「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」

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第1章「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」はこちら

第6章「帝都の玄関口、東京駅に救世主は現れた」はこちら

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」はこちら

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」はこちら

第10章:「大森での新生活がスタートした」はこちら

第11章:「初めての信徒」はこちら

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに

 

 

 

 

〜プロローグ〜

バタフライ効果という言葉がありますね。蝶々が羽根を動かしただけなのに、遠くで竜巻が起きる。些細な出来事が一見何の関係も無いようなことに影響を与えることの比喩ですが、それが70年前に現実となりました。北イタリアで神父が本を買いに出かけたことがきっかけで、日本にラジオ局が誕生したのです。それが文化放送です。

 

こんにちは、文化放送報道デスクの鈴木敏夫(鈴木びん)です。

日頃は、「田村淳のニュースクラブ」や「伊東四朗・吉田照美の親父熱愛」などで、ニュース解説をリスナーの皆様にお聴き頂いております。

文化放送は、2022年3月から4月にかけて、開局70周年関連の番組を連日お送りして参りましたが、お楽しみ頂けましたでしょうか? 私も「第5スタジオは礼拝堂」という番組を制作し、3月31日(金)午後3時半から放送しました。この番組は、元々は5年前に放送したものなのですが、新たに調べ直した内容を加え、ナレーションも改めて収録しました。格好良く言えばリメイク版というわけです。4月7日まではラジコのタイムフリーで聴けますので、宜しければ「ご一聴」下さい。そして今日から、この番組のブログ版なるものも、毎週火曜日に更新してゆくことになりました。今日は、その前書きです。

 

私は、昭和63年4月に文化放送の社員になったのですが、入社した当日に「不思議だな」と感じたことがあります。 社内名簿の監査役の欄にパガニーニさんという外国人の名前があったのです。「外資系でも無いのになぜ外国人がいるのかな?」この疑問はすぐに解けました。社屋の隣にある聖パウロ修道会が、わが社の株主であり親のような存在であること。イタリアの修道会なので、イタリア人の神父が監査役を務めているのだというような説明を人事部から受けたのです。心の「へえ」ボタンを押して納得はしたものの、それ以上深くは考えず、その話もいつのまにか忘れてしまっていたのですが、先述したように、5年前の番組がきっかけで、入社当時感じた様々な疑問と改めて向き合うことになりました。

 



 

ここまでの文章を読んで、四谷の社屋にいらしたことのある方なら何となく思い出すことがあるかもしれません。「そういえば四谷時代は教会みたいな不思議な建物だったな」と。正確に言えば「教会みたい」だったのでは無く「教会」だったのです。文化放送を設立したイタリア人は、マルチェリーノというイタリア・トリノ生まれのカトリック聖職者でした。胃潰瘍を患っていたとは思えないほどパワフルで陽気、時に短気、小柄で義理人情に厚くニックネームは「豆タンク」でした。

 

では、何故イタリア人が日本のラジオ局を作ったのか、簡単に説明しましょう。それはNHKの連続テレビ小説のテーマにして頂きたいほどの合縁奇縁でつながった不思議な物語です。きっかけは、100年近く前にイタリア・トリノに住むチマッティ神父が、アルバという小さな町の修道院に本を買いに出かけ、マルチェリーノという若い神父と雑談を交わしたからでした。もし、その時、2人が顔をあわせていなければ、文化放送は誕生していません。もしチマッティが訪れた時、マルチェリーノが昼食に出かけていて、別の神父が対応していたならば、今「親父熱愛」も「ゴールデンラジオ」も「ライオンズナイター」も存在していないのです。それは間違いありません。偶然を超えた必然なのでしょうか?これを運命と呼ぶのでしょうか?

 

いきなり謎かけのような話で恐縮ですが、その謎はこれからゆっくり解き明かして参ります。成り立ちの不思議さは、結果としてその後の社内運営の難しさも産みました。開局当初の社内の軋轢は相当根深いものだったようです。放送史を綴ったドキュメンタリー系の書籍を読むと、当時の文化放送は「内紛放送」と言う、実に有難くない異名を頂戴していたことがわかります。私も当時の資料を調べてみました。結論としては「内紛」としか言いようがありません(苦笑)。

 

 しかし、私は「これは内紛であると同時に、熱き人間ドラマではないか」とも受け止めました。もちろん順風満帆の経営であれば、ドラマの題材になるはずもありませんが(苦笑)。 それにしても、ちょっと熱すぎるんじゃないかと思えるほどのエピソードの数々。最初は、自局のユニークなエピソードを紹介してみようと考えただけだったのですが、調べてゆくうちに「ひょっとしたら、これらの話は、日本の戦中戦後史のひとつとして記録する価値があるのではないか」とまで考え始めてしまったというわけです。頑固で負けず嫌いのイタリア人が、不撓不屈の精神で戦時中の空襲や官憲の圧力の中を生き延び、戦後は細いロープの上を綱渡りしながら(時には転落しながらも)這い上がり、最後は猪突猛進、一気呵成に異国の地に放送局を作るという夢に辿り着いた。こんな冒険奇譚が身近にあったのだという事に私は正直驚きました。そしてその夢のゴールが、決してハッピーエンドにならなかった切なさもまたロマンなのだと思います。そう言った話も、これからゆっくりとご紹介してゆきます。

 

番組もブログも、タイトルは「第5スタジオは礼拝堂」です。タイトルの由来は、一言で言って「本当にそうだったから」です。第5スタジオは、四谷の旧社屋の2階にあったもっとも広いスタジオですが、教会のような建物の中でも、ひときわ強いオーラを放っていました。薄暗くモダンな空間で、空気も少しひんやりしていました。実はこのスタジオ、開局当初は本当に礼拝堂として使われていたのです。いずれ写真もご紹介しましょう。厳かなムードのスタジオで、1950年代は近衛管弦楽団や日本フィルハーモニーがクラシックを奏でました。60年代や70年代は「はっぴいえんど」や「ゴールデンカップス」らロックバンドが名演を繰り広げた伝説の空間。CD化されているものもあります。新人歌手の浜崎あゆみさんがこのスタジオで歌った時、私は「この新人さん、歌がうまいなあ」と感心したことを、今書きながらふと思い出しました。土居まさるさん司会の人気番組「ハローパーティー」もこのスタジオからの放送です。とある悪役プロレスラーに「俺、学生時代。ハローパーティーの見学で、ここに来たんだよ」とニコニコ顔で言われた事もあります。キリが無いので、このあたりにしておきましょう(笑)

 

そしてこのスタジオ、少しいわく付きでもありました。某レコード会社の青山にあるスタジオと、文化放送の第5スタジオが代表的な「業界怪談」スポットだったのです。幸か不幸か、私は一度も経験したことはありません。バレーボールのコートくらいの広さのスタジオで、私は新人アナ時代に毎朝、発声練習をしました。大きな声を出していると、決まってお掃除の女性が入って来て「あら、今日も頑張ってるわね」と声をかけてくれた思い出の場所です。

 

今回、5年ぶりに改めて多くの参考資料に触れる機会を得ました。聖パウロ修道会や聖パウロ女子修道会には貴重な文章資料や写真の数々が整理・保管されていますが、驚くべきことに、これらの記録は、文化放送本社にはほとんど残っていません。まるで終戦時の軍部による証拠隠滅や近年の財務省スキャンダルのような話ですが、その理由も来週からの本文で触れてゆきます。そんなわけで、カトリック側の資料を骨格に、社内に残された過去の音源、国会議事録、国会図書館、その他、参考文献で肉付けする作業を進めました。当時を知る関係者にもインタビューしましたが、落語のネタになるような逸話も数多く発掘することになり、実に楽しい作業でした。

 

マザー・テレサは言いました。「偉大なことをする必要はない。ただ大きな愛をこめて小さなことをしてください」と。 自動車メーカーが車を作るように、文化放送は日本の文化を作ろうともがいていたようです。小さなラジオ局から大きな愛をこめて語りかけ、そして曲を届けてきました。 不要不急な存在かもしれない、でも「たかがラジオ、されどラジオ」なのだ。 そんな思いを新たにし、文化放送の歴史を辿ってみました。

 

このブログ版「第5スタジオは礼拝堂~日本文化放送教会、その始まりの物語」は、毎週火曜日に更新していく予定です。集めた情報が拡がりすぎてしまい、サグラダファミリアのように、ゴールが見えなくなりつつあるので、この連載がいつまで続くかは未定ですが、頑張ってみます。

ブログ版「第5スタジオは礼拝堂~日本放送協会、その始まりの物語」 どうぞご愛読下さい。

第1章はこちら

 

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// 2022.04.28追加