこう書き残している。 

「幸福感に包まれ、私は内廊下に出て階段を上り下りした。私は神学生たちや友人の若い司祭たちの教室に行って叫んだ。『おーい、おーい。神学の先生が私を日本に派遣する。世界の首都,日本へ! 』私はすっかりのぼせあがっていて皆を笑わせてしまった。皆は私の言うことを信じようとせず、いつもの冗談だと思っていた。」

 

コンテ・ヴェルデ号には、日本に向かうマルチェリーノとベルテロ、そして中国に向かうエマヌエレ・ファッシーノ神父とピオ・ベルティーノ神父の4人が乗り込むことになった。船代は、創立者アルべリオーネが用立ててくれたが、これだけでは足りない。出発までの3週間で、4人は残りの長旅にかかる費用と、到着した現地で布教活動をするための費用を寄付で集めることにした。集まった寄付は、マルチェリーノは2万リラ、ベルテロは3万リラだったと言われている。リラは戦前から貨幣価値が不安定なので単純な計算は難しいが、高級な車1台は変えるくらいの資金は集まったのではないか。

 

準備も終えた。お金も持った。いよいよ極東に向かい出発する日、マルチェリーノ達は、自分たちを東洋に送り出してくれる創立者に一目会いたくて、一日中探し回り、ようやく面会を果たした。

 

「アルべリオーネ様、修道会の協力者たちが寄付を下さいました」

「そうですか。皆さん寛大ですね。神に感謝します! さあ、それを私に預けなさい。大きな功徳になります。あなたたちが必要な時にはお金を送ります」

「えっ、全額ですか??」

「いいえ。あなたたちには、500リラを与えますよ」

 

500リラは、船の中での洗濯代や給仕へのチップ代程度だった。

 

「その代わり、私はあなたに祝福を与えます。それはお金のように多額ではありませんが、必ず役に立つものです」

「承知、しました……」

 

このエピソードは、マルチェリーノやベルテロが、晩年になってからも日本の修道会のメンバーによく語った逸話だ。実に悲惨な話にも思えるが、この話をする時、彼らはいつも楽しそうだったという。いわば「持ちネタ」と言って良い。お金も持たずに見知らぬ国に向かうという厳しい環境を作ることで、アルベリオーネは、若い神父たちに何かを教えようとしたのかも知れない。もちろん当時は修道会の経営も厳しかった。様々な事情や考えがあったのだろう。ともあれ、4人はほとんど無一文で日本や中国に向かうことになったのだ。

 

次回に続く

 

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// 2022.04.28追加